宗像合戦之事


         「大友興廃記」巻第十七の伝えるこの合戦の事は、いつ頃の出来事なのかは推測の域を出ない。
       記の冒頭部分には、既に「宗像氏貞」の妹ととれる「十八歳」の娘を立花山に留め置き、とあることか
       ら「色姫」が「戸次鑑連」の元へはいる元亀元年(1570)以降、元亀2〜3年の事であろうか。 
       (色姫は道雪の下へ入った時、既に二十五歳であったようなので、年齢は合わない) となれば立花、
       宗像の和睦以後の合戦と言うことになる。和睦中と言え、多少の小競り合いはあったであろう。
       只、この興廃記の記述と「小金原の戦い」を結びつけた史家の出版本もあるが、小金原の戦いは、旧
       西郷党(若宮郷士)の遺恨戦であり、大友興廃記「宗像合戦之事」には道雪の鷹鳥城米救援、若宮
       郷士襲撃の事は全く触れられていない、おそらく別々の出来事であったとみられる。

       ある時「秋月種実」の軍が宗像表に打って出るとの情報が「立花道雪」の下に入った。道雪は直ちに
       「小野和泉守」「由布雪可」の両人を討っての大将として、二千余の軍勢を宗像表へ向わせた。しかし、
       この時道雪は所労による病気に臥せていた。このため出陣はなく、立花の城に在って抱き起こされて
       いながらも長刀に縋り、終日面もふらずに宗像を睨み立っていた。
       ことの発端は、長く「宗像大宮司家」の宿老勤めた「石松一族」の一人「石松主税介」の一党が、種実
       に煽られて俄かに立花山に謀反を企てた。是に近辺の郷士たちが多勢集まり、在々諸所に陣を敷い
       たことにあった。
       道雪より立花軍の大将託された小野和泉守、由布雪可の両将は軍儀を進めた。今日は道雪公の出
       陣はないことより、一入(ひとしお)念を入れて陣立てする必要あると評定した。もとより両将は歴戦の
       勇士、共に戦上手、所々のつまりつまり(いたるところに)に人数を配置し、僅かの少勢を以て鬨の声
       を挙げた。対峙する宗像勢も鬨の声を合わせ、一面に突き掛かって出た。この宗像勢の動きに立花
       勢は願ったところの幸いとばかりに少勢にて一戦に打って出た。やがて立花勢は宗像勢を取り込む
       戦法に出た。劣勢を装い引き始めた。宗像勢はこれが、小野、由布の釣り戦法の計略とは知らず、
       勢いに着けて出たのである。立花勢は伏せておいた武者を一気に起こし合わせ、一斉に宗像勢へ
       襲い掛かり取り込めた。縦に分断、横にも通して雌雄を決した。混乱した宗像勢には多くの討ち死が
       でた。立花勢が討ち取った石松主税介一党は八十三騎。残勢も堪えられず引き取る。これに立花勢
       は追討をかけ数騎を討ち取った。
       一方応援の秋月より出向いた軍勢、宗像勢の思わぬ不覚の後れに、その日は一戦の軍もなく秋月
       へと勢を引いていった。
       その頃、病気のため出陣のなかった道雪は、立花の城に在って抱き起こされ、直も長刀に縋り立ち
       宗像を睨んでいた。
       その念力たるや、味方の後ろに光さし輝き、あたかも道雪の馬しるしが見ゆる心地を覚えて、士卆の
       士気上がり、ついに勝ち戦となったのである。誠に道雪公、この時ばかりは摩利支天の生まれ変わり
       ではないかと、立花の軍勢士卆は口々に言ったという。
       夜、立花山城においては、討ち取った首を集め、作法にのっとり道雪が首実験を行った。この後道雪
       は、奥座敷での雑談にて「宗像の奴原が長袖分けて鑓をを握ることは、常々神前で御幣を振るように
       はゆくまい。大宮司も一味しているはず、同じようなものだ」と申された。
       これを聞いた娘(色姫)は「さように御申し候えども、宗像の者どもは神を尊び、祭礼を勤むる時こそは
       烏帽子直垂の長袖にて候らえども、軍(いくさ)のときは具足甲を着候べし、神の神にてましませば、
       (立派な神にてあらせられれば)常の人より利生の候べきものを、口惜しき御詩哉(御申しようかな)
       と、涙をはらはらと流せば、道雪は「あひらしき事を申すもの哉。汝が心根を以て思えば、親(兄)の
       大宮司も武辺(武威)は強かるべきぞ(戦にはさど強かろう)」とからからと笑って揶揄した。

         この戦いよりのち、天正7年8月には、麻生・宗像・杉らが箱崎に押し寄せ、道雪が軍を出し、1日
       二度の合戦のあったことが、大友家及び幕下衆の軍場聞書が伝えている。
       天正9年11月13日(1581)この時代宗像地方最大の合戦「小金原の戦い」が発生、宗像勢に多くの
       討ち死が出る。これにより、立花、宗像の関係は再び対立する。


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