新納武蔵守忠元にいろ むさしのかみ ただもと


          新納忠元 : 大永6年1526)〜慶長15年12月3日1610) 戦国争乱期より江戸初期に活躍した
         島津氏戦国史上最も有能な武将。文武両道に長け、薩摩武将を指を折る時最初に名が挙がることから
         「
親指武蔵」とも呼ばれた。 号して拙斎。
         新納氏は島津氏の庶家で、四代「忠宗」の四男「島津時久」を祖とする。時久が日向国児湯郡新納院を
         領したことより「新納氏」を名乗った。「耳川合戦」の発端となった現木城町「高城」は「新納時久」が築城
         したものである。当時この木城一帯を新納院と称した。
         「忠元」の祖はさらに新納氏の支族「新納氏」である。「忠元」は大永6年志布志(松尾城)において「新納
         刑部大輔祐久」の嫡男として誕生する。 幼名「阿万丸」、さらに「次郎四郎」。天文7年(1538)13歳で元
         服「忠元」と改名。その年「忠元」は「島津忠良(号して日新斎)」にお目見(謁)えする。
         以後「忠元」は「忠良、貴久、義久、義弘」と仕え、各地の城攻めに武功をたて、「三州統一」へおおいなる
         貢献をする。中でも義弘とは多く行動を共にしている
         永禄12年(1569)、忠元は「菱刈隆秋」の籠もる大口城を落とし、その功績により「大口地頭」に任ぜられ
         「新納武蔵守忠元」の官位を持つ事になる。忠元は小柄であったが勇猛果敢なその戦ぶりは「
鬼武蔵」と
         恐れら、彼にまつわる逸話は数々伝えられている。
         「秀吉」が島津制圧に20万の軍勢で九州入りした時、当主「島津義久」は早々に降参したが「島津義弘」
         「新納忠元」らは最後まで抗戦の姿勢をく崩さなかった。この気骨ある態度に秀吉も感じ入ったという。
         「義久、義弘」が大阪参勤や、朝鮮出兵の折「忠元」は、「大隈、薩摩」両国の留守を任され、国主不在の
         難局を乗り切った。

         武勇に優れた「忠元」であったが、歌道にも優れた才能を発揮、こちらにも多くの逸話を残す。
         中でも、天正9年(1581)の水俣合戦、天正15年5月26日の大口での秀吉への降参時宴席で詠んだ「白
         髭とすずむし」の歌などは、こん日まで忠元の優れた歌道の才能を示すものとして賞賛されている。

         「
水俣歌合戦
                     寄せ手「
忠元」 : 「秋風に水俣落ちる木の葉かな」
                     水俣城「犬童」 : 「寄せては沈む月の浦波」

                     忠元は、水俣に「皆また」をかけ、いづれは落城すると水俣城を
                     揶揄し、犬童は、水俣湾の南につながる景勝地「月の浦」をかけ、
                     砕け散る月の浦の裏波(浦波)にかけて、寄せ手の島津軍をこれ
                     また揶揄したのである。


  新納 忠元年表
年 号 西 暦 出 来 事
 大永6年 1526
 忠元 志布志城にて誕生。 幼名 阿万丸
                       後に次郎四郎
 天文7年 1538
 忠元 元服。 叔父に連れられ、島津忠良(日新斎)
            お目見え
 天文14年 1545
 島津貴久の郡山城、入来院重朝攻めに参戦
 敵将 山口左右衛門と一騎打ちに倒す。時に忠元19歳
 永禄5年 1562  横川城攻め
 永禄12年 1569  
 菱刈隆秋の籠もる「大口城」落とす。
 忠元は合戦傷を負うも負傷押して戦う。
 大口地頭任じられ大口城主となる。
 元亀3年5月 1572  
 日向伊東義祐の真幸院(えびの市)奪還を図る加久藤城
 攻撃。 俗に言う「木崎原の戦い」に援軍として参戦。
 九州の「桶狭間」とも言われるこの戦いは、事実上飯野城
 の島津義弘との合戦である。
 義弘軍は苦しい戦いを強いられるが、大口城「忠元」援軍
 の到着と、義弘の巧みな戦法、伊東軍の油断により島津の
 大勝利となる。
 天正2年 1574  
 大隈牛根入船城攻撃。1年にも及ぶ牛根一族篭城に、忠元
 は、我が身を人質に差出し降伏させる。
 天正8年 1580
 宇土半島阿蘇大宮司家の矢崎城落とす
 同年肥後合志城(竹迫城)の合志氏落とす。
 天正9年8月19日
 (水俣城の戦い
       歌合戦
1581  
 第二次水俣合戦
 天正7年島津は水俣城攻めるがこのときは撃退される。
 水俣城は肥後八代古麓城「相良義陽」の支城であった。
 北進を図る島津にとっては最大の障害となっていた。
 城は相良氏の降参に終わるが、この合戦には身を捨てた
 相良家臣の忠臣振りなど逸話が伝わるが、なんと言っても
 有名なのは「新納忠元」と水俣城守将「犬童頼安」との「歌
 合戦」である。
 忠元は島津一の歌道の達人あったが、相良氏も歌道盛ん
 な家中であったという。
 
