大友宗麟

      「キリシタン大名大友宗麟                              リンク:「大友宗麟像

       「積極的にキリスト教を庇護し、自身も入信したキリシタン大名。日本最初の大砲の導入。九州六カ国の
       守護にも任じられた宗麟。その研究は広く行われ出版本も多い。しかし、戦国武将としての評価は分か
       れる。大友氏400年の物的人的蓄財を宗麟、義統親子は浪費してしたとの指摘もある。 大友興廃記、
       豊筑乱記、九州諸家盛衰記等々は優れた武将と伝える一方、戦国武将としての資質を疑わせる行状も
       多く伝える。」
        「大友宗麟」第二十一代豊後大友氏当主 :本名「大友義鎮(おおともよししげ)」 
                                       入道して「瑞峯宗麟」・宗滴・円斎:府蘭(洋名) 
                                                           
                      父:大友義鑑 母:大内義興の女が有力 享禄3年1月3日(1530)生
                      幼名塩法師丸、五郎、新太郎ほか 天文8年(1539)十歳にて元服
                      嫡子「22代当主:大友義統」、次男親家(キリシタン:田原常陸介
                      九州探題職、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後六カ国守護、
                      天正15年5月23日(1587)没 享年58歳
                      法名:九州三嶋等伊豫官領 従四位下左近衛権少将
                          「瑞峯院殿羽林次将兼左金吾久庵宗麟大居士」(津久見市佛式墓碑より)
                          洋名「DON FUIRANCISUKO OTOMO SORIN」(キリシタン墓より) 

                      大友宗麟肖像(大分県史:中世編Vより)
 
    「キリシタン武将」として知られた「大友義鎮(宗麟)」。しかし彼の初陣の様子や合戦での武勇は殆ど伝わらない。
   戦国九州の争乱期、島津兄弟や秋月種実らが自ら合戦に臨み軍を鼓舞したのに比べ、武将としての器量を疑わ
   せる判断や行状ばかり伝わる。。果たして「大友義鎮(宗麟)」はどんな武将であったか。

 生い立ち
    義鎮は享禄3年(1530)大友氏20代「義鑑」の嫡男(正室の長男)として生まれた。母は公家の流れ引く「坊城氏」
   の出とも「大内義興」の娘とも云われる。幼名は「塩法師丸」といい、僅か10歳にて元服「五郎」と称したが、翌年
   将軍足利義晴の諱(いみな)一次受け「義鎮」となった。義鎮の元服は父義鑑の13歳に比べ3歳も早い、此れには
   義鑑のいずれは大友家を背負う義鎮に対する期待があったと見られる。父義鑑は13歳の元服と同時に家督を相
   続した。義鑑の父「義長」祖父「親治」はまだ存命し、義長は義鑑の執政を支え家法「義長条々」を定め大友家を託
   した。こうした義鑑自身の経歴から義鎮を早く元服させることによって将来の惣領としての自覚を持たせたかったの
   ではないだろうか。守役には老臣「入田丹後守親誠」が就いた。
   しかし九州一の守護大名の嫡男としてとして我がままいっぱいに育った義鎮は感情の起伏甚だしく、その養育には
   手をやいた。義鎮は病弱だったとされるが振る舞いは粗暴で荒馬を好み、剣法は当時九州肥後中心に流行した、
   活殺剣法タイシャ(體捨)流を学んだ。試合に真剣を用いらせえるなど家臣への思いやりに欠けた。こうした家臣に
   対する理不尽な行動は義鑑や側近を悩ませた。

 二階崩れの変:家督相続
   この義鎮青年期の行状が義鎮の家督相続に至る「二階崩れの変(天文19年2月10日)」を招いたのである。
   此の「変」の真相は不明であるが豊筑乱記などは重臣津久見、田口らの謀反と伝える。
   通説には、行状粗暴な義鎮に大友家の危機を感じた義鑑が義鎮を廃嫡にして寵愛する側室の子「塩市丸」を後継
   とすることを4人の老臣に伝え、強く反対されたことに端を発する。(詳しくは別ページ二階崩れの変参照)
    しかし此の変の首謀者は側室と「入田丹後守親誠」である。その証拠に事件後親誠はいち早く逃亡している。
   親誠は側室と図り義鎮の廃嫡を義鑑に勧めたとみられる。義鎮廃嫡に異議をとなえた斉藤播磨、小佐井大和が謀
   殺されたことに身の危険感じた津久見美作、田口蔵人佐は大友館を襲う。深手を負った義鑑は2日後死亡。義鎮が
   21代家督を継ぐ。首謀者とされる入田親誠の背後に本家大友氏の混乱を煽る叔父「菊池義武」の存在を指摘する
   説もあるが直接関与したかは不明である。状況証拠として義武は讒言を使い絶えず本家と対立、反大友勢を催促し
   大友氏の家督を覗っていたので、何らかの謀り事があったやもしれない。
   このように通説では、義鑑が病弱な義鎮を体よく別府へ湯治に追いやり、その間後継を塩市丸とすることを図ったと
   されるが、事件後「佐伯惟教」が迅速に義鎮の警護先導に当たるなど義鎮の事後処理は素早かった。「二階崩れ
   の変」は義鑑の義鎮廃嫡の動きを察し、自ら湯治と称し別府へ避難した中、突発的に発生したのではないか。
   こうして天文19年2月20日義鎮は家督を継ぎ大友館へ入った。

