三角畠軍之事(みすみばたけいくさのこと)




        「戦国大名大友氏成立までの家督継承の内紛。大友氏には12代持直より19代義長までの
        数代に亘る家督継承の混乱があった。



       三角畠軍之軍とは、豊後大友氏が戦国大名として成立する過程において、「大友親著(ちかあき)」以降
      80年にも及ぶ家督継承に関る内紛の発端となったとも言える事件である。
      「大友文書録」「入江文書田原系図」「常楽寺蔵大友系図」「両豊記」「大友豊筑乱記」「薙城雑誌」の多くに
      伝えられているが、しかしこの乱の顛末を正しく伝える資料は未だ発見されていない。
      従って「三角畠之軍」は幾つかの資料の状況証拠により伝えられているのである。ただ多くの資料に記録
      されていることにより、乱の真相は不明であるが「事件」は史実と見られる。

      事件の発端は、大友氏11代「親著(ちかあき:ちかつぐとも)」の後継家督譲渡に端を発する。
      応永30年(1423)、親著は家督を従兄弟の「持直」に譲った。しかし親著には嫡男「孝親」が居た。
      この時代大友家の家督は、9代「氏継」10代「親世」の兄弟以降、両系が交互に家督を相続する慣わしにな
      っていた。親著もこの慣わしに沿って叔父の親世より家督を譲渡されている。このため親著もまたこの恩に
      報い従兄弟の持直に家督を譲ったのであった。このため孝親に家督が回ることはなかったのである。しかし
      孝親は納得しなかった。こうして孝親は、持直の家督を狙って反乱を起こしたというのである。
      また、「豊筑乱記」によれば、孝親は元来粗暴で当主の嫡男であるとの奢りから、徒党を組み狼藉を働く等、
      その所業素行は治世を預けられないとして、親著は弟の「花市丸(親綱)に家督を譲ることに決めたと伝えて
      いるが、親著の考えは前記の如く、慣習に沿ったというのが正しいであろう。
      「乱」の規模や、「三角畠」の場所など正確には解明されていない。
      豊筑乱記は、孝親主従が公然と総家に反抗し、家中の諫言にも耳を貸さず、その所業が太刀、弓鑓の沙汰
      に至り、終に親著は孝親を討つことを決し、孝親は自刃したと伝えている。
       只、この乱の背景については、孝親の不満を利用した中国「大内盛見(おおうちもりはる)」が画策し、計画 
      されたものと見られている。大内氏はこの後、数十年に亘り大友氏の家督継承に干渉するのである。
      この乱の決着した年次は幾つかあるが、大内の干渉を考えると豊前守護「大内盛見」が急遽豊後に下向し、
      豊後の蜂起への対応などから推測すれば、応永32年9月13日、孝親享年30歳とするのが有力と見られる。
       また、三角畠の場所については、肥後三角、玖珠とした資料もあるが、大友豊筑乱記等の記述等より、
      大友館のあった南「古国府(ふるごう)」付近とする説。現由布市狭間古野とする説があるが、大内氏の干渉、
      狭間領地の大友親雄への宛行の経緯等から、狭間が有力視されている。親著は孝親の不満を抑えるため
      狭間の地を与えたが、孝親が是に応じず反乱を起こしたので、親雄へ宛行されたとも見られている。狭間には
      こんにちでも、一般の立ち入ることを許さない応永期の塔の立つ塚が存在するという。
      
       「豊筑乱記」では「戸沢采女」という剛の者が孝親に諫言に向かい、意見しての帰り孝親の手の者の襲
      撃を受け切死しているが、大友重臣に戸沢姓の武家は存在しない。諫言は一番槍よりも難しいとされる。
      総家嫡男に諫言できるのはそれなりの譜代重臣と見られる。
      大友豊筑乱記の「三角畠の軍」の記述に登場する「阿南弾正惟定」系の資料に、「戸次采女」の名が見え
      ることから原本「豊筑乱記」を活字化した時の「戸次」の間違いなく誤訳である(下の、原文の写真参照)

