大友氏の由来 


     豊後大友氏は「大友能直」に始まる。
     「能直」は、鎌倉時代創期の戦国武将、承安2年正月3日(1172)相模國で誕生。
     幼名:一法師丸。貞応2年11月27日 52歳にて没した。
     「能直」は源頼朝の信頼厚く文治4年(1188)17歳で元服。左近将監に任じらる。
     常に頼朝の座右にあって働きに功労があった。
     建永元年(1206)豊後守に補任(ブニン)豊後國を所領する。
     「能直」の出自については、大友氏は「源 頼朝の御落胤」として伝えてきた。
     それは、大友氏系図や戸次氏系図にも書かれて
いる。

  (1)能直頼朝御落胤説その1
     イ)戸次氏系図記述

      清和天皇拾代之落胤権大納言右近大将征夷大将軍源頼朝男也 字一法師冠者左近将監
        検比違使左衛門尉従五位上豊前豊後守〜中略〜母者波多野四郎藤原経家娘〜中略〜
        〜彼娘於頼朝宮仕号
利根局寵愛是〜中略〜式部大輔正五位下藤原親能給〜中略
                           〜同年同月於親能館出生・・・以下略
    ロ)大友記「大友由来之事」記述
     大友豊前守左近将監能直と申は、右大将頼朝公之御息也。其謂を尋るに上野國大友四郎
     大夫經家之息女を頼朝寵愛ましまし懐妊とならせたまいし時、大友齋院之次官親義(能)
     にたまいて後、誕生なりし・・以下略
    ハ)豊筑亂記「能直豊後下向之事」
     
大友左近将監能成の息成、齋院次官親能養子なり、じつは右大将頼朝公の御子
    ニ)雉城雑誌一
     能直源頼朝直子也、母者上野州刀禰大友四郎大夫經家之女也右大将へ宮仕え名刀禰局

     
これらの記述は、頼朝の側室利根局が懐妊したので、藤原(中原)親能(チカヨシ)に下げ渡し
      生まれた能直を養子としたとする、頼朝の御落胤説である。

  (2)頼朝御落胤説その2
     もう一つの御落胤説は志賀系圖らにみられる、懐妊した利根局を「近藤能成」に遣わし同家で生ま
     れ、養子にしたとする説。


  (3)
能成実父説(有力説)
     これに対し
近藤(古庄)能成能直実父とする説。
     これは「吾妻鏡」等の記述に能直の頼朝御落胤説に関わる記録は無く、「吾妻鏡」には四箇所もの
     「古庄左近将監能直」とあること、また近年になって鎌倉時代末期に書写された野津本「北条系図
     大友系図」の発見にあるという。
     この発見は大友氏自体が「古庄能成の能直実父説」を信じていたことを示す証で吾妻鏡には能直を
     「親能猶子」と書き、「志賀文書」に能直自身が親成を親父と書いていて、親能の養子になったこ
     とは間違いない(大分歴史事典、渡辺澄夫))。
     この説は、史学者芥川龍男氏も著書「豊後大友氏」の中で肯定している。 能成、親能の妻女は、
     波多野経家の姉妹で、能成は身分も低く頼朝に重用された中原親能(チカヨシ)に能直の将来を託
     したと見られる。また、大友姓は母方大友郷大友姓に由来するという。

  (4)参考
     参考までに大友系図より「能直」部分の記述は次の通り
     @大友系図その二
              「建久7年(1196)25歳で豊後下向」
     A大友系図その三
              「能成の子、建久7年6月1日 下向」
     B大友系図その四
              「齋院親能猶子」
     C大友系図その五
              「建久6年6月11日、親能嫡子」
     このように記述に違いがあるが、A、Bは上記(3)「親成」実父説に整合はする。

     大友氏がが
源氏姓を用いるようになったのは、足利尊氏が大友氏を利用するため大友七代千代松丸
     (氏泰)に対し猶子の儀をを認める御教書(ミギョウショ)と、偏諱「氏」を与え「
源 氏泰」と
     したのが始まりで、以来代々「源氏姓」をつける様になった。是が姓祖「能直」にまで遡り、頼朝
     御落胤説が生まれたと見られる。
     能直の出自は以上のようである。能直は貞応2年11月2日家督を嫡男親秀に譲り、11月27日京都で没
     した。能直は豊後に入ることは無かった。当時京では、西国は支配地であって、住む場所とは見ら
     れていなかったのかも知れない。  