 「ザビエルとの出会い
    義鎮が当主を継いだ翌年、天文20年閏正月(1551)義鎮に、そして後々大友家の衰退に影響与えた人物が登場
   する。それは山口にいた「フランシスコ・ザビエル」を豊後へ招いた事である。義鎮の目的は交易であったとされるが
   ザビエル一行の整然とした府内入、ザビエルに神々しく接する乗組員見て義鎮は新鮮な感銘を覚えた。義鎮は直ぐ
   に入信することはなかったがザビエルに布教の許可をあたえた。 以後豊後府内にはトルレス神父、アルメイダ
   神父、カブラル神父や司祭らが次々と入り25年にも及ぶ布教が続く。此れにより豊後国内のキリシタンは急速に増
   大するが、一方では大友義鎮夫妻、子、縁者をも巻き込んだ混乱が大友家を揺るがす。(此のことについては深く
   触れない)

 謀反頻発
   義鎮の三十数年の執政が始まったが、それは家中謀反との戦いと共に強まる毛利、竜造寺、秋月島津ら外圧との
   戦いであったと云って過言ではない。
   天文22年一万田弾正、服部右京らが謀反の疑いで殺される。これは義鎮が美人であった弾正の妻を奪う為で
   あったと伝えられるが、義鎮の好色がこの様にとられ、後年の高橋鑑種の謀反も兄弾正を殺し妻を奪った義鎮への
   遺恨と誤解されたのである。鑑種の謀反は宗麟の執政への不満と毛利の干渉である。
   そして義鎮の最初の決断は肥後統治の為、菊池家に入りながら大友家の家督を狙う叔父「菊池義武」の粛清であ
   った。義武は肥後、筑後勢を集め挙兵したものの小原鑑元、戸次鑑連に攻められ降参蟄居を命じられていた。
   天文23年義鎮は義武を和議を口実に豊後へ誘い、途中豊肥街道の木原(竹田市城原)に刺客を伏せ謀殺した。
   弘治2年5月一大謀反が起きた。「氏姓遺恨事件」である。大友家には大友氏より分かれた御訳衆(同紋衆)、古く
   からの藤原、大神氏を祖とする国衆、他国から給仕奉公衆、大友氏下向時随身供奉の下り衆と居た。中でも同紋衆
   国衆の間では処遇巡り争いが絶えなかった。此の為、義長や義鑑は 「加判衆」の数を同紋衆四、国衆二と定める等
   バランスをとってきたが、義鎮の同紋衆の重用、国衆差別に大神氏 を祖にもつ小原鑑元、佐伯惟教らが反発。豊前
   筑前の反大友勢を集め義鎮の殺害に動いた。鑑元は肥後平定に活躍し義鎮の加判衆となり、関城(南関)城督と
   して肥後の守護代努めた武将である。反乱は高橋鑑種らの働きで鎮圧されたが府内は騒然となり、義鎮も臼杵へ
   避難した。双方の戦死は数千にも達した.。氏姓遺恨の争いはその後も続く。
   弘治3年5月18日(1556)毛利と通じ 豊前の山田隆朝、仲八屋宗種、筑前秋月文種、筑紫惟門らが蜂起したが、
   大友は豊前に田原親賢、田原親宏らを送り討伐。筑前古処山城秋月文種には戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理、の
   老臣達を派遣し鎮圧した。この時文種の嫡男「種実」は毛利勢に守られ山口へ落延び、後年成人して帰城反大友の
   急先鋒旗頭となる。

 宗麟と称す:その行状
   義鎮にとって幸いしたことは、 義鑑の残した忠義の家臣、吉岡長増、臼杵鑑速、吉弘鑑理、斉藤鎮実、戸次鑑連、
   と云った老臣たちの存在であった。有能な老臣達の働きによりに義鎮の威勢は絶頂期を迎え、豊府には多くの商
   船が入り商家が立ち並び繁栄した。府内にはキリシタンがあふれ教会も建ち合唱隊も生まれていた。義鎮は交易に
   よる利益を将軍家対策に使い、遂に九州探題職まで上り九国六カ国の守護にも任じられた。
   永禄4年秋、毛利元就は突然門司城を攻め占拠する。義鎮は豊前苅田松山城まで出陣、戸次鑑連、臼杵鑑速ら
   諸将に二万の兵を与え奪回に当たったが攻めきれず大きな損害だし撤退した。
   義鎮は実戦の経験は殆ど無かったとみられる、此れまで負け知らずの戦いも宿老たちの働きによるものであった。
   其れだけに、和睦を元就に欺かれ自ら出陣しながら敗戦、門司城を奪われたことに落胆した。
   この頃より義鎮の行状が不可解をおびてくる。永禄5年7月義鎮は剃髪「瑞峯宗麟」と号した。この突然の出家は
   門司 敗戦が起因していることに違いなが、招いていた京都大徳寺の高僧「怡雲宗悦」の存在があったとみられる。
   「諸家盛衰記」には「怡雲」和尚が、後に宗麟が出奔(行方不明)になり精神的に落ち込んだ折宗麟を支えた事を
   伝えている。この宗麟の剃髪には、家中も戸次鑑連田原親賢ら重臣三十数人が倣った。
   しかしその後も宗麟は、あのザビエルとの出会いの感銘はどこへ、無分別で奔放な行状に家中の者は眉を寄せた。
   大友記や九州諸家盛衰記はこの頃の行状を幾つも伝える。宗麟はその場の機嫌に任せて功無き者に恩賞を与え、
   科(とが)無き者を手討する等は数知れないとも伝える。何時しか宗麟は歌舞酒興風流に慰み、京堺より四座の猿
   楽大夫、俳諧など呼び、好色で国中より美女を集め、いかなる野人の娘でも色よければ御前に召出し、財宝与え浪
   費し、夜昼閨中(寝屋)で過ごした。この義鎮の行状を諭す者無く諂うばかりであった。見かねた戸次鑑連は一計を
   もって諌言したという。(戸次鑑連諌言之事
   義鎮の行状は一旦は鎮まるが好色な性格はすぐには治まらなかった。この義鎮の行状に御廉中(奈多夫人)は逆
  上、山伏僧を使って義鎮を呪詛に至る。ある時義鎮は突然館より姿を晦ます。家中は大騒ぎとなり遠く彦山、阿蘇山
   まで探索したが行方は分からなかった。十余日過ぎて義鎮は思いもよらなかった所にいた。府内近くの上原の民
   家に居ることがわかった。(「府内近くの古見浦の柴葺きの庵に居た。」とした書もある。)驚いた家中の者が馳せ参
   じたが、義鎮は茫然として館を出て行った後のことすら覚えてお らず打ち臥すばかりで帰る事を拒んだという。
   この時臼杵にいた「怡雲宗悦」和尚は宗麟に説法行を修めさせ心を鎮めた。(大友宗麟出奔

