妙林尼   
   
     
鶴崎城の戦い・寺司浜の戦い

     天正14年12月12日、「戸次川合戦」の最中、府中で備えている女武将が居た。
    豊後府中鶴崎「鶴崎城・吉岡妙林(俗に、妙林尼妙麟尼とも書く)」である。
    吉岡系図によれば、「吉岡妙林」は丹生台地(鶴崎の少し上流、大野川右岸の台地、この一帯は
    朱や水銀の原鉱石辰砂鉱脈が走っている。これらの原鉱石を採掘する職業集団を丹生氏と言った)
    の国士「丹生小次郎正敏の娘とする説」。
    また大友興廃記巻十八によれば「林左京亮の娘」「林(りん)」とする説もあるが苗字と名前が
    「林林(はやしりん)」となるのでやや疑問も残る。
    島津勢が豊後へ侵入した折、鶴崎城主「吉岡統増」は「宗麟」へ従い傍衆として臼杵城(丹生城)
    に籠っていた。妙林の夫「吉岡鎮興」は「耳川の戦い」で壮烈な戦死を遂げている。
    鶴崎城は現、鶴崎工業高校、鶴崎小学校辺りにあった。鶴小敷地には「鶴崎城址」の標柱が立て
    られている。鶴崎城は、大野川の河口一帯に広がる扇状地上に築かれていたが、城というよりは
    「館(やかた)」であろう。後で述べるが島津勢はこの平地の城を侮った。
    この城址一帯(鶴崎小)は現在地図上で見るに、単なる大野川、乙津川に挟まれたひとつの扇状
    地にも見えるが幾つもの堆積洲が集まりである。中世戦国期この一帯は大変不便の地で、この地
    へ至る陸路は、南の大野川と乙津川に挟まれた半町ほどの自然土手以外なかったのである。
    鶴崎城の東西は川に挟まれ、大野川・乙津川の派川が複雑に入り込み天然の堀をなし、北は数町
    で海に至っていた。


    
鶴崎城の戦いは前段「鶴崎城攻防」決戦の「寺司浜の戦い」よりなるが場所を「寺司浜」と言う
    ように400年前は北は寺司地区(現、西鶴崎二丁目)辺りは海であったと見られる。従って大野川、
    乙津川の河口は、現在より少なくとも2km以上は上流であった。
    「妙林」は、島津が豊後侵入した時、直ちに鶴崎城の備えを固めた。俄か仕立ではあったが自ら
    出向き采配し、一の丸二の丸築き、板塀を廻らし、内側に畳を立て強化、茨束ねた逆茂木を連ね、
    陸路の一番狭い場所は、深く二重の薬研堀り掘り、焼y植え堀外には竹矢来、内には土塁を築き、
    さらに幾つもの落し穴堀り、表面を平らに均し、巧みに覆い味方が落ちないよう、目棒、篠竹刺
    した。
    この一帯現地の標高は僅に3mを越える程度、当時は現在よりは数十cm程は低かったと思われる。
    周辺の川は感潮区域、絶えず潮汐の影響受ける。現代の観測で満潮位の平均潮位が標高1,3m程度
    であることや、扇状地の地質が泥砂で構成されていることを考えると。地下水の高いことを意味
    する。おそらく薬研堀、落とし穴は、一間半も掘れば地下水が現れた筈だ。堀や、穴には水が堪
    っていた。落ちたら動きが制約され厄介。
    妙林はこの鶴崎城への攻め口は、南の狭窄地以外ないことを見定め、短期間に(島津の侵入、臼
    杵城、栂牟礼城、鶴賀城攻めの開始より見て、二〜三週間か)城の備えを固めた。

              
               
大分市鶴崎小学校敷地内の鶴崎城址示す石柱

    天正14年
12月12日「島津家久」は戸次川決戦に決着つくと「伊集院美作守・野村備中守・白浜周
    防守」らに3000余の兵付け、鶴崎城へ向かわせた。
    押し寄せた島津勢に「妙林」は防御の要は狭い南の陸路一つと定め、城内には領民百姓女共も籠
    らせ、280丁もの鉄砲を揃え備えた。(両豊記では数百丁とある)