       おおともやかた 
          大友館跡 僅かに土塁残る(大分市上野)         往時の状況残る
                                津久見別館跡の古井戸付近(津久見市大友町)

 
     建久7年(1196)古庄重能(古庄四郎、大友初代能直の弟。古庄氏の祖)が先発、豊後守護代として
     豊後に赴く。(重能の二男「景泰(かげやす)」も三代頼泰の守護代を務めているので、大友氏下向
     までは直系古庄一族が豊後の施政にあたったとみられる)
     大友二代親秀もまた豊後に入ること無く、豊後入りは三代頼泰になってからである。頼泰は仁治3年
     (1242)には在京のまま、豊後筑後の守護に任じられている。
     頼泰の豊後下向は1271年頃とされてきたが、1269年(文永6年)には入府していた説が有力である。
     (大友系図はその1からその5まである。能直の豊後下向について、その2、3では建久7年6月25歳で
     下向、その5では、建久6年6月11日下向とある。いずれも後世書き足したものであろう)
     豊後大野市藤北「常忠寺」に能直の墓とされる大きな五輪塔がある。史実には合わないが、中世の傳
     説遺跡として保存していきたいものです。
     豊後入りした大友氏は府内の高國府(タカゴウ)上野の丘陵地に館(守護所)を置いた。
     現在この場所は住宅が立ち並び、僅かに残る土塁上に碑が立つのみ、当時の面影を残すものは残って
     いない。大友館はほぼ長方形をなし6000坪もあった。北西に枡形を儲け大手口とし、周囲を幅広の土
     塁を回し、東から北側は自然地形を巧みに使い南から西は土塁下に深い空堀を巡るらし、敵の侵入に
     備えた。南側に近年まで空堀跡が残っていたが埋められたという。
     豊後入りした大友氏は、次々と支族を各地に配置して、それら支族で構成する武家集団を抱え、名門
     少弐氏らに並ぶ勢力となった。
     元徳2年(1330)には、大友氏六代貞宗二男貞載によって、筑前國立花山に立花城が築き「立花氏」
     起こす。立花城は「西の大友」評され、大友氏の博多、筑前國支配の要となる。
     豊後では、貞載の弟五男千代松丸が七代目を相続、名を「氏泰」と改める。
     この時から、大友氏は分割惣領制より、兄弟の中でふさわしいものが家督を相続する単独惣領制が定
     着する。大友氏は主家以外「大友姓」を使うことを不文律としたので他の地を求める必要があった。
     貞載の立花城築城もこの為であったことも考えられる。
     南北朝期に入り大友氏は、正平4年大保原合戦(1359)(筑後川左岸豊満川筋、小郡原、大原、山隈
     原一帯で、懐良親王を奉じる宮方菊池武光四万、武家方少弐頼久六万が激突した合戦。今も宮の陣、
     太刀洗といった地名残る。大友氏も武家方で山隈に陣を敷くが動かなかった)で勝利し勢いづく南朝
     懐良親王(カネヨシシンノウ)菊池武光らに激しく攻められる、大友勢は高崎山城らに篭り抵抗する。
     以後大友氏は九州有数の戦国大名へと成長する。時代は過ぎて第二十代義鑑の時天文3年(1535)4月、
     勢場ヶ原に大内勢を下し大友体制整う。
     大友の政治体制は独特のもので、加判衆(家老職)を中心に地方は國や郡単位に「方分(カタワケ)、
     政所(マドコロ)」に加判衆、国人領主を配置し支配した。
     天文19年2月10日大友氏に事件が勃発、惣領大友義鑑が家臣に襲われ深手を負い二日後死亡。世に言う
     「大友二階崩れの変」である。
     この事態をすばやく収拾したのは
戸次鑑連であった。首謀者とされる「入田丹後守親誠(ニュウタ
     チカザネ)は逃亡先の阿蘇惟豊に討たれる(大友興廃記では、襲撃者の津久見、田口らの謀反と扱っ
     ている)。
大友義鎮(後の宗麟)は二十一代大友氏惣領を継ぐ。事件の時義鎮は別府に湯治に行って
     いたという。義鑑に行かされたものか、自分から行ったのか不明だが、義鎮の事後処理は素早かった
     義鎮は、豊州三老と名を馳せた、戸次鑑連(ベッキアキツラ)臼杵鑑速(ウスキアキスミ)吉弘鑑理
     (ヨシヒロアキマサ)らの有能な家臣団に支えられ、やがて九州六ヶ国の守護に付く。
     しかし、永禄12年になると筑前國では、高橋鑑種、立花鑑載の謀反、中国毛利の進出、秋月種実の台
     頭など、北部九州の大友氏を取り巻く情勢は切迫した状況となった。転機となったのは大友氏の佐嘉
     竜造寺氏攻めの失敗である。筑前筑後勢國人領主の離反が顕著となる。さらに天正6年11月日向進出を
     図った大友宗麟は高城耳川合戦に大敗。一気に大友氏は退潮に向かう。
     この頃の「宗麟」はキリシタン信仰に傾倒著し、戦国武将としての器量失って行った。それは、今山
     合戦、高城合戦でそれぞれ無能な「大友八郎親貞」「田原紹忍」を総大将に任命したことにもみられる。
     そして天正14年10月薩摩島津勢は肥後口、日向口の両面から豊後國に侵攻、庶家岡城志賀親次は、地
     の利を生かし島津軍を撃退。大友興廃記によれば、志賀氏は大友氏豊後下向時に、古庄氏らと共に先
     陣として豊後入りした一族である。
     大友勢は玖珠角牟礼城森氏、丹生城(臼杵城、宗麟)と要害を生かし島津軍を撃退するが、同年12月
     戸次川の戦いで大友軍は敗退。
     戸次氏17代「戸次統常」は、島津に内応した父鎮連の汚名を晴らさんと尋常の覚悟を以って合戦に望
     むも、応援の「千石久秀」の無謀な渡河作戦のため戸次川(大野川)を渡り家臣諸共戸次庄門前村、
     支川佐柳川あたりで討死。惣領の大友義統は逃亡する。「義統」はさらに「文禄の役(朝鮮)」で敵
     前逃亡の謗りを受け改易。400年続いたは名門大友氏は所領を失う。
     浪々の身であった義統は関ヶ原の戦い(1600)を前に、西軍毛利輝元の周到な誘いに乗り豊後へ帰参。
     大友氏再興かけて徳川方杵築城攻めるが「石垣原合戦」で黒田如水に大敗。遂に大友氏滅ぶ。
     この合戦で忠臣「吉弘統幸」は壮絶な討死遂げる。大友氏にとって不幸なことは、「宗麟」のあとの
     「義統」の出現である。義統は凡庸で臆病、戦国武将の才覚に欠けていた。文禄の役で敵前逃亡の攻
     めを受けたのも、臣下に与える恩賞地の欲しかった秀吉には格好の口実で、とっくに「義統」に一國
     を預ける器にあらじと見られていたに違いない。

