戸次氏武将略列伝
戸次氏本家
名  称      活躍時代               主たる略履歴
戸次 惟澄
大神 惟澄
 治承~寿永のころ
 1180年代前後

 大神氏系戸次氏祖
 
 豊後大神氏一族、「大神惟基」 5代孫にあたる
 豊後の英雄「緒方三郎惟栄」とは従兄弟関係
 戸次氏姓祖
 豊後国大分郡戸次庄に住み庄名「戸次(へつぎ)」を苗字とし
 「戸次(べっき)と称した
 元は平家の家人であった.
 治承5年「緒方惟榮」らと謀反(源平盛衰記)
 平家物語には「主上(安徳天皇)を守護して」とあるが矛盾する

 「惟澄」は「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」に名が登場する
 「惟澄」に世継無く、豊後国を所領した「大友能直」に家督譲る
 生没不詳

戸次 重秀  
 寛喜2年~弘安5年
   1230~1282年
  大友氏系戸次氏

  戸次氏 初 代

 大友氏二代親秀二男、寛喜2年(1230)誕生説 
               兄弟姉妹多し12人
 母 三浦肥前前司 平 家連娘
 文永6年(1169)ごろ豊後国府内(に下向
 大神氏系の戸次姓継ぐ。 戸次庄「市村」に以後代々居住
 戸次次郎、検非違使、佐衛門少尉、兵庫頭
 文永の役(1174)博多防衛に出陣
 弘安5年5月23日(1282)卒 法名 佛阿   53歳

 
戸次 時親      ~正応3年
     ~1290年

 戸次氏 二 代
 
 重秀嫡男、戸次太郎、従五位下 肥前守、相模守
 (戸次時頼と同一人物と見られている)
 元服の時、平 時宗より偏諱時一字許され 号時親
 母は、平 重時女(中村禅尼珍阿)
 戸次庄地頭職、戸次庄90町外領す
 鎮西評定衆(鎌倉、室町幕府の職務、執権と共に評定所に
        おいて裁判、政務を合議する幕府最高職
        北條氏はじめ地方の有力後家人より選ばれた)
 正応3年4月4日(1290)筥崎執行所にて卒  法名 道恵

  
戸次 重頼  建武~嘉暦のころ
 1320~1230年代
 
 号 : 松岡左近蔵人入道、重秀二男
 嘉暦2年戸次貞直と共に鎮西評定衆のひとり

 鎮西古文書の戸次古文書「戸次頼尊軍忠状」の頼尊は
 戸次氏系図上に確認できない
 「戸次左近大夫頼尊」とあることから時代考証より「重頼
 推定される。建武2年(1335)伊豆に出陣していた「頼尊」は
 建武3年3月(1336)
 近江、山城、播磨国経て筑前国多々良濱に帰参するまで、
 途中親類若党に100余人の手負い、討ち死だし、
 分捕り頭54をあげている。
 南北朝争乱期、それほど世情は乱れていたことが覗える

 
戸次 貞直  永仁~元弘の頃
 1300年代初期

 戸次氏 三 代
   
 
 時親三男 孫太郎、佐衛門尉、相模守
 元服の時 平貞時より偏諱一字 「貞」 許され 号貞時
 永仁7年正月27日(1299)三番引付衆 
 (引付衆は鎌倉、室町幕府の職務、訴訟の審理に当った) 
 北條随時のとき一番引付衆、大友貞宗は三番引付衆
 戸次氏は幕府の中で大友氏を凌いでいた
 嘉暦2年(1327) 鎮西評定衆に昇格
 元弘3年4月4日(1333)卒 法名 玄凞(げんき)

戸次 貞能  元弘~建武年間
 1330年代
 
 時親五男 孫三郎 摂津守
 建武3年(1336)5月 九州に敗走した足利尊氏は、十数万の
 軍勢で攻めあがる。南朝方「楠木正成」は僅かな兵で湊川に
 布陣
 この戦いで「貞能」は摂津国「湊川 の戦い」
                   建武3年(1336)で戦死