 天正10年間 1582
 忠元は、精力的に各所転戦。日平城、安楽城、御船城、島原城
 など攻略。
 天正12年3月24日
 (沖田畷の戦い)
1584
 島津は「竜造寺隆信」の脅威にさらされている肥前島原半島、
 日野江城主「有馬晴信」の要請に応え、島津家久総大将に、
 三千の兵が八代より海路日野江城にいる。
 島津勢は少勢ではあったが、戦上手の大将「家久」に、従兄弟
 「新納忠元」、島津忠長、伊集院忠棟、山田有信など、島津家中
 名だたる武将が従っていた。

 戦況は戦国史通には周知の戦、略す。
 天正14年10月20日
 (豊後侵入)
1586
 島津義弘に従い、肥後高森より豊後直入へ侵入。
 以後、天正15年2月まで、直入郡「津賀牟礼城」「岡城」「朽網城」
 「大野郡緒方郷、玖珠「角牟礼城」と転戦。
 家久に従い「戸次川の戦い」へ参陣。
 天正15年5月26日
 (忠元、秀吉に降参)
1587
 新納忠元、大口天堂ヶ尾にて「豊臣秀吉」降参。
 島津義久が降参した後も抗戦体制を崩さなかった忠元も、義弘の
 降参を受け、秀吉に謁見する。
 忠元は秀吉の「まだ戦うか」との問いに臆せず、「主人が戦えば
 戦います」と答えたという。
 この時の宴席において、秀吉の側近「細川幽斎」は忠元の見事な
 白髭に、「上髭をちんちろりんとひねりあげ」と詠むと、忠元は即座に
 「鼻の下にすずむしぞ鳴く」と続け、周囲の者を驚かせた。

           
  新納忠元像  とても鬼武蔵と恐れられた武将には見えない
  好々爺である。それほど人格が優れていることの証だろうか。
  細川幽斎が歌に詠んだ白髭、見事である。

      

         
 天正16年5月 1588
 義久、義弘の京入りに際し薩摩、大隈の治領預かる。
 文禄3年5月 1594
 忠元、京常詰めとなり、秀吉に謁見。
 文禄4年 1595
 入来清敷へ
 慶長2年 1597
 真幸院飯野へ
 慶長5年
 (関が原の戦い)
1600
 留守を預かった忠元は、敗戦後の肥後加藤清正の侵攻に備える。
 10月大口城へ帰参、清正への備えを強化する。
 慶長15年12月3日 1610
 「新納忠元」逝く。

 関が原敗戦より、身を呈して島津の存続に尽くした。ようやく薩摩の
 の安定は成った。
 慶長14年高齢の忠元は病に倒れる。義久、義弘らの必死の祈願も
 むなしく、遂に島津忠節一途の人生を閉じる。
 戦国激動の時代を生き抜いた名将であった。
  墓は妻の墓と並び伊佐市大口原田、水之手川右岸の田んぼの
 一角にある.。
 
 忠元法名 : 「耆翁良英庵主」
 妻の法名 : 「笑蓮妙欣大姉」

     
        新納忠元の墓(伊佐市大口原田)
    墓は夫人の墓(左)と並び、祠の中前列左右には
    忠元に殉じた家臣、宮竹休兵衛、伊地知又十郎の
    墓がある



 


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