                    
                     「豊筑乱記」原本の写し。赤い線で囲んだ部分
                   明らかに「戸次」と読める。筆順より「沢」とは読めない

      「家督継承の混乱と謀反
       親著より12代家督の禅譲うけた「持直」もまた、後継は親著の末子「親繁」にと決めていた。
      家督を継いだ持直は小弐氏と共謀し、永享3年6月28日立花山城を占拠していた「大内盛見」を筑前怡土
      に追い討ち取る。大内盛見の敗死は、豊前守護職を討ったことにより、足利義教の怒りをかい追討受ける
      ことになる。この時代幕府は九州大友支配を大内氏の力を頼りにしていたからである。
      豊後国内の大友一族は親著、親繁はじめ多くは持直を支持したが、幕府は持直と弟親隆、甥子の花市丸
      の対立を利用し大友家の分断を図った。強引に菊池兼朝に亡命していた親著の次男「花市丸(親綱)」を
      豊後守護職に任じ13代家督を継がせた。親著、親綱親子は持直、幕府派に分れ親子で対立する。
      家督を剥奪された持直の抵抗は強硬で、幕府の派遣した追討軍「盛見」の遺児「大内持世」を翻弄する。
      持直は、豊後国内外で大内勢を翻弄その反抗は5年にも及ぶ。持直は永享7年には、豊後国海部郡姫岳
      (620m津久見市)の要害に篭城する。姫岳は標高600〜700mの山並みが連なり山深い、持直には地元
      郷士が峰伝いに兵糧などを補給したとされ容易には落とせなかった。幕府は伊予水軍「河野道久」らを
      追討軍として派遣するが、持直の巧みな戦法にかかり河野道久は戦死する。幕府は島津、京極らに持直
      追討を命じるとともに篭城軍への内通を画策、田北兄弟へ接近懐柔した。また篭城勢の中にも裏切りが
      出て姫岳は遂に落城。持直は行方知れずとなる。
      こうして13代親綱は取り合えず安泰となった。が持直より家督を受けることになっていた親繁との対立は
      根深く争いは絶えなかった。このため幕府も親綱も混乱収拾のため、両系迭立の慣習にならい、持直の
      弟「親隆」へ14代家督を譲渡する。
      しかし、本来ならばとっくに家督を継いでいたはずの「親繁」もまた「親隆」と対立するが、親隆の娘と親繁の
      婚姻を条件に15代家督を親繁に譲渡する。
      「親繁」はなかなかの名君で、家督を継ぐと混乱した大友家中の統制、領地管理に力を注ぎ求心力を得て
      家臣団をまとめた。
      また交易にも力を入れ富を得て、国力を向上させ幕府の干渉を退け大友氏の独自性を確立した。また親繁
      は家督を16代「親政」への継承に際し全所領知行を譲渡し、6代貞宗より7代氏泰(千代松丸)への家督譲
      渡に端を発した大友の嫡子単独惣領制は100年以上をを経過してようやく確立した。

       (この時代応仁元年(1467)になると、京都では足利義見、足利義尚の争いに端を発し山名宗全、細川
      勝元の対立、管領畠山、斯波の後継者争いが複雑に絡む「応仁の乱」が起こる。当然の如く守護大名の
      大内、大友もこの争いに巻き込まれていく。家督を廻る争いは全国に及び、親子、兄弟親類が血で血を
      洗う戦国時代の始まりである。)

