高勝寺城玖珠城 : 大分県玖珠郡玖珠町

            「大友氏の内紛と南北朝争乱

     玖珠町の南に「伐株山(686m)」と云う山がある、「玖珠」の地名の由来となった山である。言伝えによれば、
    この地域には多くの樟が繁茂していたと云う。「むかーしむかし」ここには天をつく巨大な樟木が立っていた、
    この為日が当らず大地は暗くじめじめとして作物は出来なかった。人々はこの大樟木(楠木)を倒そうとしたが
    難行した。そこへ大男が通りかかり樟を倒そうとしたがいくら伐っても倒すことが出来なかった。ある時「ヘクソ
    カズラの精」が現れそのお告げでの通り方法でようやく樟の大木を倒す事が出来た。その巨大な樟木が倒れ
    た時、此処一帯にあった湖の土手が壊れ玖珠川が出来、陽がさして「日(陽)田、夜明、光岡」などの地名が
    生まれたという。また倒れた大樟の先端は阿蘇の湖の土手も崩し阿蘇盆地が出来たそうな。伐株山はその
    倒された樟木の切株だという民話である。
    参考までに、九州の樟の自然原生林は筑前立花山の大樟原生林が北限とされている。

    「伐株山」は大分県の玖珠町市街の南にそびえる、あたかも大伐株に見える山である。南北に比高360mの
    台地よりなる。かっては此の山には「高勝寺(こうしょうじ)・高正寺・興正寺・洪樟寺」と呼ばれる山岳寺院が
    あり、伐株山はこの「高勝寺」が寺院城郭として発展した山城「高勝寺城跡」である。
    伐株山が山城化するのは建武3年(1,336)の事。建武2年(1,335)「箱根竹下の戦い」において「大友貞載」の
    活躍で「新田義貞」率いる南朝軍へ勝利し京入りした「足利尊氏」であったが京の制圧には失敗九州へ下る。
    尊氏は、建武3年(1,356)「多田羅浜の戦い」で「菊池武敏」に勝利するも南朝方(後醍醐天皇方)はこの「玖
    珠城」へ篭り抵抗する。南朝方が高勝寺城へ篭った訳はよくわからないが、この玖珠地方に皇室領地が多く
    存在し、その全てが皇室とは深いつながりのある京都「大覚寺統(嵯峨天皇建立の嵯峨院を嵯峨天皇の正子
    内親王が大覚寺と号した寺)」の領地であったことがその理由と見られる。高勝寺城へ篭る「敷戸普練」「加来
    弁阿闍梨」らは関係の深い皇室領稙田荘の霊山寺を占拠し府内へ乱入した。この時「戸次朝直」は大手将軍
    を努め瞬く間に是を制圧する。
    (京都の大覚寺は現存し、その表門は時代劇のロケ地として有名である。)
    南朝方の高勝寺城篭城には大友氏の内紛も絡んでいた。 大友氏六代「定宗」は家督の継承にあたり、長男
    「貞順」を差し置いて六男千代松丸「氏泰」とした。合戦の続く世の中、定宗は出陣の多い長男次男は戦死の
    恐れが高い。定宗はこういった事態での家督継承の混乱を避けたのである。兄弟の貞載は氏泰を支えたが
    「貞順(さだより)」は納得せず南朝方に付き、不満分子を集め一族の日田士寂、出羽季定と共に家督を狙っ
    て篭城軍に加わった。篭城組は敷戸普連、加来弁阿闍梨孫(かくべんあじゃり)孫五郎、沙弥道円といった
    豊後大神氏族の領主に加え、玖珠日田の地元から小田民部らの郷士が加わった。
    建武三年春「足利尊氏」は「一色頼行(一色太朗右馬助)」を総大将に「高勝寺城」を攻めに掛かる。攻め方は
    「大友大炊助」に、「戸次朝直」「戸次頼尊」「戸次頼時四郎入道」「志賀頼房」の大友支族に、郡内の清原
    野上勢、豊前からは野中、延入、田口、安心院、諌山、垂水勢。肥前より深堀時通・時継等が参陣した。
    太宰府を出発した攻撃勢は3月24日高勝寺城へ着陣した。高勝寺城の戦いは10月12日夜の落城まで実に
    8ヶ月に及ぶ長期戦となった。
    これは城の要害に加え水場の確保が出来た事、間道伝いに外部からの兵糧の補給があった為である。
    城内に兵糧を運んでいる者の存在を察した攻撃方は、地元の野上顕道が夜間巡回を続け兵糧を運びこんで
    いた日田郷士楢原兵衛次郎を捕らえた。是を指揮していたのは小田一族の魚返宰相房と云う者でったが
    落城時捉えられた。大友家の家督を狙って加担した「大友貞順」は自害したという。
    この戦いは南北朝相争う合戦の一つではあるが、本質は大友氏の単独惣領制へ移行する過程での宗家と
    庶子の争いが根底にあった。是に大友氏の豊後入府いらい不満を抱えていた豊後大神氏の流れを引く国人
    領主が加担したものと見られている。   
    その後高勝寺城は玖珠城と改められ「小田氏」の居城となっていた。小田一族は高勝寺篭城戦で敗戦するが
    復権していた。のちに応安6年(1,373)小田大和守が謀反する。大友親世は討伐隊を送るり城に追い込むが
    要害の玖珠城は容易には落城しなかった。
    時代は下って、永世13年(1,516には朽網親満が謀反玖珠郡へ入り、地元の親満党ら加え一斉に蜂起したが
    1,517年2月「大友親安(義鑑)」によって鎮圧される。
    天正14年(1,586)の島津豊後侵入時には、6,000の兵で玖珠城を囲んだ。城は容易には落ちなかったが、城
    内に裏切りがでて城に火を放たれ落城。戦死負傷460人、捕虜100の損害を出す。
    歴代の幾つかの戦いで明らかなように、高勝寺城(玖珠城)は伐り株に似た山容がごとく、攻めるには難儀の
    城であった。
    現在「伐株山」は頂上まで道路が通じ車で行くことが出来る。遺構は曲輪、土塁、空堀、竪堀跡など山城として
    必要な遺構が確認されている。

                    
                     国道210号より玖珠川越しに望む伐株山(H24.12.11PM)





                                            引用資料   大分歴史事典(乙 政巳)

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