宗像氏貞・山田事件(
菊姫伝説


        
宗像氏貞・宗像大宮司家第八十代
(七十九代とも) 最後の当主  
        
立花道雪(戸次鑑連) 側室「色姫」の兄


        
宗像氏は「宗像大宮司家」とよばれ、代々「宗像大社」の宮司を務めた神主家である。
     古くは胸形氏(胸形の地名は古事記にも書かれている)胸肩氏、宗形氏と呼ばれ古代胸肩水軍の豪族で
     有った。大化の頃には神郡宗像の大領を賜り和銅年間には朝臣の名を賜った。祖は「宇多天皇」の御子
     「清氏」とされるが、確かなことは不明とも。
     宗像大社は天照大神の三人の御子をお祀りする由緒のある大社で、こん日では交通安全の神様として広
     く信仰を集めている。
     宗像氏は「氏実」が関東御家人となってより武士集団化し神郡に勢力を拡大してきた。宗像氏の居城は
     古くは赤間山(蔦嶽)に第54代「氏俊」が築城したとある。建武3年(1336)「足利尊氏」が九州に
     下った時、宗像大宮司家(氏俊)が案内を務め赤間山に入れたとも、白山城に入ったともいう説もある。
     しかし歴代は白山城を拠点としてきた。
     赤間山城が「蔦が嶽城」と代わったのは永禄3年(1560)「氏貞」が永く開城であった赤間山を改築し、
     入城した時とされる。
     「氏貞」が第80代として家督を継ぎ宗像氏の居城「白山城」に入ったのは天文21年(1552)氏貞七歳の
     時である。以後「氏貞」は中国毛利氏と通じ、豊後大友氏と対立しながらも戦国の時代の中、神郡宗像
     の地を治めてきた。その領地は宗像、遠賀、鞍手の三郡落、実に「四千五百町歩」にも及んだという。
     大友氏とは度々対立、とりわけ立花山との間にある宗像氏の支城「許斐城(このみじょう)」は宗像氏
     の要の城で、立花城との間で何度も争奪が行われた。許斐城を立花大友氏に押さえられ氏貞は白山城を
     出て大島へ逃れたこともある。
     これをまた急襲し許斐城を奪回もした。しかし毛利元就が本国の事情急変で立花城を去り、大友の筑前
     支配が確立すると、大友宗像の和睦がなり、その証に
立花城督となった立花道雪戸次鑑連)に氏貞の
     妹「
色姫」が輿入れする。即ち人質である。
     この時、氏貞が化粧料として色姫につけた西郷庄300町の土地が思わぬ争いの火種となる。其れは大友
     に従っていた、鷹鳥山城の飢饉を救うため。道雪が鷹鳥山城へ送ったコメの救援運搬で発生した、若宮
     郷士(旧西郷党)による戸次米輸送隊への襲撃に端を発する「小金原の戦い」である。
     道雪は、あらかじめ救援隊の宗像郡内通過を氏貞に伝え、氏貞も安全に通過させるよう家中にその旨を
     支持してあった。しかし、「色姫」の化粧料として「道雪」に送られ領地を失った旧西郷庄の郷士達は
     若宮郷を追われ、道雪に対する土地の恨みは怨念に近かった。それが隙あらばと狙っていたところの襲
     撃であった。
     戦いは終日に及び熾烈を極めた。襲撃した若宮郷士の殆どと、制止に向かった氏貞の重臣二人、それに
     秋月氏の応援など宗像勢百数十人が戦死、戸次方も重臣「足立式部」など三十名近くが戦死した。
     この宗像勢の背信行為に、
戸次道雪は激しく怒り、直ちに蔦嶽を攻めさせる。
     氏貞も仔細を述べ陳謝の意向を示すが道雪は収まらず、やむなく氏貞は、許斐城のの西八並口に兵を配
     し立花勢を退ける。それでも道雪は宗像への攻めを緩めず、遂に許斐城を落す。こうして道雪と氏貞の
     対立は、道雪が死ぬまで解消されなかった。
     道雪と氏貞の狭間にあって最も心を痛めたのは「色姫」であった。天正12年3月24日山田地蔵尊の命日、
     自ら命を絶った。
     若くして神郡宗像の統治を果たしたした青年武将「宗像氏貞」は、天正14年3月4日病にて逝去。
                     享年42歳、人生五十年と言われたこの時代、若すぎる生涯であった。
     墓所は、宗像市上八(ごうじょう・と読む)の海を望む丘にある。
     「氏貞」には世継ぎとする「男子」が無かったことから、「秀吉」により名門「宗像大宮司家」は取り
     潰しとなる。「宗像氏貞」は最期の当主となった。

     
この氏貞の家督相続には凄惨な事件があった。是は山田事件といわれ菊姫伝説として地元に今尚
     語り継がれている。以下に述べる
 

                         
                                       宗像氏貞の居城蔦ヶ岳            

                                          
          
          歴代宗像氏の居城・白山城遠望(宗像市山田)            宗像氏貞の墓(宗像市上八)
            左の建物、山田の局と菊姫の墓所(増福禅院)            (即心院殿一以鼎恕大居士