 
戸次 朝直  正平年間
 1350年前後
 
 時親二男、内匠頭、筑前守
 母は、大友能直の実弟を祖とする古庄氏女
 戸次氏系大神氏祖大神二郎」 豊後国深江大神荘
 「深江城(亀甲城・一戸城)」築き15代続く
 
 建武3年(1336) 玖珠高勝寺城に篭城していた敷戸孫太郎、
 賀来弁阿闍梨などが、霊山寺を占拠し府中高国府に乱入した
 時、大手大将軍務め評判得た

 後年正平2年(1347)戸次四代頼時と共に、「大友氏宗」を担ぎ
 南朝方に起請文書き、文和元年(正平7年1352)将軍足利義詮
 により領地を田原正曇に宛行される
 翌年降参し、領地半分安堵される

 
戸次 頼時  正平年間
 1360年代

 戸次氏 四 代
 
 三代貞直二男、戸次二郎 兵庫頭 丹後守従五位下
 母 二階堂氏女
 正平2年(1347)南朝方に起請文書き一時領地宛行受ける
 翌年降参
 康安元年(1361)幕府奉公衆
 鎮西評定衆、足利尊氏に従う
 尊氏 京都天竜寺参拝の時の、将軍随兵十六騎の一人
 応安元年2月18日(1368) 卒 法名 大智院玄継

 

戸次 直時
    不詳
 臼杵七朗  臼杵氏祖

戸次 直光  正平~元中のころ
 (応安~明徳)
 1360~1390年代

 戸次氏 五 代
 
 戸次太郎、右馬助、治部大輔 従五位下
 元服の時、尊氏の子「直冬」より一字貰い「直光」
 応安元年10月17日、父丹後守頼時の所領安堵される
 鎮西評定衆
 明徳3年6月13日(1392)卒 法名 玄保杉山 大聖寺

 
戸次 直時  (正平23年前後か)
    不詳
 
 片賀瀬二郎 豊前守 
 片賀瀬氏祖、片賀瀬氏はこんにち確認できない
 途絶えたかも知れない?

 大分県竹田市大字片ヶ瀬字「峠」と云うところに片賀瀬氏の
 屋敷が有ったと伝えられるところがある
 近くに良質の湧水源がある


戸次 直世
 応永年間
 1390~1420年代

 戸次氏 六 代

 戸次五郎、右馬助、治部大輔 従五位下
 母 日向伊東氏女
 正室のほかに、側室二人
 鎮西評定衆の要職に就く「足利義満」の勘気うけ蟄居
 「小番衆」解任、理由不明
 後に将軍の判断にて赦免され、所領元職を返されるも、以後
 戸次氏は長い不遇の時代迎え、将軍家や大友氏の要職から
 戸次氏が消える

 

戸次 高載
 
 
    不詳

 戸次氏 七 代

 直世 嫡男 兄弟男7人、女6人 兄弟多し
 系図より推定するに、直世には「正室」の他に「側室」が二人
 いたようだ。兄弟多いのも察しが付く
 戸次太郎右馬助


戸次 直繁
 
    不詳

 戸次氏 八 代

 高載の子
 八代継ぐも短命であったようだ
 戸次太郎 早世  号 小河


戸次 親載
 長禄~文明のころ
 1460年代

 戸次氏 九 代
 
 初代鎧ケ嶽城主」とされる
 戸次修理亮、甥の直繁早世により家督受ける
 直世の子、高載とは兄弟
 長く要職から外され悲運の時代に入った「戸次氏」は、
 遂に本貫の 「戸次庄」を追われ大野荘「藤北の里」に移る

 大野荘「鎧ガ嶽」へ移った時期は、明確ではないが、 
 寛正3年(1461)「親載」が、大野荘上津山「上津神社」に
 「一之鳥居」奉献していることからそれ以前となる
 親載の鳥居の奉献は「戸次氏」の再興を神への御加護を祈願
 したものと考えられる
 長禄年代から寛正の初めでなかったか
 
 法名 善心光音寺

 
戸次 直頼
 文明のころか?
 1470年代

 戸次氏 十 代
 
 戸次三郎 千鶴丸
 伯父「親載」家督譲られるが、将軍の判断とある
 直世、以降家督に混乱が見られ、戸次氏の家督相続に将軍家
 が関与していることが覗える

 
 
