大内氏史跡  (2009,9,26〜9,27 現地調査 : 山口市内)




     平安後期より戦国争乱期まで、西国中国の地にあって将軍家までも脅かした大内氏。山口市に残る四箇所の史蹟は、
     往時の大内氏の巨大な権力と財力をうかがい知る事ができる。
     大内氏のその勢力は北部九州まで及び、その覇権をめぐり豊後大友氏とは永年に亘る確執があった。中でも最も熾
     烈な出来事は永享3年6月28日(1431)、幕府に反抗した大友12代「大友持直」は、筑前立花山城に居た豊前守護職
     「大内盛見」を筑前怡土に追い是を討ち取る。激怒した幕府は「持直」追討軍を派遣。しかし持直は追討軍をあしらい
     翻弄する。ついに幕府は永享7年「盛見」の子「持世」を大将に、四国勢も加え豊後姫嶽に持直を攻めるが、ここでも
     持直は篭城抵抗するが内応者が出て行き方知れずとなる。その後も、大内氏は大友氏の家督相続にも深く干渉し、
     混乱を繰り返す。大内氏は「義興」「義隆」の代に至り隆盛期を迎えるが「義隆」の時、重臣「陶隆房(晴賢)」「杉」らの
     謀反により大内氏は事実上滅ぶ。

                           
                           大内氏館跡「福龍寺」の「大内義隆」騎馬像
                                  (山口市大殿大路)

      大内氏の出自については確かな根拠はない。一説には、百済の「聖明王」の第三皇子「林聖太子」の後裔とも言わ
     れるが疑わしいという。
     大内氏の祖は、初め多々良浜と云うところに居住したため多々良氏を名乗り初代は「多々良正恒 」とされている。
     その後9代「多々良盛房」が大内村に移り大内氏となり、これが大内氏初代「大内盛房」とされている。

      さて、大内氏の出自にいてであるが、百済王の後裔は怪しい。そこで考察した。
     「たたら(多々良)」は、「多々羅」「踏鞴」とも書く。福岡県にも多々良(多田羅)の地名があるが、本来「たたら」とは、
     砂鉄より玉鋼を取り出す「製鉄」技術をさす。この製鉄方を「多々良(羅)製鉄」「踏鞴製鉄」という。従って多田良の地
     名は是に由来すると考えてよい。
     中国地方は古来より良質の「玉鋼」の産地であった。その為には出雲等「多々良製鉄」は盛んに行われた筈である。
     とすればその職業集団を「多々良組」と呼び、「多々良氏」と名乗っても不思議でない。ここはあくまでも私説であるが、
     「大内氏」の前身「多々良氏」は、中国地方における「多々良製鉄」集団の頭領ではなかったか。是がやがて武士化
     してゆき、やがて強い権力を握ったと推測するのである。

     山口市内には、大内氏遺跡として「大内氏館跡(龍福寺)」「築山館跡(八坂神社・築山神社)」「凌雲寺跡」「瑠璃
    光寺五重塔
」と残る。大友氏の送り込んだ「大内義長」遺跡として「高嶺城跡」もあるが、戦国大名大内氏遺跡とする
     には疑問を感じるので除く。


