生の松原合戦
「生の松原」とは福岡市西区、今宿湾に面しておよそ2kmに亘って松原の続く海岸線である。
名称の通り、白砂青松緑の美しいところである。「生の松原」の由来は「仲哀天皇」御宇に、神功皇后三韓討伐に
船で九州に降り立ち、筑前の濱で軍立てのおり、松の枝を切り逆さに濱に挿し「今般の軍に勝利あらばこの松生き
よ」と勅宣ありしかば皆生付きて松原となる。皆栄えたる松なり。扨こそ生の松原と言う名を付きたれ。
これが「生の松原」その名の由来である。
1276年、蒙古襲来の時には、鎌倉幕府は九州の守護たちに博多湾に面し、20kmもの防塁を築かせる。この生の松
原には、肥後国によって延々と築かれ、この地で戦った肥前竹崎季長の残した絵図は、様子を知る上で貴重な資料
となっている。現在も、その防塁は「元寇防塁」遺跡として調査され保存されている。
「生の松原」の位置について「大友興廃記」は、筑前国高祖より三里隔ててとある。
この松原で戦国期、大友勢と原田勢の合戦があった。「原田氏」は漢の高祖の後裔とされる大蔵春実が九州に下向、
肥前基山の麓原田に住まい、「原田氏」を名乗り開祖となったという。原田氏の一類は大変に多く、その勢が同心す
れば大きな勢力になったとさえ言われる。原田氏が筑前伊勢の山(高祖山)へ城を築いたのは原田種継、種頼親子
による建長元年(1249)
の事とされ、麓に在った怡土城跡の一部を利用したとも言われる。城の名前を「高祖城」としたのは遠祖が「漢の高
祖」の末裔大蔵嫡流との名門意識があったとみられる。
原田氏、中国大内氏と手を結びこれを背景に台頭、大内滅亡後は毛利氏を頼り、筑前を牛耳る大友勢と対立する。
大友氏も筑前西部の押さえに「柑子岳城」に城代を据えて原田氏と対峙した。両氏の小競り合いは度々であったが、
高祖城、柑子岳の攻守にかかる合戦は三〜四度とみられる。
最初は、永禄11年(1568)「立花山城」「立花鑑載の謀反」の時と見られる。謀反鎮圧に参じた柑子岳城代「臼杵新助
鎮広」の隙を突き「原田隆種」は柑子岳を占拠する。驚いた「臼杵新助」はとって帰し、原田勢と一戦に及び奪回する
(筑前国続風土記・柑子岳より)。
この時の様子は、本ホームページ「柑子岳城」を参照されたい。「九州諸家盛衰記」に「原田下総守敗軍附切火縄智
略之事」「吉野八郎計略附染川弑下総守親種事」に記述がある。この日、原田、大友勢は七度の槍あわせがあり、
大友勢は大勝する。敗者の原田下総守親種は、筑後高良山に逃げ込んだ。
(原田系情報では親種は高祖山で戦死したことなっている。)これを討つため大友は、田原、臼杵、田北、吉岡、志賀、
吉弘、朽網、戸次、一萬田以下、二万余騎を差し向け高良山を囲んだ。 親種は道雪の小姓吉野八郎の計略によっ
て殺されたという。
また、原田氏系情報では、永禄11年8月5日に生の松原での大友との合戦に勝利したとある。立花山鑑載の謀反は
永禄11年2月と鑑載の自刃した永禄11年7月23日である。ことから、原田系情報の8月5日合戦は鑑載の二度目の謀
反に関連した、生の松原での出来事とも取れるが疑問残る。
元亀2年 「新助」豊後に帰国。替わって「臼杵進士兵衛鎮氏」が入城するが、鎮氏は驕慢で思慮に欠け、 元亀3年
正月、今津の毘沙門天詣で帰りの「原田隆種」を襲うが難を逃れる。同月、今度は原田勢が寺帰りの鎮氏を襲撃、
「池田川(今の瑞梅寺川の中流をこう呼んだ。中世、瑞梅寺川は高祖川と呼んだ」)というところで激戦が行われる。
「鎮氏」は追い詰められ、郎党共々自刃する。後にこの「鎮氏」の死は「義鎮」の怒りをかう。
下って天正7年、筑前国の支配地図は大きく変わろうとしていた。中国毛利と連携する「秋月種実・原田了英」肥前
「竜造寺隆信」は、もはや大友にとって侮れない勢力となっていた。こうした中、柑子岳城も原田氏の圧力に抗しき
れなくなっていた。兵糧の補充もままならず城代「木付鑑実」は、立花山「立花道雪」に食料救援の書状を送った。
その年次であるが、通説では、多く歴史書には天正7年8月14日とあるが、7月12日とする情報。天正8年8月23日と
するものなどあるが、柑子岳は天正8年冬(天正7年説が通説)までには開城したと見られる。
救援要請受けた道雪は「小野正弘、足立対馬、後藤隼人佐、井手七郎左衛門」らに救援物資を柑子岳へ無事届け
た。しかしその帰路、立花勢が生の松原に到ったとき、原田隆種の軍勢が襲った。不意を突かれた立花勢は序戦は
苦戦となったが、軍を立て直し応戦盛り返し、逆に負いたて立花山城へ帰城した。
しかし立花勢の損害も大きく、井手、佐伯、小野らの甲者含む数十の多くを失った。