    一方島津三将、攻める鶴崎城は俄仕立ての平城。しかも大将は女将、とるには足らぬ攻めるはた
    やすいと侮った。島津勢は先ず南の高田方面より侵入(高田は鶴崎の扇状地に繋がる鶴崎の南凡
    そ三十町ほどの、大野川、乙津川に囲まれた一帯。知名度は低いがこの高田は豊後刀の刀工高田
    刀工の活躍した地域である。豊後刀の評価は分かれ駄刀から重要文化財指定の名刀もある。)
    此処は、高田三百町の「徳丸式部大輔、同刑部丞、同助作、同権右衛門」以下住民らが抵抗し鶴
    崎城へ退く。島津勢は住民の退却にのって一気に鶴崎城へ攻めてかかった。ところが島津勢に異
    変が起きた。攻め込んだ筈の兵卒が次々と地中へ消えたではないか。妙林の仕掛けた「落とし穴」
    に掛かったのである。途端に島津勢の動きが鈍った。そこへ城内の280丁の鉄砲が襲いかかる、
    島津勢は次々と倒れる。
    鶴崎城の思わぬ反撃に、島津三将は大野川右岸高台「種具」に本陣を移し長期戦に備えた。
    (島津勢は何故、攻めるには不便な対岸へ陣を置いたのであろうか)
    正面突破以外に攻め口のない鶴崎城。薩摩勢は落とし穴、薬研堀を潰すことに時間を費やす。攻
    撃は十六度に及んだが、妙林は女とは思えぬ采配で鶴崎城に籠る兵卒、農民を叱咤激励、鶴崎城
    勢は一丸となって反撃。薩摩勢の討ち死損害は増えるばかりであった。
    こうして攻防が長引く中、薩摩勢は外堀埋め、鶴崎城内はさすがに兵糧弾薬も尽きかけていた。
    やがて薩摩三将は「妙林」の直臣「中島玄佐、猪野道察」に金銀与え妙林へ和睦話が持ち込む。
    「是までの戦いぶり見事。もう十分ではないか、和睦いたそう」、この申し入れに「妙林尼」は
    思うところあってはあっさり受け入れるのである。妙林は城を開城。
    妙林は城を出て従女らと共に付近の民家に移る。
    薩摩勢は鶴崎城に入城した。この潔い妙林の開城に薩摩の三将大いに喜び、城内では両軍士卒の
    交流もはじまった。士達は、これまでの生死をかけた激しい戦いが嘘のように、酒を交わしなが
    ら「某のこの傷は誰々より受けたもの」「其の傷、某の槍がつけたもの」と話が弾んだ。
    妙林も城に出向き、合戦時の女夜叉から一変、女盛り未亡人の魅力を総身に漂わせ妖艶に振舞っ
    た。城内の女達も美しく装い趣向凝らし、酒肴に踊りなども披露して薩摩勢をもてなした。この
    もてなしに故郷薩摩を遠く離れ、合戦に明け暮れた薩摩隼人はすっかり気が緩んだ。この時屈強
    な薩摩勢に心の隙ができた。
    天正15年3月島津勢に退去命令が出る。太閤「秀吉」が二十万もの軍勢率いて島津討伐のため、
    九州へ下る情報が入ったからである。
    薩摩三将は、あたふたと引き退く準備にかかった。そうした中「野村備中」が妙林の住まいを訪
    れた。「我々は明朝薩摩へ帰郷いたす。妙林殿は如何なされますか」と問うた。 これに妙林は
    「私は自ら大友家に背き、皆様と厚く交わりました。私は罪を犯しました。此処には残れません。
    私も家中の者も残らず何処なりともお連れください」。この妙林の言葉に、秘かに妙林に思いを
    寄せていた野村備中は大いに悦びを露わにした。
    野村備中は「妙林」の為に配下に命じ「竹輿」よ「馬」よと準備した。妙林は自宅に三将を招く
    一方、城でも盛大に別れの宴が開かれた。妙林は艶やかに装い花の匂うが如くに振る舞い、唄に
    踊りに、そして酌をして廻った。
    野村備中は痛く沈酔し、帰り際には「よろぼひ、よろぼひ」立ち上がり座を発った。これに妙林
    は寄り添って立出た。「妙林」は見送り際、野村備中へ囁いた「皆様は一足早くお発ち下さい。
    私どもは後始末の終わりしだい追いつきます。」と、妙林は野村の姿の隠るるまで門に立ち見送
    った。この妙林の立ち振る舞いに「野村備中」ら三将は何の疑いも持たなかった。この送別の宴
    たけなわの最中でも、妙林は密かに家中重臣へ綿密な策を与えていた。
    薩摩勢が引揚げると妙林の態度は一変。兵に向かって声高に言った「皆々、薩摩に討たれた者の
    恨み晴らすのはこの時ぞ」妙林には、耳川合戦で討死した夫「鎮興」の恨みを晴らすのはこの時
    と思ったに違いない。かねての手筈した、高田組「徳丸式部一族、向新右衛門、中村新助兄弟」
    ら其の勢五〜六十余騎、大野川と乙津川の間の藪陰に鳴りを潜めて伏せさせた。