戸次 能泰

    不詳

 戸次氏 十一代
 
 亀寿丸、戸次新三郎
 掃部頭
 短期であったと推定

戸次 親貞
 応永~文亀のころ
 1428~1501年間

 戸次氏 十二代
 
 九代親載子、戸次四郎、修理亮、丹後守
 応永35年(1428)生
 家督相続にあたり、親載後、従兄弟、甥子を二代挟む
 かなり歳が行っていた筈だ

 150年の間、悲運の時代を過ごした戸次氏も漸く復興の
                           兆しが見え始めた
 「親貞」は「足利義政、義尚」に従い、度々「御教書・御釼令」
 を受けている
 文亀元年(1501) 豊前馬ケ嶽にて戦死
 法名 玄心 普斎寺

 

戸次 親宣
 
 明応元年?~
 1492?~

 戸次氏 十三代
 
 戸次蔵人、戸次鑑連祖父
 是まで単独に家督相続してきた戸次氏は「親宣」の代より
 分派「本家(藤北)戸次」「片賀瀬戸次」「藤北戸次」となる
 親宣の詳細不明

戸次 親家
文明10年~大永6年
 1478~1526年間

 戸次氏 十四代
 
 文明10年 戸次親宣の嫡男として誕生。兄弟多し
 「戸次常陸介源親家」としたもの有り
 戸次鑑連 父(子宝に恵まれなかった親家夫婦は、健やかな
          男子の誕生を「柞原八幡宮」へ祈願「鑑連」を
          授かったとされる)
      
 大永6年(1526) 病没 49歳


戸次 親久
 文明 ~永禄 ?
 鑑連叔父
 三河守 右京亮
 永禄10年9月3日(1567)「休松合戦


戸次 鑑連
立花 道雪

永正10年~天正13年
  1513~1585

 戸次氏 十五代
 
 後の「戸次道雪」「立花道雪
   生涯37度合戦し一度も負けなかったいう
   「鬼道雪」とも謳われた
    若い頃、雷に撃たれ下半身不随となったと言う逸話が
   ある。
   大友宗麟の時代「豊州三老」と謳われ、終生主家に忠義
   尽くす。酒色とキリシタンに明け暮れる「宗麟」を諫め、
   家中 の結束奮起促す「檄文」を送った事もあった
    
 永正10年3月17日 八幡丸誕生、後に「孫二郎」
 母  越中守臼杵鑑速妹、八幡丸生まれてまもなく没す
     養母「養孝院」 
     鑑連は、母は異なるも9人兄弟で、男3人、女6人
     この妹たちは夫々、武家に嫁いでいるが、一人は
     片賀瀬戸次氏「戸次親方(親善)」に、天正頃の頃の
     加判衆「戸次鎮秀宗傑」の母である
     一人は、鶴ケ賀城主「利光越前守鑑教(宗魚)」へ嫁ぎ
     敦賀城の戦いでは、夫「宗魚」の戦死を伏せ家中を率い
     て戦い、島津の攻勢を凌いだ女武将である
 大永6年3月(1526)元服 伯耆守、丹後守、
           剃髪して、号「麟伯軒道雪」
      同年  病気の「親家」父に代わり豊前「馬ケ嶽初陣」
              優将の片鱗見せる
 天文19年2月10日「大友二階崩れの変」
                      「鑑連」首謀者「入田親誠」
                       誅伐これを鎮める
 弘治3年7月(1557)「秋月文種」討つ
 永禄4年 大友加判衆、三老の一人
 永禄10年9月3日(1567) 「休松合戦」 5人の親族失う
 永禄11年7月23日 「立花山城の戦い」
              再度謀反の「立花鑑載」討つ
 永禄11年 実弟「鑑方」の嫡男「鎮連」を猶子として家督を譲る
 永禄11年11月28日 筑後トイモト城に於いて「仁志姫」と再婚
 永禄12年5月18日 多々良川の合戦。 鑑連の立花山入城の
              契機となった戦い
 永禄12年8月 誾千代誕生
 元亀元年8月20日 佐賀侵攻「今山合戦」大友軍敗戦
              「鑑連」退陣の殿努む
 元亀2年5月6日(1571) 立花山城「城督」に就く 
                所領94箇村 3000町(6万石)
 天正3年3月23日 養母「養孝院」没
 天正9年8月18日 「吉弘統虎」「誾千代」と婚儀、養子となる
 天正11年11月18日 「立花姓」継ぐ
 天正12年9月5日 「黒木合戦」 輿に乗って出陣したいう
 天正13年9月13日 筑後出陣中「北野天満宮陣中」で病没
              享年73歳 新宮町「梅岳寺」に眠る
              法名:梅岳院殿福厳道雪大居士