 丹生城臼杵城
   九州諸家盛衰記によれば宗麟は永禄6年丹生島(臼杵)に城を築き入ったと伝える。只、築城の時期は弘治年間に
   は築かれていた記録が有り既に臼杵城は所在したとみられる。宗麟の臼杵移住の理由は定かでないが、深刻とな
   っていた奈多夫人との関係が影響していることは否めない。一方で大友若林水軍の拠点一尺屋に近く、要害の島
   丹生島を選んだのである。九州諸家盛衰記に当時の丹生島の要害の記述がある。「丹生島は陸地を離れ(島)西
   より東に突出し、巌壁四方に廻りて、其高き事或は十間、或は七、八間、潮漲(みなぎ)っては白浪巖を洗ひ、雲晴
   れては明月軒の甍(いらか)を琢(みが)く、岸壁の上には大木朶(えだ)を双(なら)べ自ら楯の如し、追手口(大手)
   は岩石を葛折に切り通し階(きざはし)を切付けて、陸路(くがじ)より通路の橋一筋あり、搦手は寅卯の方にして、
   岸壁穿ち、船手の出入り自由を得たり是を宇土野口と云ふ。・・・」と伝える。

 「西の大友立花鑑載謀反
   永禄7年宗麟は毛利と講和を結ぶがこれは元就の時間稼ぎに過ぎなかった。永禄9年元就は宿敵尼子義久を滅
   ぼすがその間も周到に反大友の手筈を練っていた。永禄8年6月(1565)宗麟にとってまさかの事件が発生した。西
   の大友と怖れられ筑前、筑後当地の要である立花山城立花鑑載」の謀反である。此の謀反は元就と、元就に通
   ずる秋月種実が関わったことは確実である。この鑑載の反乱は戸次鑑連、吉弘鑑理によって封じられ一旦鑑載は
   降参する。しかし永禄10年今度は宝満山城高橋鑑種ら筑前の反大友勢が蜂起。宗麟も高良山城まで出陣する。
   翌11年2月5日(1568)鑑種に呼応して立花鑑載再び謀反。宗麟は戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速の参老を派遣
   討伐にあたるが、戦いは五カ月に及び、戸次鑑連の内通作戦が効を通し遂に鎮圧、鑑載は自害する。
   永禄12年5月毛利軍が立花山を急襲占拠。宗麟は再び戸次鑑連に奪回命じる。永禄12年5月6日「多々良川の戦
   い
」を挟み半年に亘る長期戦の膠着状態が続いたが、大友の宿老吉岡宗歓の毛利の後方拠点山口攪乱作戦に
   より毛利軍は立花山城を開け撤退する。これにより呼応した筑前の反大友勢は降参。首謀の高橋鑑種、一旦は戸
  次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理ら豊州三老は鑑種の切腹決めるが、一万田の助命嘆願により小倉に蟄居させられ、
  二年に及ぶ筑前の争乱は鎮圧された。
 