其の年9月(平成7年なのか、8年なのかは特定できない)大友の「道雪、紹運、道輝」等が軍儀し、原田親秀討伐を
評定した。この時、高橋紹運は「秋月、筑紫」に備え岩屋に留まり、出陣は道雪の柑子岳木付鎮実、安楽平小田部
紹叱、鷲ガ岳宗雲、合わせ総勢三千余騎をもって高祖城を攻撃した。
守る原田親秀の高祖勢も、原田林慶、波多江の三千余を配置して備えたが、道雪は城下を焼き払い深く攻め込み、
危うい状況となったが。小野和泉守鎮幸の働きで危機を脱し原田勢を敗走させた。
これは「筑前戦国争乱」の書くところであるが。「大友興廃記、戸次軍談」の書くところは「生の松原」を舞台の戦の
様子である。
大友興廃記、戸次軍談の伝える「生の松原合戦」
原田親種が臼杵新助に撃ち負け、高良山へ逃げ込み誅されて後も、原田一族は歴々究意の勇士も多い
ことから「原田親秀」は高祖城に在して、「秋月種実」に内通し大友氏との対立は一層激化していた。
このため、大友義鎮はその討伐を命じた。
天正7年9月(1579)下旬、「道雪」を総大将に三千騎、「小野和泉」「由布雪荷」を先陣にて、「生の松原」へ
出ばった。立花勢は在々(村々)に火を放ち高祖山へと迫った。
この非常事態に原田親秀は、同族の「原田林慶」を大将に六千余騎もの大軍を指し向けて応じた。林慶の
邀撃は凄まじく、立花勢の先陣を散散に切り崩し、一人も討ち漏らさずと追いたてた。この林慶の勢いにの
って所々在々の郷士達も次々と参陣、たちまち原田勢は多勢となり、道雪の旗本等も追いたてられ、生の
松原にまで到った。この時道雪は、何を考えてか一戦も返さず二里半余り引いた。勢いに乗った原田勢は
道雪を討ち取るべしと我先にと突き進んだ。林慶は道雪が引いたのは何かの仔細があるに違いない。
林慶も、戦い慣れた軍巧者のため、軍卒を集めて示した「このまま押しかけても道雪背後の川、今は満潮
である。道雪の雑兵一人として落ち延びること出来ない。潮に溺れて死すよりも、敵に向って死すべしと撃
ち懸かって来るに違いない。満潮は敵に利している。今少し干き潮を待って押しかけるべし。」
道雪陣では、家老小野和泉守は道雪を諌めていた。「今日の戦い、今までは後れを取った。しかし今は満
潮、帰路の川は渡りも出来ない。わが陣は雑兵に到るまで落ちゆくことはもはや困難。ならば潮の溺れて
空しくなるよりは、敵に向って死すべしと覚悟決めれば、満潮は味方の力となる。これが干き潮となれば、
雑兵以下臆病の心も出候わんことは無くもなし。このように申し上げるのは、今日の戦いを如何に思し召し
ですか。今日は一戦も勝利していない、このような時は、皆何か食い違いがあるものです。」
これを道雪聞いて「尤もなり我の分別も是なり。其のほうの才覚と同じように、林慶が控えて懸かって来な
いのはこの分別のためだ。 古語に曰く、三軍の師をば奪うべし、匹夫の師をば奪うべからずという事あり、
この道雪が此処まで引き退いたのも、この考えによるものだ。林慶が控えて機を窺うのも、わが勢の気鋭
遠のけ、惰気を撃つとの心にて控えているのだ。双方共に仔細あっての事である。しばらく人馬休めて懸
かるべし」と評定した。
猶も、林慶は干き潮を待って控えていた。そこへ、道雪の先陣「小野和泉守」「由布雪荷」の五百余騎が
左右両手より、控えていた原田勢林慶の先陣へどっと突きかかった。是に後陣脇備えの軍卆、道雪の廻し
につけて詰め寄せ切り乱れ原田勢の多くを討ち取る。立花勢の勢いに林慶はたじたじとなって引き退る
所を、生きもつかせず追い詰め「高祖城」の城下まで押し寄せる。もとより「林慶」も誉れ高い勇剛の者なれ
ば、馬乗り廻し取って返し、和泉守を一〜二町追い返す。雪荷は是を見て、左の備えより横槍突き入れて
林慶を中に取り込む。そこを和泉守の手の者が取って返し揉みあい、遂に林慶を討ち取る。この勢いにの
って立花勢の後陣が詰め寄せ、高祖城の二の丸、三の丸まで攻め込み、原田勢は詰めの丸へ篭る。
立花勢は火を放ち焼きたて勝ち鬨あげて生の松原へ引き取る。
道雪は、常の儀式にのっとり首実験を行い「立花山城」へと馬を入れた。
原田勢の手負い死者は千二百、道雪方にも斬傷八十余人、討ち死は三十余人であったという。
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「生の松原の戦い」は、「原田氏系」「大友氏系」によって、それぞれ顛末がまるで逆である。しかし
双方が数度に亘り厳しい戦を繰り広げたことは史実である。
知ってか知らずか、数々の歴史を秘めながら「生きの松原」は、美しい緑を人々に提供している。

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