女城督
誾千代

立花誾千代
永禄12年~慶長7年
   1569~1602

 戸次鑑連 娘  宮永様
 母 筑後問註所鑑豊 娘西(仁志)
 永禄12年8月13日誕生 於:筑後高良山下「問本館」
 元亀2年1月 父「鑑連」と共に「立花山城」へ
 天正3年5月28日 「誾千代」七歳にて立花山「城督」となる
             この時の「道雪」の譲り状が面白い
             「誾千代」は成人するごとに中々の美形
             であったと云うが、気性激しく、家中も、
             持て余したと言う
 天正9年8月18日 「高橋(吉弘)統虎」誾千代の婿入り
 天正15年6月17日 柳河へ
             立花山を離れるにあたり、麓の女衆は
             誾千代との別れを惜しんだと言う
             気が強く「統虎」との間は睦まじくはいか
             無かったが、地元の女達には慕われて
             いたという
  柳河での「統虎」「誾千代」は互いの気の強さが禍して二人
  の中は冷え込む一方であった
  やがて「宗茂」は「誾千代」を疎外するようになる
  永禄4年 二人は別居、「誾千代」は柳河城の近く「宮永」に
  住んで「宮永様」と呼ばれた
  以後、「統虎(宗茂)」は「誾千代」を振り向くことはなかった
  
  慶長5年(1600)関ヶ原の戦い、「宗茂」は誾千代の反対を
  他所に、恩顧の西軍へ、しかし
  「宗茂」は「関ヶ原合戦]の時、「大津城・京極高次」攻めに
  あって、「関ヶ原の戦い」には間に合わなかったのである
  西軍は 敗戦となった

  この挙をついての「加藤」「黒田」の襲撃に備え「誾千代」は
  甲冑に身を固め「宮永館」を200の女衆、家中で備えた
  「立花宗茂」柳河開城、「加藤清正」預かり、一万石頂戴
  「誾千代」は、母や僅かな家中と共に、肥後玉名郡腹赤村
  (はらかむら)へ、世話を米多比(立花)鎮久が世話した
  母(仁志)は、元和2年5月28日卆

  腹赤村では「庄屋」の屋敷内に住んだが、「誾千代」は、
  心身ともに病んでいたようだ
  慶長7年10月17日腹赤の庄屋の納屋で寂しい生涯を閉じた
                          享年 34歳であった 
                戒名: 光照院殿泉誉良清大姉 
                神号: 瑞玉院
  
  今、跡地に後年「宗茂」が建立した墓がある。墓はその姿か
  ら「ぼたもちさん」と呼ばれている
             
 
 
戸次 鑑方

 天文~永禄のころ
   1560年代
   1567戦死
 

 鑑連 腹違いの弟  (鑑堅とするものもある。他に鑑堅がいて
                 こちらを鑑方としたものもある)
 中務少輔
 永禄10年9月3日(1567)「休松合戦」戦死
            戸次家中は、秋月に復帰した「秋月種実」を
            攻めるため、「休山茄子城」に出陣
 大友勢は「毛利襲来」の噂に一旦軍を筑後川まで引くことに
 なった
 この開陣の隙突き「種実」は未明に夜襲かけてくる
 大友陣地は混乱、戸次陣に雪崩れ込んだ。この混乱の中
 「鑑方」は戦死する
 戸次氏十六代「戸次鎮連」の父

 

戸次 親行
   
天文16年~永禄8年
 1547~1565
     
 
 孫五郎、鑑連の腹違い弟
 戸次次郎兵衛(後の立花次郎兵衛)父
 18歳で早世

 戸次 鑑堅  永正 ?~永禄10年
 兵部少輔 鑑連伯父「近江守親永」嫡男、鑑連従兄弟
 永禄10年9月3日(1567)筑前国秋月「休松合戦」討ち死


戸次 鎮比
     不詳  
 前兵部少輔「鑑堅」の嫡男
 筑前井上城戦死

戸次 鎮連
 永禄~天正14年
   ? ~1586
 戸次氏 十六代
 
 生没不詳
 鑑方嫡男、孫二郎、右近大夫、伯耆守
      伯父、鑑連の筑前侵出在住に伴い、鑑連猶子となり 
      戸次氏十六代継承
      戸次系図には、実は「田原○○入道紹忍」弟也と
      したものあり
      だとすれば、「大友義統」の伯父に当る
      「義統」は「立花山城督」を「鎮連」に継がせることを
      進言したという話も頷ける
      一方、後年「島津」に内応したとして「義統」に誅伐
      されている、事実はぞうであろうか

