久留米高良山合戦


     「大友興廃記」の伝える「立花(戸次)道雪」最後の合戦の様子である。


      天正12年9月4〜5日の総攻撃により、猫尾城に「黒木家永」を討った「立花道雪」「高橋紹運」、組した
     筑前国、豊後の諸勢は久留米「高良山」まで引き、此処に本陣を尚も肥前「竜造寺」と対峙した。
     この大友勢に対し竜造寺勢は三万余もの軍勢を引き連れ、高良山近辺の山の手一帯に陣を展開、馬印、
     笠印を靡かせ段々の備えとった。(竜造寺隆信、天正12年3月沖田畷にて戦死している。竜造寺は、鍋島
     信生に変わっていた。)
     一方、高良山に陣する豊後勢は「戸次紀伊入道道雪」「高橋紹運(紹雲)・朽網三河入道 宗歴」を大将に
     九千八百余騎。三将に随うは、豊後より玖珠、日田、国東、南部衆が参陣していた。
     豊後勢の先鋒は岩屋城「高橋紹運」率いる三千余騎。軍を段々に備へ臨機応変。川辺りに付いては長蛇
     に備え、池、沼によっては蛇曲に構えた。さらに後陣は鴈行(鴈飛行形、への字形)に備えた。
     朽網三河入道は、高良山腹に軍を展開「鳥雲の陣形(多くの鳥が群れて集散すると雲に見えたりするとこ
     ろよりついた。または鳥雲の集散の形。臨機応変の陣形)」に備えた。
     「戸次(立花)道雪」の家臣、京都五六兵衛尉、萩之尾大学兵衛尉、この両人は侍大将にて道雪の浮武者
     (遊撃兵・各所に散開伏し、戦況に応じ敵を突く)道雪陣よりはやや間を於いて、手勢を忍ばせ陣を取った。
     先陣の高橋紹運は、先ず足軽鉄砲二百挺を大縄手(大きく横一列、大縄を引いた陣形) に銃口を出し、
     夫々一つ宛鳴らして(発砲して)様子を覗った。一方肥前勢も足軽繰り出して是をあしらう。
     序戦、両勢の懸かりあい見ていた先陣大将「高橋紹運」の采配が振られた。紹運の采配に付け、先陣は
     竜造寺勢目掛け一気に瞳(どう)と架った。対する肥前勢も相懸かりに突いて架かる。両勢大縄手に競り
     合う中、高橋勢は旗色悪く引き始めた。
     高橋勢はあしあしとなって引く。是が紹運の策略とも知らず、この動向に肥前の三備えは、この時とばかり
     瞳と追い込んできた。此の深追いの肥前勢に高橋勢討って返すこと三度。肥前竜造寺勢懸れば討たれ、
     引かば討たれ、肥前勢は多くの討ち死がでた。
     その戦況の中、伏せていた「道雪」の機動隊、浮武者「京都五六兵衛、萩尾大学兵衛」の手勢が横矢入れ
     肥前を攪乱。この機に右翼に引いて控えていた高橋先陣の軍卒一面に「鏃(やじり)」の先を並べて突きか
     かった。豊後の先陣後陣も馬の「轡」並べ采配に従い、采配に付き肥前勢を攻め立てる。
     肥前勢は深田に馬を突っ込む者、沼、池に嵌る者続出、肥前勢は悉く敗退。
     この合戦で豊後勢の討ち捨てた雑兵は数知れず、討ち取った甲首は百八十七に上った。豊後勢の損害は、
     玖珠、日田勢に十一人が戦死、九人の手負いであった。
   
     敗軍した竜造寺勢は、新手を入れ替え再び軍を進めてきた。長土手(高良川堤防?)を前面に五段の備え
     で陣を取った。
     迎える豊後勢、この度の先陣大将は「立花(戸次)道雪」、先陣は道雪の重臣「十時摂津」「由布雪可」。
     前陣とは一際替えた衆立となった。 
     「道雪」後陣には「竹廻進士兵衛尉、四月一日左三兵衛尉」。この度も道雪、鉄砲百二十挺を出し、肥前勢
     へ寄せ接近して撃ちかけた。肥前勢も鉄砲七〜八百挺揃え、暫く鉄砲の撃ち合いとなる。肥前勢は余りにも
     激しく、多数の鉄砲を撃ちかけたため、その音は山々にこだまし、硝煙立ち篭り周囲の様子も見えず、却っ
     て不自由な状況となった。
     道雪陣は、さほど鉄砲撃ちも控えたので視界は良かった。此の状況の下肥前勢は猛然と押しかけてきた。
     道雪の先陣「十時摂津守」「由布雪可」互いに計り是を退け、肥前勢の先陣を一挙に追い立てた。豊後勢の
     激しい邀撃に肥前勢、もちこたえられず後陣に入れ替わる。豊後勢も後陣が加わり双方入り乱れ激しい戦い
     となった。
     激戦の中、豊後勢は道雪采配のもと、十時摂津、竹廻進士兵衛、由布雪可、内田玄壽らが二手に別れ、
     肥前勢の武将、野上清四郎、矢内といった究意の荒武者を鑓下に討ち捕る。
     此の戦況の中、「道雪」は馬符を寄せ「法螺貝」吹かせ軍を鼓舞、是に豊後勢、勢威を増大し肥前勢に押し
     懸った。
     「鳥雲の陣」方々へ配置していた浮武者勢、鳥のごとく、雲のごとく起こり出て肥前勢に襲いかかった。つい
     に肥前勢は敗走した。
     豊後勢の戦果は、肥前勢の甲首二百八十三。討ち捨てた雑兵は多くに上った。
     此の合戦で高良山座主より、法師武者など七百ばかりの手勢が加わったが、合戦には加わらず、後詰を
     果たしたという。勝利した豊後勢は高良山で首実検し勝鬨をあげた。
     これが、「立花道雪最後の合戦」となった。

      通説では此の後、「立花道雪戸次鑑連)」は、高良山より、千歳川(現在の筑後川)越え対岸の北野へ
      渡り「北野天満宮」へ陣替えし病に倒れたとされる。


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                                               引用資料  大友興廃記 第六