 老臣たちの死愚将田原紹忍登場
   天文、弘治、永禄と家督継承以降宗麟は、精神的不安定を見せながらも有能な家臣らに支えられ家中の混乱も
   治め外圧と戦い、永禄末期には戦国大名としての地位を築いた。絶頂期を迎えていたと云ってよいだろう。しかし
   元亀元年8月20日の佐嘉侵攻「今山合戦」の失敗以降、宗麟の打つ手に狂いが生じる。佐嘉には大友系図に
   その存在すら確認できない大友親貞を総大将を命じているが、その人物像は全く不明である。親貞は戦経験には
   乏しかったとみられるが、単独惣領制の大友家以外では大友姓は使えなかったはず、親貞とは何者か。
   宗麟は元来病身であったが、この時期大きな病気を患っていたという。こうした事情もあってか表向きの家督を
   「義統」に譲る。そして天正2年までに、此れまで大友家の政務を担ってきた吉岡宗歓、吉弘鑑理、臼杵鑑速らの
   老臣が相次ぎこの世を去る。戸次鑑連も立花山城督として筑前に入っていた。
   これら老臣の後に重用されたのが「田原親賢(紹忍)」である。親賢は宗麟の正室奈多夫人の兄で、奈多八幡宮
   より田原家の養子となった人物である。親賢は宗麟の出家と同じくして入道し「紹忍」と号した。宗麟は紹忍を重用
   し、紹忍も宗麟に諂って地位を築いたのであった。豊筑乱記には「宗麟は紹忍を近習に任じ、弁舌利発で宗麟の
   御気色に合叶うため他の者は臼杵に面を出す者もいなくなった。」とか「臼杵、吉岡、吉弘が健在で宗麟に助言
   していた間はさして奢(おご)ることもなかったが、三人亡きあとは紹忍一人が日の出頭人にて、家老職の輩も
   紹忍に威勢を奪われて、嘘病使って出仕を控えた」とも伝える。此れに宗麟は無礼と呼びつければ、紹忍は御前
   の者を悪しき者と申し上げるので、傍輩の者も紹忍を猜(そね)み宗麟を恨み剰(あまつさ)え島津に内通する者を
   生んだとまで伝える。こうした田原紹忍への不信と宗麟への求心力の低下が家中の結束を妨げ、後の「耳川の
   戦い」の敗戦につながったのである。
  
 「夫婦関係
   ザビエルの府内入りより二十余年、キリシタン信仰は武士間にも及んでいた。天正3年宗麟の次男「親家」が洗礼を   
  うけ法名ドン・セバスチャントなった。奈多神宮大宮司家出身の正妻の多夫人は大友家のキリシタン化に強く反対、
  激高し、キリシタン神父や教会への襲撃まで計画イザベルと蔑称される。更に厄介なことは、京の公家柳原家より
  田原紹忍の養子となっていた親虎も周囲の猛反対振り切り入信。宗麟夫妻の夫婦関係は一層険悪となった。
  宗麟は夫人や義統、紹忍らが親家、親虎の改宗に持つ強い不満を有耶無耶に抑えた。宗麟はキリシタンを庇護しな
  がら自身は仏法を修めキリシタン化することはなかった。しかし絶頂期を迎えていた宗麟であったが、この頃宗麟は
  心身共に疲れていたと見られ、夫婦間のこともあってその心はいつしかキリシタンへ傾いていたとみられる。
  宗麟は次男親家、義甥親虎のキリシタン入信をあくまでも擁護した。この宗麟の態度に奈多夫人は狂乱状態となり
  あからさまなキリシタン弾圧を行った。正確には分からないが天正5年頃奈多夫人との夫婦関係は遂に破綻する。
  そして離婚した宗麟は新婦人を迎えた。ところが新夫人は奈多夫人の傍女中の頭人であったので前夫人にとって
  は大変な屈辱であった。さすがに宗麟も城内で再婚生活とはいかなかったので、城の南東五味浦へ新居を建て城を
  出た。この場所は城より海を隔てて六町ばかり、直接見通せる場所であったので前夫人の怒りは頂点に達した。

 「土持氏討伐一次日向出兵)」
   戦国時代日向国は北部門川、縣一帯を土持氏が、中南部を伊東氏が支配した。土持氏は宇佐神宮神官田部氏の
  出とされ平安時代にはすでに日向中北部を領していた。、伊東氏は源頼朝の御家人工藤祐経の系譜伊東祐持を祖
  とする。土持氏は縣松尾城、伊東氏は都於郡城や佐土原をを拠点として支配した。両家はある時は協調し、ある時は
  激しく争い対立した。中でも伊東義祐氏は日向中南部中心に48もの城を構え隆盛を極めた。豊後大友宗麟の時代
  には、義祐は宗麟の姪子を次男義益(早世)の嫁に迎えるなど姻戚関係にあった。土持親成も大友氏の旗下として
  従っていた。元亀3年5月伊東義祐は真幸院の回復に大軍を送るが、僅か300とも伝わる島津義弘軍の前に大敗す
  る。後年九州の桶狭間と称された合戦である。此れを機に伊東氏は一気に衰退へ向かう。伊東氏の圧政に苦しんだ
  国内民衆蜂起、島津ヘ靡き日向における島津の圧力は伊東義祐の身辺に及んだ。天正6年冬厳寒の中義祐は遂に
  佐土原城脱出し宗麟を頼った。当然土持氏に対しても大友氏離反へ攻勢を強めていた。親成は一時島津、大友の
  二股に通じていたが大友離反は決定的となった。
  大友氏にとって、700年に亘り日向北部を拠点とする土持氏は南の防衛線でもあった。ところが伊東氏が木崎原の戦
  いで敗北以来、島津は日向への圧力強め鎌倉以来の伊東氏の支配は崩れた。豊後南部国境の防衛拠点が島津化
  することに危機感抱いた宗麟は天正6年3月15日、大友義統総大将に三万の大軍で土持氏の縣松尾城攻め落とす。
  当主親成捕縛され豊後連行の後自刃させられる。

