道雪・温情と非情



      難攻不落の山城として「島津義弘」も撃退された「岡城」。その 「岡城址」本丸跡より南を望むと、南の深い峡谷
      (白滝川:滑瀬川とも言う)を挟み台地が広がる。標高はほぼ岡城址と同である。片ヶ瀬原という。大分県竹田市
      大字片ヶ瀬である。古くには「片賀瀬、方賀瀬」とも書いた。
      戦国期この片ヶ瀬には「戸次氏」の支族「片賀瀬戸次氏」の「片賀瀬城(戸次城とも)」があった。戦国末期当主は
      第四代「戸次山城守鎮秀」。大友義統の加判衆を務め、号して「戸次宗傑」。この家中に「由布九郎左衛門」と云う
      武将がいた。(由布は、油布とも書く。豊後には比較的多い苗字)。この「九郎左衛門」にかかわる「オト様」と呼ぶ
      史蹟が片ヶ瀬地区に残っている。
       戦国天正期「由布九郎左衛門」は豊後国内「湯布院、吉野」を転戦した後、道雪の重臣兄「由布雪下」と共に
      「戸次道雪」に従い筑後へ出陣した。
      この頃、筑前筑後地方は、復帰した「秋月種実」が着実に力を蓄え立花山城、宝満、岩屋城を窺い。肥前「竜造寺
      隆信」も肥後北部を制圧、加えて「柳川城・蒲池鎮並」を謀殺、一族をも滅ぼし筑前筑後は騒然としていた。
      大友方も、筑前大友五城とまで呼ばれた「柑子岳城」「安楽平城」「鷲ヶ岳城」が次々と竜造寺らの手に落ち、今や
      「大友義鎮、義統」にとって、「立花山城・戸次道雪」、「岩屋城・高橋紹運」が最後の砦であった。
      こうした情勢の中、天正12年3月24日竜造寺隆信「沖田畷」において「島津家久」と戦って戦死する。竜造寺は、戦
      死した隆信に変わり一族「鍋島信生(のちの直茂)」が竜造寺家中を率いた。信生は気骨のある智将とされ、隆信
      死後も、肥前、筑後内の国人領主たちを束ねた。
      豊後では「大友義統」が隆信戦死の混乱を突き、筑後国内の失地回復目指し筑後出陣を命じた。豊後勢は義統
      弟「大友親家、親盛」を総大将に豊後国内から寄せ集めた七千を与え出陣した。豊後勢は天正12年7月筑後入り、
      今は竜造寺に下った筑後南部黒木「猫尾城・黒木家永」を囲んだ。是が以後1年以上に亘って続く筑後における
      大友氏の戦の発端となる。大軍にて猫尾城へ攻め込んだ大友軍であったが籠もる黒木勢も応援の竜造寺勢含め
      二千、激しく反撃に出た。戦経験に乏しい若手中心の大友勢は一ヶ月が近く経っても戦況打開できず猫尾城は落
      とせなかった。業を煮やした義統は、「戸次道雪、高橋紹運」の両将へ出陣を命じた。
      8月中旬両将は四千五百率いて黒木へ、19日には着陣。そして「道雪」の巧みな戦略により、周辺の出城を落と
      し更に、竜造寺勢の潜む城島、大川一帯に火を放ち焼き払い排除。是により猫尾城は孤立、道雪は猫尾城家老
      「椿原式部少輔」を抱き込み猫尾城の「黒木家永」は自刃落城する。
      「柳川」奪還に執念を燃やす道雪は高良山にを本陣を置き、北野天満宮で陣没するまで一年以上に亘り筑後に
      留まり肥前鍋島勢との合戦に明け暮れる。
      この中には、方賀瀬城より出陣した「由布九郎左衛門」もまた、兄「由布雪下(雪荷)」の下、合戦に継ぐ合戦の
      日々だったとみられる。特に道雪の黒木出陣の折の耳納連山越えには、反大友の地元国人領主達の放った伏
      兵の激しい攻撃にさらされ道雪も危うかったが、由布雪下はここを己の死に場所と覚悟、殿(しんがり)軍を率い
      て敵中へ果敢に切り込み、立花の軍師「大橋桂林」と協力し敵兵を追い散らした。
      おそらく九郎左衛門も厳しい戦を強いられたに違いない。九郎左衛門は人の殺しあう合戦場の凄惨な状況を目に
      し戦の非常さを知った。九郎左衛門これ以上の殺し合いに耐えられなかったか、遂に兄雪下へ別れを告げ、豊後
      大野荘緒方郷「片賀瀬」へ帰って行ったという。
      戦国時代、武士達の勝手な振る舞いは厳しく罰せられ、ましてや戦場離脱や逃亡は臆病者の謗りをうけ厳罰に
      処せられた。 ところが九郎左衛門は無事豊後へ帰参している。是は側近「由布雪下」の弟であるが故の道雪の
      温情であろうか。道雪の筑後在陣中の出来事として「筑前戦国史(出典:浅川聞書)」に下記のような逸話が紹介
      されている。
      「道雪の出陣」は一年もの長きに亘っていた。立花山より道雪に従った者にとっては大変な長旅陣である。家族が
      恋しかったに違いない。時期的には久留米合戦の頃と思われる、道雪の家臣30人余りが長陣による望郷の念に
      かられ、家族に会いたいばかりに、密に陣中を抜け立花山へ帰ってしまった。是を知った道雪は、この者たちを
      陣中脱走者とみなし、家族もろとも断罪に処し陣律の厳正を示したという。この中には18歳「竹迫進士兵衛」の弟
      が居たが是を許さず切腹を命じたという。
      竹迫進士兵衛といえば、立花家中でも名の知れた勇士である。その弟にしても許さなかった道雪の非常な処置は
      柳川含む筑後の失地回復に向ける道雪の並々ならぬ決意の表れであったか。
      集団脱走組みも陣律は心得ていた筈である。それでも行動に出たのは、道雪の九郎左衛門への温情がそうさせ
      たとも云える。

