車帰し軍之事(くるまかえしいくさのこと)

         「青年武将 戸次鑑連の激

       「戸次軍談」には「車返し」とある。
         「車帰し」とは、熊本県阿蘇市にある地名である。阿蘇盆地(阿蘇カルデラ)の西端に位置し、JR
       豊肥線「赤水駅」の西2kmに位置する。集落の背後はカルデラの縁(へり)に位置することから急峻な
       斜面となっている。九十九折(県道23号)に登ると「二重の峠」に至る。
       この場所は、古くから交通の要所で、藩政時代には豊後へ抜ける肥後街道(清正公道)も通っていた。
       進むと現在は、大津より阿蘇外輪山廻るへスカイラインへ通ずるミルクロードが交わる。
       天文4年(1535)、23歳の青年武将戸次鑑連」は、この車帰で肥後菊池勢と激しい一戦を繰り広げた。
       鑑連の豊後よりの経路は定かでない。
       推測に過ぎないが、豊後大野郡藤北(鎧が嶽)から直入(長湯)、久住付近より城原(神原)経て、豊後
       街道沿いに阿蘇盆地へ下り、黒川の右岸沿いに「車帰」に到ったと見られる。
       戸次軍談は険隘の地と伝えていることから、恐らく菊池勢は「二重之峠」より車帰を見下ろす付近に、
       野陣を敷いたと見られる。 以下、戸次軍談を引用し紹介する。

        天文4年乙未の秋、肥後隈府「菊池氏」の支族の「赤星氏」らが大友に叛旗した。
       (菊池氏は、南北朝期を中心に活躍した肥後の名家であるが、大友義鑑の頃大友に下り「菊池武包」
       を追放、義鑑の弟「重治」が肥後守護職として菊池に入り「菊池義武」を名乗った。しかし菊池の支族
       はこれを良しとしなかった。義武もまた肥後領地狙って、大友離れの独自の動きをとるが、天文23年
       兄義鑑の死後、家督継いだ義鎮に豊後へ誘い出され、直入の神原辺りで謀殺される)
       大友義鑑はこれを鎮圧するため青年武将「戸次鑑連」に出陣を命じた。「鑑連」は三千余騎を引きつれ
       豊後発ち肥後へ向かった。鑑連には大叔父「親正(親延)」の子で従兄弟違いの「戸次親宗」が帯同
       した(親宗は、後年の 休松の戦いで討ち死)。 一行が隈府城まで五里余り「車帰」に到った時、
       菊池の支族「家老の赤星」らの軍勢が待ち受けていた。
       菊池勢の「赤星、隈部、城、鹿子木」らが険隘急峻な地形利用し、三方より「鑑連軍」に襲い掛かり、
       戦いは火の出るか如く激しいものとなった。さすがの戸次軍の精鋭も攻めあぐねていた。
       そこへ、肥後の郡将「合志某」(時代考証より、合志常陸介とみられる)と言うものが鑑連援軍として
       馳せ参じて来た。
       しかし鑑連は、配下の「海老名肥前守」を遣わし、「援兵のため、この地まで御出勢のこと祝着至極に
       なれど、御馬を退いて下さるべし」「合戦において、若し難儀あらば援軍を頼みべく候」と告げた。
       若き武将「鑑連」は馬を乗り回し、士卒にを飛ばした。「切るとも、突くとも顧みず、この地において
       討ち死を極めよ。黒心(きたなきこころ)あるべからず。」と無二無三に切り込んでいった。 この時、
       百戦練磨の勇士 「戸次親宗」 真っ先に進んで駆け立てて行った。
       菊池勢も合図を乱さず太鼓を打ち鳴らして応戦してきたが、鑑連の軍卆の勢いに鉾先を折られ、脚立
       (あしもと)も取次(しどろ)になって、どこともなく裏崩れし菊池勢は敗北、終に降参した。
       「鑑連」は助勢の「合志勢」に礼を述べ、陣を収めた。
       この後も、豊後、筑後の諸城主度々大友に叛いたが、鑑連は向かうたびに是を討伐したという。

                                               参考  戸次軍談(彦城散人)


                
                                            道路地図帖(ワラジヤ)より加工