 「フランシスコ宗麟
   自ら出陣しながら門司城奪回、佐嘉竜造寺攻めに失敗。他国の毛利、竜造寺に煮え湯浴びた。宗麟にしてみれば
  日向縣土持氏討伐の大勝に気持ちは高揚していたはずである。前奈多夫人の猛反対にも関わらずキリシタンを庇護
  実子や家臣らの入信を擁護してきた。しかし宗麟自身は仏法三宝に帰依し入道「瑞峯宗麟」となった。その宗麟が土
  持氏討伐後時をおかずキリシタン入信を決意したのは、土持討伐の高揚が何かの思いに至った事に違いなかろう。
  宗麟は三人目の妻にまず洗礼を受けさせ法名を「ジュリア」とした。
  天正6年7月25日宗麟は臼杵においてカブラル神父により洗礼受け法名「ドン・フランシスコ」となった。この時宗麟と
  共に数名の者が入信しているが、おそらく宗麟の指名によるものであろう。宗麟のキリシタン入信は家中に驚きを
  もって伝えられた。これは宗麟の日向二次出陣僅か二カ月前の事である。此の後の家中の入信は数百に上ったと
  みられる。

 「宗麟出陣二次日向出兵)」宗麟の衰運懸けた戦いによって以下少々詳述す
   キリシタン入信後宗麟は日向出陣、高城攻略を家中に伝える。この宗麟の計画には老臣斉藤鎮実、軍師角隈石宗
  ら諸武将は、府内を留守にすることの危険を説いて出陣を思いとどまるよう強く求めたが宗麟は聞く耳持たなかった。
  通説では宗麟の日向侵攻は伊東義祐の日向領地回復の申し出に宗麟が応え、其の後にキリシタン王国を築く事で
  あったとされる。しかし出陣のきっかけとはなったが、宗麟は義祐の領地回復など思ってもいなかった。その根拠に
  この出陣に義祐親子や伊東軍残党が結集出陣したとは伝わらない。
  島津が肝属氏下し大隅併合、日向を抑え、肥後を覗い、竜造寺、秋月、原田の列強が相争う最も重要な時代、ドン・
  フランシスコ宗麟は戦国武将としての俯瞰的視野を失っていた。キリシタンとしての狭い視野にはその王国の幻想し
  か見えなかった。軽率にもこの無謀な出陣を強く勧めたのは、宗麟に諂い自身の保身を図る田原紹忍であった。
   天正6年9月4日「宗麟」は四万の軍を率いて出陣した。自らは臼杵より船にて縣を目出した。一行に夫人ジュリア、
  三百名のキリシタン家臣、カブラル神父、アルメイダ修道士や宣教師らが加わった。御座船にはクルスの聖旗も掲げ
  られた。主力三万五千は陸路を進んだ。その出陣の様子が「大友記」に伝わる。その要旨は「御一門老中は日夜彼
  処に寄合珍膳を盡(つくし)酒宴をあげ、当家の武運も傾くやもしれない。各討ち死して生前の恩に死に際し報いんと
  一途に思い定め、最後の名残惜しんでは覚悟がぶれてしまう」と記す。出立に際しては柞原八幡宮にへ「矢一筋奉レ
  ト有ケレバ、足軽二三百打ヨリ弓鉄砲ヲソロエ射カケ奉ル」柞原八幡宮に鉄砲を打ち込んで出立した。そして道中の
  寺院らを破壊して進んだという。さらに道の悪いところは仏身の尊容を埋めこれを踏んで通り、前代の未聞の悪行とし
  ている。乱暴狼藉は高野越後守師泰、畠山入道が「楠木正成」を攻めたとき神社仏閣に乱入し戸張下し神宝奪い、
  獅子狛犬割って薪となす悪逆無道に比し百倍、千倍する稀代の悪行と伝えている。
  陸路のルートははっきりしないが野津に義統陣跡が確認されているのでこれより本匠、直川の山中渓谷進み宇目酒
  利、水ケ谷(すいがたに)より日向国境の梓峠越え八戸経て北川沿いに下り渡河、縣に至ったと推測できる。
  宗麟は海路縣務志賀へ着いた。務志賀(無鹿)は北川河口付近の複雑に支派川の入り組む地であった。宗麟は北
  川の南岸川に面した小高い場所に陣を置いた。現在陣跡は国道398の川島橋の南詰下流200m程の「妻耶神社」に
  「大友宗麟宿陣之地」の標柱が建っているので、この比高20m程の小高い山一帯が陣跡であろう。宗麟出陣とは云
  え戦場は遥か15里南方である。宗麟は此処に住居を建て教会を置きミサと祈祷三昧の日々をおくった。
  「戸次軍談(戸次軍記)」によれば高城攻撃が開始されて、遂に両軍の主力が小丸川、切原川挟み備えた時、斉藤
  鎮実、吉弘鎮信は務志賀の宗麟に旗本らと共に前線への出陣を促したが宗麟は田原紹忍の思意に従うべし動こう
  とはしなかった。この宗麟の返事に斉藤、吉弘は怒り本陣の後楯なくば集結した国衆共は一時ともたず敗走すべし。
  粉骨砕いて我々は先を駆くるも後ろ守る勢なくして雑兵の気撓を万事如何にすべきかと悔やんだ。。
  豊後に残った「大友義統」は後方支援として野津鳥嶽に陣を置いたが、キリシタン布教に力を注ぎ寺佛を蔑にしたの
  で住民の不評をかった。