      「救いようのない親政、義右親子の対立・大友氏存続の危機 : 讒人・大聖院宗心の登場
      親繁によって家中の混乱は治まったやに見えた大友氏も、混乱の火種はくすぶっていた。親政は嫡男が
      誕生するとあっさり隠居、生まれたばかりの「親豊(義右・よしすけ)」に家督を譲る。しかしこの継承には、
      義右の家督継承に不満を持つ親政の異母弟「親胤(日田親胤・ちかたね)」が反乱を起こす。乱は親政の
      末弟親治によって親胤への説得が行われるが聞き入れず、合戦となり親治が勝利し鎮圧される。
      この乱の黒幕も大内氏であったとされる。
      しかし親政、義右親子は何らかの理由により(おそらく大内氏の干渉)対立。義右は一時母の在所中国
      大内氏を頼る。後に和睦し豊後に帰参した義右であったが、この乱の仕掛け人は父の親政であるとの讒
      言を聞かされ、再び親子は対立する。
      此処で登場するのが、この救いようのない親子の対立を煽った「大聖院宗心(だいじょういんそうしん)」
      である。
      宗心は本名「親実」、13代親綱の6男である。一旦は出家していたが、大友庶流となってしまった「宗心」は、
      主家内部本流の対立を煽りながら中国大内氏を後ろ盾に執拗に大友の家督をねらう。
      宗心は義右や有力家臣らをあやつり親政、義右の対立は深まるばかりであった。義右により府中を追われ
      た親政が残した書状の中に「讒人(ざんにん)は宗心」で、操られる義右や年寄りたちを嘆いている。
      (讒人とは、讒言即ち事実を曲げ人を陥れようとする人物のことである
      この親子の対立も、義右の急死(病死とも、親政による毒殺とも伝えられる)により解消するが、親政もまた
      府内を追われ、立花山城を頼る途中、豊前赤間関で大内氏軍勢に捕らえられ自刃をさせられる。
      これも宗心が画策し大内氏に依頼したとされる。
      この混乱を一気に鎮圧したのが親繁の四男18代となる「親治」である。僧となっていた親治に、家督相続の
      可能性は殆どなかったが、親胤の反乱、親政、義右親子の対立の混乱により機会が廻ってきたのである。
      親治は義右に余同した田北七郎兵衛らの讒者を疾風の如く一気に掃討。この掃討戦は熾烈を極め、討って
      側含め双方に500余もの討死者が出た。大友重臣「朽網繁貞」も戦死する。
      讒者を鎮圧した親治は、は背後で糸を引く「大内氏」を豊前に追い、豊前守護を手に入れる。
      親治は、将軍「義澄」、前将軍「義材」に書簡を送り嫡子「親匡(義長)」への家督譲渡を要請するが、是に
      「大内義興」が猛反発「大聖院宗心」を後継者に推す。しかし親治の嘆願により「宗心」の家督は消える。
      疾風の如く混乱を治めた「親治」は、直ちに義右の所領所職を全て引き継ぎ給地の没収、宛行をおこなう。
      その一方家臣団の融和を図り、旧老臣、新年寄り等をまとめた。また政所郡代方分らの制度を確立し、
      領地支配の組織体制を確立していく。
      親治は家督を譲った義長と供に、国内外の共同統治を進め「戦国大名大友氏」の基礎をほぼ成立させる。
      大友氏の年寄り職「加判衆」も「親治・義長」の頃にその基礎ができたとみられる。

      義長により周防に追放された「宗心」は執拗であった。肥前大村、肥後相良にも通じ、菊池氏を取り込もうと
      する義長に対する肥後国内の対立を利用する一方、豊後では佐伯、田原親述氏らと共謀家督を狙う。
      こうした中で永正13年(1516)佐伯氏に通じる繁貞の嫡男で重臣の「朽網親満」が謀反を起こす。是を計画
      したのも親述、宗心であった。親満、佐伯、親述らは府中を三方より囲む計画を立て親満は戦準備を整えた
      が、老いた宗心の家督への執着心が薄れ、親満単独の反乱となった。
      この時代田原氏は、大友主家にとって最も注意すべき一族であった。そして大聖院宗心を操ったのも真の
      黒幕は田原親述であったと見られている。この親満の謀反も義長義鑑によって鎮圧される。
      (後に、田原親述は立花山城で自害する)
      只、この時代になると「宗心」も、親綱の6男であったことから、かなりの老齢になっていた筈である。宗心は
      野心を叶えることなく、いつしか歴史から消えていった。こうして親政、親豊の対立に乗じた大友氏の存亡
      のかかった大友史上最大の危機
を脱した。
      多くの守護大名、武家豪族が滅亡していく中で、大友氏は戦国大名として成立するのは、度々の危機を乗り
      切ったことにある。最大の危機を退けた「親治」は名君と思えるが、江戸時代は大変な悪人として評判はよく
      なかったという。江戸中期にはその墓の所在さえ分らなくなってしまったとも。

                     
             左の塔は豊後大野市柴北「大聖寺」にある「大聖院宗心」の父「大友親綱」の
             墓とされる「宝筐塔(ほうきょとう)」。
             正面に「大聖寺殿」背面に「耀山光公君」と親綱の諡号が刻彫されている。
             長禄3年2月6日(1459)とあるので、14代「親隆」へ家督を譲渡して後、20年は
             存命していたことになる。


                                         参考資料   豊筑乱記
                                                  大分歴史事典

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