壬申の乱の英雄
                
大分君「恵尺・稚臣」
おおきだのきみえさかわかみ」)


    日本書紀「天武天皇」紀によれば、天武天皇元年(672)壬申の乱」が発生した。
   天武天皇元年は干支の「壬申(じんしん)」即ち「みずのえさる」の年にあたる事から「壬申の乱」と呼ばれている。
   壬申の乱とは皇位継承に関る内乱である。日本書紀は天皇制の成立と、大和政権の地方統治による国家統一を、
   歴代天皇の活躍を中心に伝えているが、明らかに創作と見られる記述も多い。しかし壬申の乱は、日本書紀の完
   成(養老四年・720)より僅かに50年前の出来事であることから、概ね正確に伝えていると見られる。

    当時、皇位の継承は同母弟皇子がいる場合、その弟皇子が継承するのが慣わしとなっていた。
   「天命開別天皇(あめのみことひらかすわけすめらみこと:天智天皇:中大兄皇子)」には、同母の弟「大海人皇子
   (おおあまのおうじ)」がいた。しかし天皇は、大海人皇子を悉く疎(うと)んじ、折り合いはよくなかった。
   その為天皇は皇位を我子皇子「大友皇子」へ譲位することに決めていた。しかし病に臥した天皇は大海人皇子を
   呼び、皇位を譲ると伝えたのである。
   その時大海人皇子は何かを感じたのであろう。自分は不幸にも元来多く病を持っている。皇位は大友皇子へ譲る
   と辞退。即日に出家法服し、私兵を収め翌日には近江を出立、吉野へと身を隠す。大海人皇子の出立には、時の
   左大臣蘇賀赤兄臣、右大臣中臣金連、大納言蘇賀果安臣らが見送った、ある者曰く「虎著翼放之(虎に翼付け
   放つようなもの)」と言ったという。やがて是は事実となる
   大海人皇子の母は皇女、大友皇子の母は官女であったことから、二人が相容れることは到底無理であった。

    天武天皇即位前紀天智天皇十年(671)十二月天命開別天皇崩御。「大友皇子(弘文天皇)」が 皇位継承者と
   なった。
   皇位継承者となった大友皇子は、兵を集め武器を揃へ吉野の大海人皇子を挑発する。大友皇子が農民へ武器を
   与えるなどの不穏な動きが大海人皇子の下へ届く。座して自滅するを潔しとしないと決意した大海人皇子は吉野
   脱出、妻子従者諸共「伊勢」より「美濃」目指すことを決意する。
   大海人皇子は、この準備と併せ側近の舎人達へ指示した。地方豪族たちを身方に付ける事と、近江に残してきた
   「高市皇子・大津皇子」を脱出させ合流させること。
   この時、大海人皇子軍の組織化に活躍したのが、大海人皇子の舎人 「大分君恵尺(おおきだのきみえさか)」で
   あった。
   日本書紀の天武元年六月甲申、同六月丙戍の記事に、この乱において「大分君恵尺」の活躍の事が伝えられる。
   大分君(おおきだのきみ:おおきだは古くは碩田と書いた)とは、「古事記」の神武天皇に関する紀の末に出てくる
   豪族名で、神武天皇の御子三柱の御一人「神八井耳命(かむやいみみのみこと)」を祖とする豪族で、九州にては
   「火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連」と記述がある。古事記の記述では7世紀既に、大分国造(おおきだのくにみ
   やっこ)の大分君が、中央大和政権枠組みの中で皇室に仕え、一定の地位にあったことが窺える。
        
