吉岡長増(宗歓)の智謀


    毛利元就退去

      永禄12年5月18日(1569)「多々良川の戦い」立花山城を占拠の中国毛利軍4万、対する「戸次鑑連
   率いる「大友軍三万五千」戦いは熾烈を極めたが戸次鑑連「長尾懸かり」の戦法に、戸次家中一つになって
   の突進、毛利勢は五町も引き遂に退き、立花山城へ退去。大友軍の勝利に終わる。
   しかし依然毛利は立花山を占拠したままで、膠着状況が続いた。この状況を切り開いたのが、「大友義鎮
   (宗麟)」の打った奇策であった。
   一つは、九州に出陣中の毛利元就の隙突き、大友に身を寄せていた「大内輝弘」たき付け「大内再興」を企
   てる。
   二つには、周防灘を封鎖し毛利の物資兵糧の補給を断つ。この作戦が効を通し「毛利軍」は立花山城を退く
   ことになったのである。
   この作戦を「宗麟」へ進言したのが「
吉岡三河守長増(宗歓」であった。

   「
吉岡長増」は豊後「鶴崎城」城主である。
   周知の通り、あの「鶴崎城の戦い」で島津軍を手こずらせ、最後には巧みに和解を装い開城、薩摩勢を油断
   させ、島津の大将ら多くを討取った女武将「妙林尼」の夫「鎮興」の父である。
   「大友義鑑・義鎮」二代に仕え「加判衆」務め「臼杵鑑速・吉弘鑑理」と共に名将と謳われ「豊州三老」の
   一人と評判を得たこともあった。
   吉岡氏の城は元は、鶴崎城南西の小高い千歳(せんざい)の丘陵にあった「千歳城」であったが、「長増
   (宗歓)」が鶴崎城を移したのではないかとも言われている。
   鶴崎城は平地ではあるが、実は地形としては実に要害の位置にある。現在の鶴崎市街地一帯は一つの扇状地
   にも見えるが、中世の大野川は今の鶴崎橋の下流一帯は派川が複雑に入りくみ、下流4〜5町で海に至った
   と思われる。橋は一箇所も架かっておらず、鶴崎城の東西、北側は堀をなし、海、川に囲まれていた。
   陸路からは、大野川と乙津川に挟まれ、葦の生い茂る狭い自然堤防以外なかったのである。
   (この場所、楽器の琵琶の首とも称される)。
   この場所を城と選んだ「長増」の武将として判断が後年「鶴崎城」を救ったのである。

    戸次軍談吉岡宗歓智謀並大内輝弘取立大将之事
   その頃(永禄12年「多々良川の戦い」後の状況)豊前筑前国の中は、大友毛利の軍勢が満ち満ちて、此処
   かしこで対陣していたが、互いに懸かりもしなければ、退きもせず只ただ空しく日数を経るばかりであった。
   この状況に、両軍の兵卒達はいつしか気力も緩み弛み、それでも住民たちは肩を休めることならず、兵も、
   住民も困惑するばかりにあったそれでもこの地は、大友が所領として支配していたので、大友軍の諸事の
   軍用兵糧は滞ることはなかったが、一方毛利勢は海を隔てていたことから何かにつけ物資の調達は意のまま
   にはならず難儀していた。
   季節は行き、夏も過ぎ仲秋になるころにも、互いの合戦は止む時なく何時戦いが果てるのか予測はつかな
   かった。この頃、豊後では大友の執事(加判衆)「吉岡三河守長増(宗歓)」が「宗麟」へ進言していた。
   「宗歓」の申すは「筑前味方の様子から敵陣を察するに、毛利勢はさど軍用兵糧米を多量に運び込んでいる
   と取れるが、季節も次第に寒空へ向かうこと考えれば、間違いなく衣服等を故郷より送られて来る筈である。
   であれば我が方より周防長門沖へ番船100隻を浮かべ押し出し、中国より小倉・立花へ運送する荷物兵糧を
   奪い取れば中国の軍卒最も困窮する筈である。さらに、中国の事情に詳しい者を大将に、周防、長門、安芸
   の諸将の留守を突き馳せだせば、筑前の戦況は案外有利となるに違いない」。是に「宗麟」は「申し様最も、
   なれば誰か中国へ差し向けよう」。
   これに「宗歓」重ねて申すには「幸いに大内四郎左衛門輝弘は、今だ中国を忘れていない。中国には今だ牢
   々の旧大内の士が多く居り、この者共は何かあれば必ず動く筈である」と。
   「大内輝弘」は「大内義隆」の従兄弟であるが、「陶晴賢」によって「大内氏」が滅んだ後、豊後へ下り
   「大友家」身を寄せていたのである。
   この「輝弘」を俄かに大将として取り立て、中国に向かわせることとなったのである。「輝弘」には侍55人、
   足軽200余人、雑兵1000余人、海賊共も呼び集め兵船100余艘に分乗。「杵築(木付)浦」より中国へ向け
   押し出した。豊後を出た大友船団は「宗歓」の思惑通り、周防灘を制海、毛利の輸送船へ漕ぎ着け、水主、
   舵取りを殺し、あるいは海へ落とし、
   連日五艘十艘と船、軍用兵糧を強奪していった。これにより中国勢は海路を封鎖され、九州毛利勢への物資
   補給は途絶えた。
   「大内輝弘」は難なく中国に着岸、聞きつけた旧大内家臣たちが方々より馳せ集まり軍勢は徐々に強大化し、
   思いのままに振舞った。中国三州の諸将は九州に在陣していたので、全く抵抗ならず、「輝弘」軍は中国の
   津々浦々、里々に押し寄せ民家に火を放ち、村人を追い払って行った。
   「輝弘」が山口に陣を置いたことにより、三州は大騒動、毛利領内も大事が発生した。
   先年「毛利元就」に殺された「尼子晴久」の家臣「山中鹿之助」は尼子の氏族「尼子勝久」を取り立て大将
   とし、敗走していた者共集め、丹後国より出雲国へ乱入した。鹿之助は心通ずる武士たちと合力、ついに
   出雲半国を取り返し、その勢いは近国にも振るったので、山陽山陰の両道は上へ下への大恐動となった。
   「宗歓」の知略智謀もって、豊後勢に海路塞がれ大内輝弘旗上げ、尼子勝久出雲蜂起の事は、九州に在陣の
   「毛利元就」へ急報された。
   留守の不意を突かれた「元就」立花山に関わっている事態ではなくなった。
   毛利軍は、200程を守備兵に残し、永禄12年10月12日遂に撤退を開始した。
   これに大友勢は追討をかけ毛利の兵卒3400余人を討ち取った。
   立花山城に残った者たちも11月9日には開城、立花山去る。




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