 永禄10年9月(1567)高橋鑑種討伐出陣
 永禄10年9月「休松合戦」出陣
                  戸次軍談は鎮連の勇猛な合戦
                      振りを伝え、戦功有った
 天正6年1月(1578) 縣「土持氏」討伐出陣
 天正7年「耳川の戦い」出陣
 天正14年12月「島津家久」豊後府内侵攻、この時大友家中
      南部衆は大友家より離反、南部衆の多くが「島津」に
      内応。大友加判衆であった「鎮連」も内応する
      「戸次川の戦い」に敗れた「大友義統」は、愛おしく
      可愛がっていた「側室」まで連れて、伯父「田原紹運」
      の竜王城まで逃亡するが、自分の行動棚上げし
      島津に内応したとして「戸次鎮連」を誅伐する
      「鎮連」は自刃したともいう
                         法名 : 宗栄

戸次 鎮林
立花 鎮林
 永禄?~文禄2年
  ? ~1593

 鑑方二男
 中務少輔
 文禄2年(1593) 「立花宗茂」の朝鮮出兵へ同陣 戦死

戸次 茂庵       不詳  
 鎮林 嫡男
 宗茂棚倉拝領の時、加藤清正お預け衆の中より召抱えらた
 22人の内の一人
 
戸次 統常 永禄7年~天正14年
  1584~1586

 戸次氏 十七代
 最後の戸次氏当主
 
 少輔次郎、戸次右近大夫、 「統連」改め「統常」
 戸次系図には、実は「臼杵民部大輔」男也とある
 事実とすれば、父同様「統連」も養子と云うことになる

 「戸次氏」は、「戸次鑑連」が筑前専従となった以後、養子で 
 家系を維持したのであろうか

 天承14年12月、島津軍の豊後侵攻に内応し、誅伐された
 父鎮連の汚名晴らすべく、利光表「戸次川の戦い」に出陣
 壮絶に戦死する
 「統連」は出陣に際し、尋常の覚悟を持って、相伝の家宝、
 書物悉く焼き払い出陣したという(戸次・清田文書)
            享年22歳の青年武将であった
  統常の墓は、豊後大野市藤北「常忠寺」にある
            戒名 常忠寺殿節宗義圓大居士

 

戸次 統利
   元和6年ごろ
     1620
 
 最後の戸次氏当主 「統常」 弟
 戸次七左衛門統利
 戸次川の合戦の折「統常」は家系を守るため統利を藤北に
 残したと見られる
 「宗茂」より偏諱一字許され改め「茂照」 七左衛門尉
 柳川に赴いた「戸次氏本家」の家系である
 「棚倉」へ同行
 御再城の節 400石(戸次氏直系にしては禄高小さい)
 
 総じて、戸次氏は大友氏の頃より、「田原紹忍」らに比べ、
 働きの割には、所領の処遇には恵まれていない
 「方分」として他国を切り取り「領地」とするしかなかった
 
 戸次
 次郎兵衛

 
立花統春
 永禄~天正18年
   
 
 後の「立花次郎兵衛統春
   「鑑連」弟「親行」の子(鑑連の妹婿とも)
   「戸次系図」によれば、父「親行」は18歳にて早世
   「鑑連」に預けられた

 「立花宗茂」に従い柳川へ
   「次郎兵衛」は、宗茂の義理の従兄弟にあたる
   「宗茂」立花山城入城時からの側近であった

 「戸次道雪」が「立花道雪」として立花姓を正式に許された
  天正十壬午霜月十八日(天正10年11月18日)の立花城
  西御殿での御旗御名字御祝の「統虎」の脇控えの中に
  その名がある(米多比文書、「立花家臣分限帳」より)
  また、同じく立花家臣分限帳には、道雪の病気中の看病の
  ことが書かれている
  