     なお、大友氏を姓祖とする苗字は62に上る(大神氏からの継承含む)
         大友氏、一万田氏、立花氏、吉弘氏,日田氏、板井氏、古庄氏、岩屋氏、
         田原氏、志賀氏、戸次氏、臼杵氏、田北氏、松岡氏、吉岡氏、清田氏、
         佐土原氏、富永氏、大神氏(大賀)、利光氏、菊池氏、野津原氏、
         野津氏、藤北氏、利根氏、田口氏、田中氏、高橋氏、清家氏(勢家氏)、
         詫摩氏 など。




    「参考写真 宗麟史跡

          
                大友館跡 見取り図(大分市上野)


                      宗麟キリシタン墓(津久見市)
                       法名 DON FURANCISUKO OTOMO SORIN

                      宗麟 佛式墓(津久見市)
                   法名 瑞法院殿前羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士
                      九州三嶋等伊豫菅領従四位下兼左近衛権少将
                      大友左衛門督源義鎮と刻まれている
 

           参考資料  大分県郷土資料集成
                (大友記、豊筑亂記、雉城雑誌一)
                 大分県史(中世篇)
                 西国武士団関係史料戸次文書・清田文書
                 西国武士団関係史料戸次文書
                 大分歴史事典(大分放送)
                 立花城興亡史(吉永正春)
                 豊陽志 上(木村春碩
                 豊後大友氏(芥川龍男)



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