    翌、天正15年3月8日、夜も明けやらぬ早朝、薩摩勢は鶴崎城を後に一路鶴崎城の南へ続く大野川、
    乙津川に狭窄された狭く葦茂る土手を退去していった。
    薩摩勢が十町も進んだ時である、横合乙津川川べりの藪陰より黒い集団が一斉に襲いかかった。
    思いもよらぬ襲撃に薩摩勢は混乱、退路遮られ次々と討ち取られる。退路断たれた薩摩勢は、乙
    津川沿いに北の寺司浜(鶴崎城の西凡そ十町)に到って踏みとどまる。此の一帯当時は松林が広
    がっていた。妙林は此の松林にも鉄砲隊を伏せていた。妙林は巧みに島津勢を「寺司浜」へ誘い
    込む戦略を立てていたのであろうか。退路を求めて混乱する島津勢に鉄砲が放たれる。多くが倒
    れ、残った者は渡河を試みるが乙津川の澪筋は深い。武者農民一体となった妙林の策に、薩摩勢
    は溺れ者、討たれる者が相次いだ。喜び勇んで鹿児島への帰路についた筈の薩摩勢にとって、悲
    惨な結末であった。
    それでも薩摩三将は軍を立て直し奮戦したが、伊集院美作、白浜周防は遂に戦死。さらに時はよ
    しと伏せていた農民兵等が一斉に鬨を作ったので、薩摩勢の混乱はもはや収拾は不可。野村備中
    も流れ矢
に胸を射ぬかれ深手を負い退去した。
    野村備中はその後日向「高城」まで辿り着いたが、鶴崎合戦の深手が元で死亡したという。  
    翌日「妙林」は、討ち取った島津の「甲首」63首を臼杵城の「宗麟」に送る。
    「豊筑乱記」によれば、その他島津勢の討ち死損害は300人以上に上ったという。
    「妙林尼」のその後の消息は不明であるが、島津軍を智略を以って討った尼将の活躍はいまなお
    語り草となっているのである。

        島津勢の多くが討たれた「寺司浜」には、遺体を集めて「千人塚」が築かれた。
        しかし、地域に疫病災いが相継ぎ住民は慄いた。このため、千人塚の上に地蔵尊を
        祀り、寺司浜の戦死者を弔った。これにより地域の災いなくなったという。
        此の地蔵尊は、今も「
寺司浜地蔵尊」として手厚く守られている。
        
此の鶴崎城の戦いは、地元では別呼びで「寺司浜の戦い」又は「乙津川の戦い」と
        呼んでいる。地蔵尊は、区画整理で移転の危機にあったが、地域の強い要望で此の
        地に残された。  

        

                
                
寺司地蔵尊(大分市西鶴崎二丁目、寺司)
                激戦地寺司、多くの島津勢が討たれる


         島津は大軍以って、日向口、肥後口より豊後へ侵入した。が、この島津の
         豊後侵攻よくよく見るに、この鶴崎城合戦に見るが如く、「戸次川合戦」
         勝利以外、大友の主要な「栂牟礼城」「臼杵城」「岡城」「鶴賀城」
        「角牟礼城」と、全ての大友支城攻めに一度も勝利していない。
         島津の豊後侵攻は、結果として数千の戦死損害を出し退去することとなっ
         たのである。


                             
参考資料  豊薩軍記巻之十 
                                   両豊記
                                   寺司地蔵案内板 外

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