  「高城耳川の戦い緒戦
   宗麟は総大将に戦経験に乏しい田原紹忍を充てた。紹忍は自身の保身図るばかりで家中の信望に欠けていた。
  宗麟もまた実戦の経験は皆無である。それが重要な戦の指揮官の人選を誤らせたと云っていいだろう。宗麟は何度
  か自ら出陣しているが、いつの場合も後方に位置し一度も臨戦していない。このため戦場の厳しさを認識できず今山
  合戦に続き大将の人選を誤った。紹忍が指揮官となった時点で結果が見えていたともいえる。
  紹忍率いる四万の軍勢は高城目指す。五十鈴川、耳川、名貫川なぞ日向国の西山地より幾つもの大小河川が日向
  灘へ流入する。これらの河川は総じて流量が多く渡河は難儀したであろう。恐らく渡河を容易とするため縣より日向
  街道の日知屋を経由耳川の中流を渡河都農に抜け、名貫川渡り、現在の県道40号沿いに高城へ至った事が考え
  られる。大友軍は現在は宗麟原と呼ばれるカンカン原に着陣した。この場所は高城の北東6町ばかりの台地で標高
  60m程、大友軍は湯迫に佐伯宗天の主力を中心にした本陣松山之陣敷、三段の大型空堀土塁を設けた。
  西に田北鎮周、田原紹忍の野久尾之陣、東に田開、河原、松原の陣形を敷いた。着陣は10月中旬ではないか。
  高城は標高70m程、島津の名将「山田新介有信」五百騎に「島津家久」の一千。共に島津きっての戦上手である。
  カンカン原も高城もこの一帯の地形を造る中位段丘からなり、一つの台地が旧小丸川、支流切原川の浸食活動受け
  分かれてできた台地である。高城の比高は55mほど半平地の山城である。高城の西は台地に繋がり深い空堀を幾
  重にも設けていたので西からの攻撃は困難であった。管理人は数回現地を調査した。三方は浸食崖で急斜面では
  あるが南東側は比較的緩やかで、比高も徐々に上がっている。難攻不落の要害とは見えない。
  大友軍は高城へ数度の猛攻を懸け陥落直前まで攻め込み二の丸尾まで至るが落とせなかった。高城攻めはやたら
  日数を費やした。やがて島津義久率いる島津の主力三万が集結。高城の南20町の根白坂に陣を敷いた。(この場
  所は後年島津討伐に下った木下秀長の八万の前に島津義弘、島津忠隣軍が総崩れとなり、義久が秀吉に降参する
  きっかけとなった所)
  
 決戦大友軍総崩れ:紹忍敗走
  
 大友、島津の両軍が川を間に対峙したことで、渡河戦をどう戦うか両軍共軍議重ねた。島津義久は家中一族武将
  残らず会合して評定した。此の度の軍は、敵より仕掛たる弓箭なれば身方より進軍することはないが、機を見て臨機
  応変は兵法の常である。機を見て敵の川渡を待たずに渡河し勝負せしと衆議を定め、勢を川表に揃え終日備えた。
  大友勢も川を隔てて備えを立て少々の矢戦がった。以後の展開は伝える書物によって異なる。
  通説では、大友軍の決選前夜の軍議は急戦を主張する田北鎮周(たきたしげかね)と肥後周りの豊後南部衆の揃う
  まで様子をみる慎重論の佐伯宗天(鎮教)、軍師角隈石宗との軍議は対立、渡河強戦を主張する鎮周は譲らず、総
  大将の田原紹忍は軍議を纏めきれなかった。軍議決裂、鎮周は席を立ち同調する武将らもこれに続いた。自陣に戻
  った鎮周は酒樽据え酒宴を挙げた。討死覚悟決めた鎮周は家宝の名鞍を打ち砕き薪とし、酒の燗したという。
  天正6年11月12日(1578)夜も明けやらぬ中、大友の先鋒田北鎮周は切原川を押し渡り高城の東の氾濫原に出た。
  これを見た佐伯宗天は松山之陣より東へ迂回谷へ下り切原川へ至り渡河、島津の先陣を襲う。斉藤、吉弘、角隈、
  臼杵、ら大友の大軍が遅れじと後に続く、大友勢は島津の先陣を一気に蹴散らし有利に戦いを進めたが、統制が取
  れていなかった。勢い余って島津陣へ深追いする。そこへ繁葦陰に伏せていた義久の野伏せ兵が横入れ、一斉に
  鉄砲を浴びせたので無統制の大友軍は忽ち混乱各隊孤立、形勢は逆転敗色濃厚に、是を見て総大将の紹忍は
  退却を命ずるが、大友勢は連絡網断たれ各隊がバラバラに押し包まれ総崩れとなる。
  大友勢の敗走は悲惨であった。島津の執拗な追討は耳川まで及び、逃げる大友勢は増水の耳川に阻まれ討たれ、
  溺れる者凄惨を極めた。殿は紹忍が努めたとされるが疑わしい。鎮実、鎮信、鎮周、鎮教、軍師石宗らが悉く討ち死
  する中無傷で逃亡している。その後一カ月間も消息不明となった。
  敗戦の報は務志賀の宗麟の下へ急報された。高城には赴かずキリシタンの祈祷三昧に明け暮れていた宗麟は同行
  したキリシタン神父らも捨て置き臼杵へ逃げ帰った。
   「戸次軍談」は此の戦いについて、大友家の衰運の懸る戦いであったのに、いとも簡単に開戦を主張した紹忍の
  愚かさ、そして偏に(ひとえに)宗麟は紹忍が言葉を聞きいれ、老巧の者の諌言を聞き入れなかった故としている。
  歴史の見る所、その責任はすべて宗麟にあるとしているのである。
  この合戦の双方の損害は甚大であった。大友軍の戦死は四千以上とされその半数は田北家中であった。負傷者は
  万に達した。、特に南部衆の有能な武将多く失ったことはその後の家中の融和に大きく影響する。
  
