国崩し伝来記                                       リンク:「大友宗麟の大砲

          「国崩しは天文20年には豊後へ伝来していたのか ?

           「国崩し」は日本最初の大砲とされる。古くには「石火矢」と呼ばれたものを「大友義鎮(宗麟)」が
           「国崩し」と命名したともいう(鉄砲は、手火矢といった.。)
     
         「国崩し」のレプリカの展示してある宗麟ゆかりの「臼杵城址公園」の説明碑文には天正4年(1576)、
         「沸狼機砲(フランキ砲・国崩し)」ポルトガル人より送られたと説明している。
         国崩しは、大友の耳川の戦いのほか、豊薩合戦での臼杵城での島津撃退の実戦に用いられた。
         伝来の詳細は詳しく調査していないが、ポルトガル人を伝にインドから届いた。あるいは、豊後でなく
         肥後玉名を経由したとするもの様々であるが、矛盾する記述もある。
         「豊前文書」によれば、天正2年3月(1574)立花山城に「石火矢二門」が届いたことが伝えられている
         と言う。これには「九州諸国の者夥(おびただ)しく取沙汰申候」とも。
         この事が史実ならば「国崩し」は、豊後府内よりも立花山城「戸次鑑連」のもとに二年も早く届いたこと
         になる。 鑑連は、多々良川の舟渡し「松崎」まで出向いて見届けたのだと言う。
         しかし、大友本家より西の大友立花山城へ配置されたとは考えにくいので、それ以前豊後へ入ったと
         見るべきである。
         ただ、立花山へ届いたものが正真正銘、国崩しであったかは分らない。 鑑連の「ァ千代」への譲り
         状には「大鉄砲15張、小筒1」とはあるが「国崩し」の名は見当たらない。
         鉄砲は「手火矢」と呼んだので「大鉄砲」を石火矢と混同したとも考えられるが、15張りは多すぎる。

         「豊筑乱記:九艘唐船之事」に鉄砲の伝来の事と共に、「国崩し」伝来を伝えられている。
         これによれば、天文20辛亥年(1551)豊後へ鉄砲伝えた南蛮国から大砲が届いた事になって
         いる

         天文20年となると、この年の8月、イエズス会宣教師「フランシスコ・ザビエル」が「大友義鎮(宗麟)」の
         招きで豊後国入りしている。それも義鎮の目的は「新兵器」の調達の為であったとされている。
          以下に「豊筑乱記」より紹介する。

         「さて南蛮国の船ども、商売のた易く仕舞ひければ、順風に出帆し本国へ帰りける。
         その後数年さし過ぎ
天文20年辛亥年石火矢とて大筒式挺南蛮国王より進物として義鎮公
         (
原文義鑑、これは明らかに誤り。天文20年には義鑑は既に討たれている)へ遣わしける。
         一挺は大の筒にて筒の穴口、四寸余りあり。一挺はこまかき筒にて穴の口三寸余りありける。
         この筒を一度に放せば、その響きにて高山岩石も崩れ、大地も震ひ割れるべしと覚えたり。
         この石火矢国崩しと沙汰して、されば大友代々九州を掌(たなごころ)の内に治め給ふ事厳重
         なり。その威勢異国へも聞へ、南蛮国迄も隠れなければ、かくの如くの重宝持つ大友義鎮を
         崇敬する事は、古今に例すくなく事どもなり」

         この様に伝え、天正4年説とは異なるが、永禄元年3月16日(1558)大友義鎮は、「石火矢」を将軍家
         に送ったともされ
、豊筑乱記の記述は正しいのではないかと思える。
         即ち、天正4年の物は最初のものではなく、義鎮が南蛮国に注文していたものを、ポルトガル人が
         肥後まで届けた。これを豊後へ運んだとするのがよいのではないか。   

         「国崩し」藩政時代臼杵城の入った「稲葉氏」の所有する所となったが、廃藩のおり、政府に奉納され
         現在は、靖国神社へ置かれている。口径が9,5cmあるそうで、大友豊築乱記の伝える「大の筒」で
         はなく「こまかき筒」の口径とほぼ整合する。

            管理人は、平成21年9月29日「靖国神社」にて実物を確認した。長さ2,88m 口径9,5cm
            明治14年5月23日砲兵第一方面より移管された。
            「国崩し」は靖国神社「
遊就館」有料展示二階の入り口付近においてある。

                   
                            臼杵城址の「国崩し」レプリカ
                   写真でわかるように、国崩しの後部は箱状に開いている。これは
                   この大砲は、直接火薬弾丸を込めるのではなく、あらかじめ火薬
                   弾丸を込めたカートリッジ(副砲)を装着し発射するためという。
                   このため圧力の飛散があって、あまり射程が伸びなかったという。
                   また、そのため青銅製の砲身が暴発せずにすんだとも。

                   当時の「国崩し」の構造には疑問も残る。「宗麟」が臼杵城にて
                   島津勢を撃退した時「火薬一貫目、大玉小玉二升ばかり詰めて
                   三町先の島津勢めがけて・・」とされているので、写真のような
                   構造ではそれは困難な気もするが・・散弾砲・・?・・
                                               良くわからない。」

         国崩しの性能
            
さて、国崩しの性能はどの程度であったか。
          「宗麟」が「国崩し」で
島津軍を撃退したとされる臼杵城では、島津軍に大きな損害与えた「兎居島」
         までは、およそ三町(330m)余りである.
         高城・耳川の戦いでは、大友軍は島津の「高城」に対峙する「松山営」に陣を敷いた。「高城」までは
         5〜6町、「国崩し」は効果はなかった。
         このことから、国崩し弾丸の持矢倉(飛距離)は三〜四町程度ではなかったか。
         島原の乱の折、幕府軍は海上の異国船より大砲を原城へ向け打ち込んだが達しなかなかったという。
         このため艦砲を陸へ上げて撃ったとされる。当時の大砲の威力はこの程度でしかなかった。


         豊後石火矢師

          豊後国は、良質の黒砂(砂鉄)が採れたことから鋳物技術が発達し、高田(豊後高田市)、丹生
          (にゅう・大分市)、駄原(だのはる・大分市)には優れた鋳物師集団がいた。その技術は周辺諸国や、
         四国まで聞こえ、豊後鋳物氏銘のある梵鐘が伝わる。
         これらの鋳物師は「鋳師、鋳工、大工、冶工」と呼ばれた。
         例えば、四国松山市「太山寺」の梵鐘には、「豊後州丹生荘大工正悦造」。また熊本県小国町にある
         享禄4年(1531)の梵鐘には「豊後国笠和郷駄原村大工藤原氏樹新右衛門景次」の銘があるという。
         さらに寛永13年(1636)の江戸城田安門金具」には「九州豊後住人石火矢大工渡辺石見守康直作
         の銘があるという(大分歴史事典)。
         渡辺一族は優れた鋳物師族で、祖となった「渡辺宗覚」は「大友義鎮(宗麟)」の家臣で「石火矢」の
         製法から撃ち方まで習得した名人で、宗麟時代から江戸初期にかけて活躍した。
         「宗覚」は「徳川家康」に認められ100石を拝領「康」の字一字を許され「康次」を名乗り、以後「康政」、
         「康直」、「康種」、「康利」と代々「康」の字を用いた。
         「大友宗麟は恐らく日本で最初に「大砲」を製造した武将である


                                            参考資料   豊筑乱記
                                                     大友公御家覚書
                                                     大友記
                                                     大分歴史事典
                                   トップへ