             
宗像氏貞 辞世の詩
                    
「 人として名をかるばかり42年
                       消えてぞ帰るもとのごとくに
 」

    菊姫伝説山田事件: 山田地蔵尊」に伝わる伝説

        菊姫伝説は山田事件とも呼ばれ、450年後のこん日でも語り継がれる神郡宗像に伝わる「宗像氏貞」
     家督継承にまつわる忌まわしい伝説である。
     伝説とはいえ是は確かな史実である事から、こん日なお語り継がれているのである
。 
  
   「氏貞」の父は76代78代と当主を務めた「宗像正氏」である。宗像氏は数代に亘り、豊前、筑前の
     守護職であった中国「大内氏」従い、正氏もまた出仕のため中国周防黒川庄にいた。「正氏」には
     宗像に正室「
山田の局」と娘「菊姫」が、また中国黒川には側室「照葉」と、子の「鍋寿丸(のち
     の氏貞)、「
色姫」がいた。
     
その正氏が死に、79代を弟「氏続」の子「氏雄」が「菊姫」の婿にいり家督を継いだ。
  
   天文20年、中国「大内義隆」が重臣「陶晴賢」の謀反により自害。この時「氏雄」も謀反軍に追わ
     れ「氷の上(ひのかみ)」と云うところで戦死する。
     このため宗像氏は当主を失ってしまった。この機を付いて晴賢が打った手は、正氏の側室になって
     いた姪の「照葉」と正氏との間に出来た「鍋寿丸」を白山城に入れた。
     これには宗像勢が反対。正氏の弟で氏雄の父、77代の当主でもあった「氏続」「菊姫」それに氏雄
     の弟「千代松丸」などを推して抵抗したが、「陶」は配下の寺内治部丞に命じ氏続、千代松丸親子
     を殺す。正室「
山田の局」「菊姫」の周りの者達も次々排除され、遂に、山田の局親子に侍女たち
     だけの六人となってしまった。女六人は白山城の麓「山田の里」で静かに暮らしていた。
     「陶晴賢」はさらに、宗像の旧臣「石松又兵衛尚秀」に「山田の局」「菊姫」をも殺すよう命じる。
     尚秀はこれを配下の「野中勘解由」「嶺玄蕃」に指示。
     天文21年3月23日(1552)の夜、静かな山田の里に惨事が起きた。女六人の館を刺客が襲う。
     その夜「菊姫」は月を拝まんと、行水し髪を洗って出たところを切られる。「菊姫」は十八歳であ
     っと言う。「野中」「嶺」の二人はさらに、「山田の局」の部屋に押し入るが、「局」のすさまじ
     い剣幕に二人たじろぐ、「汝ら科(とが)なき主人を殺すこと、この恨み汝らの子孫まで赦すまじ。
     我は女なれども汝らが手には懸らぬ」と守り刀で自害する。小少将、三日月、小夜の侍女たちも果
     敢に戦うが殺される。花の尾局は、「山田の局」の刀を取って自害する。
     この事件のあと宗像郷に奇怪なことが続出した。六人を襲った「玄蕃」は、ある時鞍手の蒲生田観
     音に詣でての帰路、山田の局、花の尾局の亡霊に出会う、このあと「玄蕃」足ふるひ、手わななき、
     激痛が体貫き頓死する。また、玄蕃の妻子兄弟みな同じ病気にかかり数人死ぬ。
     「野中勘解由」これを聞き大いにおののき祈祷するが、ある夜夢の中に「山田の局・花の尾局」が
     現れ責めたてられる。夢覚めてからは大汗かき、四股が萎えて翌日死ぬ。
     その後七日のうちに七人が死んだという。狂い死や変死が相次いだことから住民の不安は頂点に達
     した。郡内に異変があると「
山田の祟り」とおののいた。
     事件から七年後、永禄二年氏貞の母「照葉」と氏貞妹「色姫」が双六に興じていた。そのとき突然
     色姫は、母照葉の喉笛に噛み付いた。まわりの者達が引き離そうとするが用意には離れなかった。
     ようやく「色姫」は母を離すと、物凄い形相で口から鮮血を滴らせながら、事件の時は幼少で知る
     由も名ないのに「我は山田の怨霊なるぞ」と叫び、周りのものはあまりのことに、オロオロするば
     かりであった。この時「色姫」は十三歳のなっていた。母「照葉」は喉の傷は癒えたが他の病気に
     かかりまもなくして死んだという。
     こうした出来事に、氏貞は自分の家督の継承に悲惨な事件があったこと初め知り、六人を地蔵尊と
     あがめ、増福院に六体の地蔵尊を安置すると共に、回向のための祭田を寄進した。


     
こん日宗像市山田の「増福禅院」は「山田地蔵尊」としてしられ、安産祈願の寺としてお参りの
     多いところである。

      六人を殺すよう指図した「石松又兵衛尚秀」。実は菊姫・山田の局を切ったのは「石松」とい
      う話が、里民に伝えられていたが、子孫今なお多いことは祟りのない証であると、一族の者た
      ちは言うのだそうな。
      石松又兵衛尚秀(但馬守)は、山田事件後己の所業を悔い、出家し「正法寺」を整備し非業の
      死を遂げた山田事件の死者を弔ったとも言われている。

                        
                               増福院(山田地蔵尊)
                          
                 山田の局菊姫の墓               「花尾の局三日月小夜小少将」の墓          
                    (宗像市山田・増福禅院)



                                                参考史料    筑前国続風土記
                                                          九州戦国の武将たち    吉永正春 著
                                                          宗像大社御祭神と由緒    宗像大社
                                                          古事記    岩波書店



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