薦野・米多比氏



   九州自動車道「古賀SA]の南東に連なる山並み、背後の山々は「西山」「犬鳴山」連峰である。
  その手前低く連なるのが薦野、米多比の山々。左の山が「城の山(中世には、茶臼山、または、臼岳と
  いった)」。かって「薦野城」の在ったところである。
  これを西方へ凡そ1kmに位置する山が「米多比城」の在った山である。
  薦野、米多比の集落はこの両山の麓である。
  中世薦野は「薦野氏」が、米多比は「米多比氏(ねたび・ねたみ)」の領地として代々居住してきた。
  両氏の氏祖は同祖であったので、相争うことなく、この地の有力国士として領地を守ってきた。両氏の
  祖は「丹治氏」とされ、二十九代「宣化天皇」より出 「上殖葉王子、十市王、多治比王」と続き、
  「多治比王」のその名を以って「姓」を賜った。
  多治比を「丹治、丹比、丹爾」とも呼びその裔孫「丹爾眞人島左大臣」「丹爾広成中納言」の後、
  「丹治式部少輔峯延」が西国に下りこの「薦野」に住んだという。本城を「茶臼山(臼が岳)」に築き
  「小松岡」に邑城(さとじろ)を築いた。
  小松岡は特定し難いが、筑前国続風土記には、薦野村にあって要害の地と在るので。城の山の一部と
  見られる。
  「丹治峯延」は近郷の西郷の一部、東郷庄を所領していた「団右近将監宗時」らを下し領地を確保した。
  (団の原とは、この「団氏」がいたことから付いた呼び名である。
  「団の原合戦」は、永禄10年9月この団の原中心に、立花鑑載、怒留湯融泉の立花勢と宗像氏貞の許斐
  左馬大夫氏備が合戦し、宗像勢が敗走したところである)「峯延」の法名は「養徳院了恩」と称し、
  小松岡に葬ったので「養徳山」とも呼んだという。
  「立花道雪」の重臣「薦野三河守増時、吉右衛門成家」もこの地で没し「養徳山」に葬ったと記されて
  いる。「薦野増時」の遺骨は分骨され立花口「梅岳寺」にも埋葬された。
  このことから古賀市薦野「増時」の墓のある場所が小松岡(養徳山)という ことになるのであろう
  (古賀市HPに写真マップが出ていたので、その辺りをだいぶさがしたが行き当たらず、未だ未確認)
  「薦野、米多比」の両氏は、大友貞載氏が立花山城築城進出以来、豊後大友氏へ臣従。天文〜永禄の
  頃は、薦野河内守、米多比大学は立花山「怒留湯融泉」「立花鑑載」の重臣として活躍した。
  この薦野米多比は、敵対する宗像領に近く、薦野城と宗像氏貞の支城「飯盛山城」とは僅かに数町余り
  である。このため宗像への押さえとしては大変重要な場所に位置している。
  一方宗像氏貞も「飯盛山」に砦築き、常時200余を配置して、薦野、米多比の押さえとした。

         
           
薦野城址(城の山)遠望       飯盛山城址(九州道上り古賀SAより望む)