 家中混乱戸次道雪檄文
   高城耳川合戦の敗戦後、田原紹忍は姿を見せず一時は戦死したとの噂が流れたが一カ月過ぎたころ姿を現した。
  一カ月隠れ敗戦責任者としてのほとぼりが冷めたとでも思ったか。紹忍は敗戦の責任を戦死した重臣、キリシタンに
  押し付け弾圧した。しかし此の戦い進めた宗麟、紹忍への反発は強く豊後国内は騒然治安も悪化した。家中の結束
  乱れ、特に田原本家の当主田原親宏は紹忍に奪われていた二郷の奪還のため挙兵もちらつかせ反発した。紹忍は
  領地返還させられ一旦失脚する。しかし実力者親宏が病死すると紹忍は再び宗麟に諂い復権した。この紹忍の復権
  は大友家の混乱を更に深めた。親宏死後田原本家は養子の親貫が継ぐが親貫の宗麟義統親子、紹忍への不信は
  根強く挙兵となった。天正7年暮れ、親貫は筑前の反大友勢に呼応し海上より警備手薄となった府内を目指すも悪
  天候に阻まれ失敗鞍懸城へ籠る。家督継いでいた義統は家中に親貫討伐を命ずるが、何事にも優柔不断頼りない
  義統に、武闘集団南部衆は応じなかった。中でも紹忍に家中二千も戦死させられた田北紹鉄は秋月種実と密書交
  わしこれまた熊牟礼城へ籠った。
   その頃、天正8年2月筑前立花山城督「戸次道雪」の下に「石松源五郎」が訪れていた。源五郎は秋月種実の持城
  長尾ノ城抑えを命じられ豊後より筑前へ出陣していた。長尾ノ城周辺を焼払った後道雪に対面したいと立花山城を
  訪れていたのであった。道雪は色々と物語したのち、源五郎に豊州(豊後)の仕置(統治)の様子を委細に尋ねた。
  常々大友家の危機を心配していた道雪は、年寄(宿老)へ近日飛札(速足飛脚)して申し入れたいと考えていたが、
  その方が参られたは幸いであった。愚老(道雪)心残らず申すので能々老中へ申し伝えよと語った。是に源五郎は
  覚書にしたため老中へ具(つぶさ)に申し伝えると道雪の口上の趣を委細したためた。
  大友記には一族の戸次鎮連、戸次玄珊、戸次宗傑はじめ志賀道輝、朽網宗歴、田北紹鉄、一萬田宗慶ら十三人の
  宿老に宛てた檄文の子細が全十ケ条に亘伝えられている。 親貫の謀反は秋月、竜造寺が同心してる事、直ちに
  親貫討伐の事、老若男女のキリシタンによる寺社仏閣への狼藉への戒め、若き義統を支えることが家中、各身の
  御為である事等々。忠義の将道雪の主家に対する思いが切々と述べられている。源五郎は2月16日立花山打発ち
  豊後へ帰り、各老中へ道雪の口上覚書を見せながら伝えた。そして覚書は宗麟に渡った。
   親貫、紹鉄の討伐に躊躇していた南部衆も宗麟が采配に当たった事、道雪の檄文が回ったことで立ち上がった。
  紹鉄の籠る熊牟礼城は忽ち落城、紹鉄は筑前に向け逃亡図るが日田に至る直前松原にて、日田の郷士達に討た
  れた。親貫も安岐城より鞍懸城に毛利、秋月の支援頼って籠るが救援隊は届かず10月9日落城討たれた。
  豊筑乱記はこの大友家中の混乱は宗麟が田原紹忍を重用し、高城耳川の戦いで総大将でありながら臆病神に引
  き立てられ敗軍し、味方の多くの討死見ながら帰参し再び権威をかざす紹忍の志し悪しき故の結果としている。
  後年薩摩内略され、心心に同心する者あって薩摩に一味し数代の主君を見捨て豊後に敵したと伝える。

