緒方三郎惟栄      リンク:嫗嶽大明神伝説



        「生没不詳」
        「
平家追討の功労者
        「嫗嶽大明神の神裔・畏しき者の末裔」
        「
戸次氏姓祖・戸次二郎惟澄とは従兄弟」

 
   「おがたさぶろうこれよし」と読む。大分県豊後大野市中心に英雄視され、十二世紀末頃の源平争乱期の
    武将である。中世豊後国大野荘緒方郷を拠点として活躍した。
    大野、直入地方で今も語られていることは、兄「源頼朝」に追われた「源義経」を迎える為「岡城」を築
    いたという説である。しかしこの説は、こんにちでは研究者の間では否定されている。
    (岡城は豊薩合戦の折、若き武将「
志賀親次」が「島津義弘」の大軍を撃退した難攻不落の城でもある。)
    (近世では
滝廉太郎が子供の頃遊び、後に名曲荒城の月を生んだ城である)
    「
緒方三郎惟栄」は「惟榮、惟義」とも書く。「豊後大神氏」の流れ引き豊後国37氏の姓祖とされている
    「大神惟基」の五代孫に当り、もとは「大神惟栄」と言った。
    「源平盛衰記、平家物語」両本に「大太(惟基の幼名)より五代の孫なり」とある。
    「緒方三郎惟榮」が「神裔、おそろしき者の末裔」と称されるのは
嫗嶽大明神伝説」にてで紹介した
    ように、「大神惟基」を「嫗嶽大明神の化身、大蛇の子」とする伝説に由来する。
    また、源平盛衰記は、「惟義(惟榮)と云うは、大蛇の末なりければ、身健に心も剛にして、九国をも打
    ち随へ、西国の大将軍せんと思う程のおほけなき者なり」と書かれている。

 
   惟榮の父「惟用」は戸次氏の姓祖「大神惟澄(戸次惟澄」の父「惟家」とは兄弟のため「戸次惟澄」と
    「
緒方惟榮」は「従兄弟同士」である。
    「大野荘緒方郷」に住み荘司を務め「
緒方三郎惟榮」と称した。
    当時、豊後国は豊後大神一族が武士化し、大野氏、阿南氏、臼杵氏、緒方氏などが台頭していた。中でも
    「緒方三郎」は「豊後大神武士団」を統括する大きな力を持っていたと見られる。 
  
    「緒方三郎惟榮」は 元は「平重盛」の家人であったが、治承〜寿永年間(安徳天皇)源平の対立が激化
    する中、世は、兵革、飢饉、疫病が蔓延し乱れていた。
    こうした中「惟榮」平家に謀反、戸次らが是に随う。謀反のことは源平盛衰記、吾妻鏡にも「治承5年2月
    (1181)」の事として記述がある。 
    源平盛衰記 には「宇佐大宮司公通」より「六波羅」に当てた書状に「・・・九国住人、菊地次郎高直・
    原田大夫種直・緒方三郎惟義・臼杵・部槻(
戸次)・松浦党を始として、謀反を発し、・・・」とある。
                (注)「宇佐大宮司公通」は一貫して平家に従っていた。
                    当時宇佐地方は豊前国であった。

 
   寿永2年(1183)8月17日落日の平家は幼い「安徳天皇」を奉じ九州へ下り「大宰府」に入る。
    しかし、源氏方に付いた「豊後国知行藤原頼輔」は「惟榮」へ平家追討を説得「平家追討の院宣」を発す
    る。前記の如く「惟榮」を中心に「豊後武士団」は平家に謀反、これには「頼輔」の働きかけも然ること
    ながら、豊後国において平家に諂う「宇佐大宮司家」に対する反発も大きかったという。
    豊後武士団は三方より太宰府に向け侵攻した。主力の「惟榮」は南肥後口より、日田永秀は中央日田より、
    臼杵惟隆は北口豊前より攻め入った。大宰府の平家一族は「原田種直」らが激しく抵抗したが破れ、蘆屋
    (芦屋)の「山鹿城」へ脱出する。
 
                  (注)山鹿城址は、遠賀川の河口近く芦屋の右岸にある
    しかし、豊後勢の追討を恐れ豊前柳浦へと退き「仮内裏」を設ける。更に追討本隊「源範頼」の襲来を危
    惧「屋島」へ遷移する。

    元暦元年7月6日(1184)「緒方三郎惟榮・臼杵二郎惟隆・佐賀四郎惟憲」兄弟は「宇佐神宮焼き討ち」す
    る大罪を働く。

      「
吾妻鏡」は「・・・武士乱入の間、堂塔を壊して薪となし、仏像を破って宝を求め、眉間を
      
打破して白玉取り、御身を烈穿して黄金を伺い、其の間狼藉筆端に尽くし難し・・・
    と兄弟の狼藉ぶりを伝えている。

    この「惟榮」の宇佐神宮焼き討ちは、宇佐大宮司「公通」に緒方庄の「上分米」などの納入を怠たったこ
    とを問責されたことに端を発し、それまでの平家支配の中で、阻害されてきた事への怒りから「公通」殺
    害目的であったという。
    この行為は、世間の非難を受けることとなり、後年捕らえられ「沼田配流」の罪は、「義経」へ与同した
    ことではなく、この狼藉行為の大罪を問われたのだという。
                           
(注)「緒方三郎惟榮」没落の発端となった事件。

 
   元暦元年11月西国平家追討の総大将「源範頼」は周防国にあったが、寒さの中兵糧も尽き九州への兵船も
    無く、進退に窮していた。
    「豊後の水軍を支配していた惟榮は「兵船82艘」を調達「範頼」に献上し、平家追討に大いに武功を立
    てる。

    元暦二年(1185)「頼朝」との間が不仲となった「源義経」に対し、時の上皇「後白河院」は「緒方惟榮」
    の水軍力を利用、惟榮に先導させ西国に向かわせようとした。
    京を発って後、元暦2年11月6日惟榮は「大物浦(だいもつうら)』より船出するもシケに遭遇難破し捕ら
    えられる。
    文治2年11月9日(1186)「惟榮」は上野国「沼田荘」へ流刑となる。
    惟榮はその後赦免され、豊後に戻ったとされるが顛末不詳。 「惟榮」のその後は様々に説有るが、英雄
    「惟榮」にくっ付けた後年の作為も考えられ、根拠に乏しい。
    特に、惟栄を「
戸次氏」の祖とした系図は全くの間違い。兄弟たちも配流になったと言う


                  
                       緒方三郎惟榮館跡(豊後大野氏緒方町上自在字城)

                                                   参考資料     豊後国荘園公領集成七(下)
                                                              (平家物語、源平盛衰記)
                                                              大分県史中世篇 T
                                                              (吾妻鏡)
                                                              大分歴史事典   大分放送





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