  以下は、薦野河内守、米多比大学が「飯盛山城」を攻め落とした時の終始である。「筑前国続風土記」は
  永禄11年3月14日となっているが、当時の状況とは合致しない、恐らく永禄9〜10年のことと推定される。    
  この時期は、中国毛利の九州への干渉が活発になっていたころでもある。その頃筑前立花山城では、中国
  毛利襲来の噂で持ちきりであった。このため大友氏の魁将「
戸次鑑連、臼杵鑑速、斉藤鎮実」らは筑後国に
  駐屯し人数を催促して是に備えた。
  しかしこの年3月になっても毛利の襲来なく、このため大友三将はこの隙に、秋月宝満を攻め、立花鑑載、
  怒留湯融泉には宗像に焼働し、許斐城を攻め落とし、敵の鋭気を削ぐよう下知した。
  是に「鑑載、融泉」は、薦野、米多比、安武らの国士集め、軍議になったが皆が申すには、中国勢襲来の
  風説急なれば、いま許斐攻めは如何なものかと評議は一決しなかった。その時「薦野河内守」が申すには
  「立花勢総人数で宗像へ押し出せば、宗像氏貞も杉、麻生にも催促し、思いもよらぬ一戦になるであろう。
  なれば許斐攻めもならず、風聞の如く毛利勢蘆屋へ渡海到れば味方も危うし。とはいえ、三将の下知にも
  背きがたい。近頃、許斐城は我が領地を押さえんがため、飯盛山に砦拵え人数を籠め置いている。
  薦野よりは程近く、夜討ち朝駆けにて攻め落とすことは容易い。その上にて許斐勢の様子窺い、中国勢の
  渡海長引けば「許斐左馬大夫」を攻めては如何か」。
  薦野河内の申しように「鑑載、融泉」は、「この儀然るべし」と。立花鑑載は立花山城守り、怒留湯融泉は
  人数少し揃え立花の北、青柳に詰めることに決した。
  「河内守」は急ぎ薦野へ戻り「米多比」と評議、人数揃え、斥候を飯盛山の近辺に放ち、飯盛山の様子を
  探らせた。
  斥候の申すには「飯盛山に籠る敵宗像勢は200は越えない数である」との知らせに「薦野河内守彌十郎」は
  敵の様子十分聞きすまして、3月13日の夜半、養徳山の城を発騎、飯盛山城へ静かに押し寄せる。
  人数を三手に分け、許斐よりの後詰討ち取るた為先ず、米多比大学、同五郎次郎の150をを山陰に潜ませた。
  彌十郎は態と小勢にて旗指物巻き、忍びやかに進み、その跡に彌十郎が主力200余人が続いた。
  未だ、東の雲明けぬ霧に紛れて彌十郎は南大手口に取り付いた。城中は、まさか敵が攻めくるとは思いも
  よらず、味方の番代でも来てくれるかと何の備えも無かった。薦野勢は大城戸が近づくと一斉に旗印を揚
  げ、鯨波(ときのこえ)つくり攻め懸かった。城内は、あわてて弓、鉄砲をとひしめく。そこを彌十郎下
  知して、遮二無二城中へと押し入る。城兵も命惜しまず防戦するところを、彌十郎は城の一段高いところ
  へ押し廻し一気に攻め入った。是に敵は戦意失い、搦め手よりなだれ落ち、多くは北方指して散り、許斐
  ヘと退く者、赤間白山へと目指す者も有った。
  河内守彌十郎は味方に「必ず許斐よりの後詰あるべし、早々引き取れ」と下知。敵を二〜三町程追い捨て、
  人数まとめ備えたが、俄かの事でもあったので、敵は一人として現れ無かった。
  薦野勢は、飯盛山の砦に火をかけ焼き払い、討ち取った飯盛勢の首実験し、味方の手負い助け、米多比父
  子を殿に、糟屋郡へと引き上げる。怒留湯融泉も500余人にて、席内河原まで詰めていたが飯盛山の勝軍
  の注進を聞き、大いに悦び立花山へと引き上げた。
  薦野、米多比氏は、立花山家中では有力な国士として武勲大いにあった一族であったが、永禄11年4月立花
  鑑載大友氏に謀反。鑑載は謀反を察知され豊後へ伝えようとした「薦野河内守・米多比大学」の両将を立花
  山へ誘い出し謀殺してしまった。
  この立花鑑載の謀反も同7月、
戸次鑑連により鎮圧され鑑載は自害となる。
  元亀2年2月、「
戸次鑑連立花山城城督」として入城。戸次鑑連は、鑑載に殺された「薦野河内、米多比
  大学」の子「薦野三河守増時・米多比鎮久」を重臣として重用する。
  両名は後年立花姓許され「立花三河守増時」「立花三左衛門鎮久」と名乗り、後年柳川に於いて「城島城
  4000石」「鷹尾城3500石」を拝領し城持ちとなった。
  二人は、終生「戸次鑑連(立花道雪)」に忠節を尽くし、その働きは戦国史愛好者の知るところである。
  こん日、筑前の戦国史に薦野、米多比の両家が武門の誉れ高い武士団として名を残すのは、なんといって
  も「戸次鑑連(立花道雪)」に従い重用されたことが大きい。両家共に、義を重んじる一族であった。


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