 宗麟の改宗強要と布教
   キリシタン王国を夢見た宗麟の高城耳川敗戦の教訓は、宗麟に何の薬にもならなかった。巡察師ヴァリニャ−ノ
  の府内入りは宗麟のキリシタン布教を乱暴にした。信者は急速に増えた宗麟は武士民衆に改宗を強要し、名刹に
  火を放つなど寺院の破壊を命じた。遂には宇佐神宮の焼き打ちまで命じ民衆の不評をかった。元はと云えば豊後
  の国は仏教信仰の強い国で、宇佐神宮と国東の仏教文化が結びついて花開いた六郷満山文化や、臼杵石仏等
  現在の豊後大野市、竹田市の大野川流域にに多く残る石窟石仏遺構がそれを物語っている。そしてこの地域は
  大友氏支えた南部衆の領地でもあった。宗麟親子の神仏への悪行狼藉はこれらの者たちの信頼を失ったはずで
  ある。島津義久が虎視眈々と豊後侵攻を覗っている大事な時期、宗麟は布教の事しか頭になかった。
  さて、此のころ宗麟は大村純忠、有馬鎮純らと四人の少年使節団を送ったとされてきたが、宗麟の書簡は研究者
  によって偽物と確認された。伊東満所も宗麟の知らぬ所で派遣されたという。

 「豊薩合戦宗麟の気概
   天正13年9月11日、宗麟の片腕として西の大友筑前立花山城預かり、筑前、筑後の大友支配に生涯を懸けた
  戸次道雪が亡くなった。道雪は天正12年竜造寺に下った黒木家永を討ち、柳川の失地回復のため筑後にとどまっ
  たが長旅陣となった。、高齢の道雪は暑さと疲労で発病遂に波乱の生涯を終えた。道雪の死によって旧君義鑑の
  代より仕え、豊州参老と怖れられた宿老の全てが他界した。大友氏には家中要の老巧の者が不在となった。
  島津氏の北上の脅威をひしひしと感じていた宗麟は急遽上阪、秀吉に渇見、臣下となって救援を依頼する。
  宗麟義統親子は戸次氏に命じ三重郷内田に松尾城を、柴田紹安に命じ宇目朝日嶽に築城させ守備を強化する。
  天正14年7月島津義久は、道雪の死を待っていたように筑前筑後に進攻した。大将の島津忠長は瞬く間に筑後を
  制圧、大友氏の抑える筑前岩屋城を二万の大軍が包囲、忠長は城主高橋紹運へ降伏を勧めるが紹運は拒否、
  紹運の反撃は熾烈を極め忠長方に甚大な損害与え、遂には城兵763名が玉砕した。
  そのころ豊後では、島津義久の密偵による豊後の情勢が義久に届けられていた。二階崩れの変で父を討たれた
  緩木城入田宗和(親誠嫡男)や三重郷市場の馬喰商人麻生紹和は島津に通じ豊後の情勢を詳細に送っていた。
  豊筑乱記には薩摩の商人が薩摩産の駒(馬)を思いの外の下値で商売して、その間に大野直入の大友家来の
  領地まで入込み、城々の様子を見届けたと伝える。
  天正14年10月島津義弘は肥後高森口より豊後に侵入、案内者の入田宗和の緩木城に入る。続いて戸次統貞の 
  津賀牟礼城開けさせ片賀瀬原に集結した。
  同年11月日向国境梓峠宇目口より島津家久軍が侵入した。家久は朝日嶽城柴田紹安の内通で案内人とさせ、三
  重では麻生紹和一族の案内で戸次氏松尾城に入り本陣とした。また豊後侵入と同時に南部諸将へ内応策をとり、
  戸次統貞、戸次鎮連、志賀道雲、志賀道益、一万田宗拶、朽網宗歴、柴田紹安の南部衆が次々と島津に下った。
  しかし、岡城主志賀親次、鶴ケ城主利光宗魚、栂牟礼城佐伯惟定は島津の猛攻に耐え、島津勢を撃退大きな損害
  与えた。、宗麟も臼杵城に籠り「国崩し」の大砲放って撃退した。天正14年12月12日島津家久は戸次川の戦いにて
  秀吉の派遣した、仙石秀久、長宗我部元親親子、十河一族主力の大友義統軍を破ったが、鶴崎城では吉岡妙林、
  の策略に三人もの重臣、甲首多く失い敗退する。結局島津義久は四万もの軍を派兵豊後攻めたが、戸次川の戦い
  以外は勝利出来ず、秀吉九州入りの情報に撤退した。晩年キリシタンに傾倒し民心の支持を失った宗麟であったが
  豊後国内の島津戦は宗麟の見せた戦国武将としての最後の気概であった。

 宗麟の死
   根白坂の戦いの敗戦により気落ちした島津義久は歳久、新納忠元らの反対押切「豊臣秀吉」に降伏九州は平定
  された。一方宗麟は臼杵城にいたが此のころ前正室奈多夫人が病死した。そして宗麟も病んでいた。宗麟は高熱
  おして津久見大友別館に入ったが、天正15年5月23日息を引き取った。享年58歳であった。
  病名はペストとも伝えられるが、定説ではペスト菌の日本侵入は明治33年とされているので疑問も残る。只、中世
  ヨーロッパでは大流行していたので、多く南蛮船の入港した府内、臼杵では、ネズミにより持ち込まれた伝染病であ
  ったとも考えられる。
  宗麟の遺骸は津久見館の南西10町程の麓に埋葬された。現在此処には「佛式墓」「キリシタン墓」の二基がある。
  宗麟の死後嫡男「義統」が家督継いだが、慶長5年9月14日(1600)、義統は大友家再興懸けた石垣原の戦いに敗
  れ、400年続いた戦国大名家としての大友家は滅びた。

              津久見市宗麟墓地。奥はキリシタン墓



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