   この頃美濃では「多臣品治」が兵を興し交通の要所「不破」を抑え、朝廷軍の援軍補給路絶った。
   そして、日本書紀記述によれば「天武天皇元年六月甲申(24日)」大海人皇子は正妃、草壁皇子、忍壁皇子等に
   従者二十有余人。女嬬十余人にて吉野を発し、まず伊賀国から伊勢へ向う。
   密命受けた「大分君恵尺」は文字通り東奔西走、地方豪族を身方にすべく働く。是により、東国の伊賀、伊勢、尾
   張、美濃などの豪族が参加する。恵尺は敵中近江を往還し高市皇子、大津皇子の近江脱出を成功させ、伊勢に
   おいて大海人皇子軍と合流させる大きな役目をはたす。
   一方、大友皇子の朝廷軍は、「筑紫の太宰」、「吉備」などへ援軍助勢の使いを派遣するが大海人皇子方豪族に
   阻まれ成功しなかった。
   「古飛鳥宮」の占拠に始まる。勝ち戦に始まった大伴軍も朝廷軍の反撃受け苦戦するが立てなおし勝利する。
   そして七月丙申(ひのえさる)七日、大海人皇子軍は横河で近江軍を破り緒戦を勝利する。以後大海人皇子軍は
   各地で近江朝廷軍を撃破し連戦連勝。そして最終決戦へ向う。
   大海人皇子は総大将は高市皇子にたて、「不破」より軍を二手に分け、一隊は琵琶湖の西岸より大津近江へ、
   もう一隊は琵琶湖東岸を下り「瀬田瀬田橋の戦い)」へ向う。
   「天武天皇元年七月辛亥(かのとい)二十二日」。「大友皇子」軍は瀬田橋西岸に集結。その軍勢は、後方も見え
   ないほどの大軍であった。
   大友皇子軍は瀬田板橋の中央三丈余りを取り外し長板渡し、綱を繋ぎ「大海人皇子」軍が渡る所で綱を引き堕と
   す仕掛けをした。ところが大海人皇子軍の中に、仕掛けを見破った勇士がいた。
   「大津皇子」の舎人(とねり)「大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)」である。仕掛けを見破った稚臣は、雨と降り
   来る矢の中、甲冑に身を固め先陣きって瀬田橋へ駆け入った。稚臣は長矛棄て抜刀、大友皇子軍勢の中に切り
   込む。そこへ大海人皇子軍がなだれ込んだ。是に大友皇子軍は混乱し左右大臣らは逃走、大友軍は敗走する。
   大友皇子は追い詰められ逃げ場所がなくなる。
   日本書紀には「・・・於是、大友皇子走無所入、乃還隠山前、以自縊焉・・・」とある。
   この記述によれば大友皇子は追い詰められ、山前(やまさき)にて「首をくくって自殺」したことになる。おそらく、
   長い天皇史の中で即位僅かに七ヶ月で、首をくくった天皇は他にはいるだろうか。
   大友皇子の敗戦は、大海人皇子に比べ全てが後手となったこと。先帝「天智天皇」の執政に、地方豪族が不満を
   いだき身方と出来なかったこと。決戦を控え内部混乱が生じたこと。にあった。

       「大友皇子」の首晒す
       「大友皇子」の首は、七月乙卯(きのとう)二十六日。棒に刺され不破宮殿(仮宮)の前へ晒される。
        
       即位した天武天皇は、恵尺、稚臣二人の大分君の功績に報いた。天武四年(675)大分君恵尺は
       病に臥す。日本書紀天武四年六月癸酉(みずのととり)朔巳酉には、次の様にある。

         天皇大驚、詔曰 汝恵尺也 背私向公 不惜身命 以遂雄之心労于大役 恒欲慈愛 
                     故爾雖既死 子孫厚賞 仍騰外小紫位 未及数日 薨于私家

        「汝恵尺よ、お前は私心を捨てて国のために尽くし、身命を惜しまず先の大乱に功績をあげた。
        私は永くお前を慈愛しょうと思う。もしお前が死ぬようなことがあっても、子孫を厚く賞しょう。」

       恵尺は間もなく病死する。死後には「外小紫位(とのしょうしい)」という律令制度三位に相当する
       高い官位を授ける。一介の舎人に、天皇が詔を発し官位を授けることは異例の事である。
       兵衛大分君稚臣も天武八年死す。天皇は稚臣にも、壬申の乱のにおける瀬田の戦いでの先陣
       働きの功績に対し「外小錦上位」の官位を授ける。
       このよう天武天皇は、天皇の身分を越えて、大分の君「恵尺、稚臣」に厚い信頼を持っていたの
       である。
       「大分君恵尺、稚臣が」が豪族大分君の一族として大和政権へ仕える舎人であったことは疑いの
       余地がない。しかし、華々しい活躍以後の大分君の消息は全く不明である。大分国造その拠点
       となっ場所も、古墳の集まる南大分付近ではないかとの推測の域を出ない。
       
        大分市三芳字宮畑、通称椎迫に古宮古墳というのがある。「古宮古墳」は7世紀の後半の、
       古墳時代終期の古墳とされ、その構造が九州では唯一とされる大和明日香地方などの限られた
       地域階層によって造られた「石棺式石室」であったことから注目された。
       この古墳は、以前より知られてはいたようだが、昭和54年(1979)周囲の団地造成に関連し、
       昭和55年、56年と発掘調査されたが一部は削られ、その後は放置され竹藪となっていたという。
       古墳時代が終わろうとするこの時代に、大和構造の古墳が何故大和より遠い、大分の地に築造
       されたのか。ここで注目されたのが「大分君(おおきだのきみ)恵尺(えさか)」「稚臣(わかみ)」
       の両人である。こん日では「古宮古墳」に「恵尺の墓」というロマンを抱くのみである。
       是より二世紀のち、豊後国には「大神良臣」が下向。豊後武士「大神氏」が形成されていく。

                        
                       古宮古墳:凝灰岩の岩盤の中を四角に刳り貫いて
                       造られている。大和様式の古墳は九州には他に無い。
                      古墳の埋葬者は、壬申の乱の英雄「恵尺(えさか)」
                       が有力視されている
                          


                                           参考資料   日本書紀
                                                    古事記
                                                    大分歴史事典
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