   @ 「大内氏館跡(福龍寺)」   山口市大殿大路


                        大内氏館跡案内マップ

    大内氏館は、「大内弘世」によってそれまでの大内氏の拠点の会った「大内御堀(おおうちみほり)」より、現代の山口
    大殿大路へ移された。
    大内氏館は100間四方、実に一万坪の広大さであった。現在もほぼ当時の原地形を示している。周囲は土塁が巡らさ
    れていた。現地は周囲を道路舗装されているが、空堀もあったかもしれない。敷地内には豪壮な館が建ち、水が流れ、
    全て豊後より船で運ばれた石を使い庭が広がっていた。当時としては珍しい蘇鉄も植えられていた。
    以後、大内氏執政の拠点となり、京をもしのぐ大内文化が花開く。そして「義興」「義隆」のころ最大の隆盛を迎える。
    ところが名将とされた「義隆」も、執政を重臣等に任せ歌に興ずるなど、自ら戦場へ出向く事は無くなた。
    天文20年8月、この義隆に不満を持った武闘派重臣「陶隆房」「杉氏」らの謀反勃発。居館築山館に居た「義隆」は襲わ
    れ長門深川まで逃亡応戦するが力尽き自刃。「義隆」は実質大内氏最後の当主となった。
    一端は権力握った「陶」も毛利氏に討たれる。
    やがて大内館は廃棄され、弘治3年(1557)「毛利隆元」により、「大内義隆」を弔うため「龍福寺」が建立された。
    訪れた時本堂は修復中で大きな鉄骨で覆われ見ることは出来なかったが、資料館、義隆騎馬像のほか、発掘調査に
    よりに「西門跡」や排水溝など確認され、土塁の復元も行われている
        
      大内氏館跡福龍寺山門         館跡発掘調査に基づく復元西門    参道脇のザビエルが大内義隆の
                                                     許しを得て布教した場所の井戸跡
                                                                     (復元)

   A 「築山館跡」   山口市上堅小路

    「大内教弘」が大内氏館の北に近接して建築された大内氏当主の居館跡。本邸に匹敵する広さであった。
    池を配し、深山を思わせる庭は見事であった。大内氏が滅ぶと廃棄され、池は築地(土塁)を削って埋められた。
    現地には「八坂神社」「築山神社」が建てられた。周囲は土塁が巡らされ、石垣が張られていたが、山口城築城の際、
    剥ぎ取られた。北西の一角に土塁の一部が残る。
    31代「大内義隆」はこの築山館にいた所を「陶隆房」に襲われた。

                      
                   築山館跡の風景                  築山神社の敷地に一部残る土塁


   B 「凌雲寺跡・大内義興の墓所」   山口市吉敷中尾

    「凌雲寺」は永正4年(1507)、大内氏31代「大内義興」が開基、了庵桂吾を開山として建立された。
    場所は、山口市街の北西中尾。東西は吉敷川の支川の谷に挟まれた南北に広がる丘陵地位置する。建立の由来は 
    明らかではないが、惣門遺構の巨石を用いた石塁を見る限り城砦を兼ねた寺院であった事は明らかである。戦国の
    混乱が深まる中「義興」は、緊急時「大内館」に変わる城砦としてこの寺を築いたと見られる。
    寺の廃棄はいつのころか定かではないが、長く田んぼとして利用されていたと見られる、当時の石積みも随所に残り
    人工物が無いのも良い。
                             史跡への案内(左手前に駐車場)

        
         凌雲寺跡惣門跡          巨石の石塁。高さ3m、幅2mある        大内義興の墓所
                             左手の石積みの端の形より、此処が
                             山門跡(惣門・大手門)と見られる。


   C 「瑠璃光寺五重塔」   山口市香山町

    応永6年(1399)、25代「大内義弘」が将軍「足利義満」と戦い敗れ戦死する。「応永の乱」である。「瑠璃光五重塔」は、
    この「義弘の墓塔」として、弟の「大内盛見」が建設に着手。「盛見」も永享3年6月(1431)、「立花山城」に居るところを
    「大友持直」に追われ戦死。五重塔は「大内持世」により嘉吉2年(1442)実に40年の歳月をかけ完成した。
    「瑠璃光寺五重塔」は、現存する塔の中でも京都「醍醐寺」、奈良「法隆寺」の塔とともに日本三大名塔の一つに数えら
    れ高さ31,2mある。特徴は「檜皮葺(ひわざぶき)」の優美な線形持つ屋根と、二層のみの「回縁(高欄)」である。
    築後560年経った優美な姿は、高度な大内文化の傑作である。

                      
                     瑠璃光寺五重塔         戦国大名「大内氏」の礎築いた
                                           「大内弘世」騎馬像



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