      「由布九郎左衛門」のその後と「オト様
       「片賀瀬」に戻った九郎左衛門はそのまま土着、村人の世話人として働く。大友義統が改易になると、志賀氏も
      岡城を去り、文禄3年(1594)播磨国三木より「中川秀成」が入る。「秀成」は岡城の改築と町づくりに着手するも、
      大友の残党も多く不穏な動きは続いていた。このため片賀瀬に陣を張り事に備えた。この時、九郎左衛門は近
      隣の村人を指導し世話をした。是により村民の信望を集めます。その後九郎左衛門は秀成より近隣の村々を束
      ねる庄屋に任命され藩に協力する。以後「九郎左衛門」は屋号として代々踏襲されていきます。
      享保元年(1716)、豊前中津城城主病死により改易。岡藩六代「久忠」は城の受け取りと城番を命じられた。この
      折、入田小高野の小庄屋「児玉源左衛門」は献金をする。この功績を認めら源左衛門は片賀瀬の「大庄屋」に任
      じられる。小高野は片賀瀬の隣村で、格から言えば源左衛門は九郎左衛門の格下であった。是により120年もの
      間精勤した由布家は職を解かれる。やがて児玉大庄屋は、由布家代々の墓地に隣接して豪壮な屋敷を構え住ん
      だ。やりばのない不満を抱えた九郎左衛門は先祖代々の墓を移し、墓の土台を粉々に壊し、跡に庵寺を建てた。
      更に、石造弘法大師像を中心に、舟形地蔵尊、如来像、不動明王像を並列した。その下には十三仏を刻んだ石
      造物は今も残る。 村人は、此の地を「オト様」と呼び霊地となっている。
      「オト様」とは、御堂、御塔の意味と解釈されている。

             
               オト様由来案内板             電柱の右竹やぶ由布氏墓所跡。戦後まで
                                        ここには庵寺があった。
                                        中央左奥が旧児玉大庄屋跡


                                             参考資料   片ヶ瀬オト様説明板
                                                      筑前戦国史
 

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