 その「道雪公御病中奉附添御看病仕候衆」の中にも
  「立花次郎兵衛」とあるので、二つの文から「次郎兵衛」は
  いつも、道雪と行動を共にしていたことが分かる
  おそらく「北野陣中」で道雪が亡くなった時「次郎兵衛」は
  「道雪」を北野で看取ったに違いない
  道雪にしてみれば、わが子の如く生活を共にした「統春」に
  看取られなながら逝ったことは本望で有ったに違いない
  道雪の戦国武将としての生き様を最も理解していたのは
  多分「次郎兵衛統春」である
  「鑑連」の下、数々の働きがあったに違いない
 
 有名なことは「宗茂」が「高鳥井城」「星野兄弟」を攻めた時
  「星野吉実」に 「次郎兵衛」が一番槍を繰り出すも突き損じ
  「吉実」は曲輪の奥に逃げ込む、そこを「十時伝右衛門」が
  討ち取る。
  首帳記載にあたり、互いに手柄を譲り合った逸話は有名
  「宗茂」は二人に「感状」与える(戸次軍談)

 ( 「感状」とは、手柄のお墨付き、武士の武勲の証明
           戦国時代牢人となった者が、新しく奉公するに
           当り、己を売り込む大切な証明でもあった)

  勇猛果敢、質実剛健、清廉実直な青年武将であったようだ
  しかし、「次郎兵衛」の最期は、その実直な性格が故に災い
  したとも云える
  「義」を重んじ、肥後加藤清正家の罪人匿ったことに端を発し
  自刃したという 
             享年 27歳
  
片賀瀬戸次氏
名 称 活躍時代                 主たる略履歴

戸次 直時
    1290年ごろか  
 「戸次時親」二男
 片賀瀬豊前守
 片賀瀬氏祖、第一期片賀瀬城
 (注)こんにち、片賀瀬氏の苗字は今のところ見出せない 
    途絶えた可能性もある


戸次 親続
  
   1500年代?

片賀瀬戸次氏 初代

 戸次山城守親続
 大分県竹田市大字片ヶ瀬に「戸次先祖墓」墓と伝えられる
 塔がある
 「親続」の墓とみられるが詳細不明
戸次 親久      不詳

片賀瀬戸次氏 二代

 戸次加賀守親久
 不詳  法名 宗心
 同時期に戸次本家筋に「親久」と云う同名の武将がいた
 こちらは「休松合戦」にて戦死している。同一人物かは
 分からないが、養子に入っていたことも考えられる


戸次 親方
    
     不詳

片賀瀬戸次氏 三代

 「親善」とも、妻「戸次鑑連」妹
 「宗傑」の父?
 戸次山城守
 法名 紹草

 
戸次 鎮秀

 永禄~天正年間
    ~1601
片賀瀬戸次氏 四代
 最後の片賀瀬城主

 「戸次山城守鎮秀」  号「戸次太郎入道宗傑
 母 「戸次鑑連」妹  妻 「高橋紹運」妹

 永禄5年(1562)豊前国苅田松山城進出
 永禄10年9月3日 筑前国「鑑連」に従い「休松合戦」出陣
 天正6年 大友主力日向侵攻に、南部衆として肥後駐在
 天正13年、島津の肥後侵攻に「阿蘇惟光」の要請で支援
 天正14年 「戸次鎮連」と共に「大友義統」の加半衆
 「宗茂」と共に柳河へ、玉名に住んだという
 玉名市石貫 曹洞宗「広福寺」住職とは昵懇であったという

 慶長6年5月3日 卒  法名 宗栄
               戒名 節心院雄岩英甫宗傑大居士
               墓は「広福寺」に家来衆の小さな墓と
               並んである

 
戸次 統貞  天文~天正年間
 左京亮  号剃髪し「戸次入道玄珊
 「鎮秀」嫡男  母「紹運」妹
 直入郡入田郷「津賀牟礼城主」
      津賀牟礼城は大友重臣「入田氏」の居城であったが
      「大友二階崩れの変」後「戸次統貞」に与えられる
 天承14年、肥後口より侵入した「島津義弘」に対し、南部衆の
      一人「統貞・玄珊」は巧みな「義弘」の働きかけに内応、
      開城したという
      生没不明

 
戸次 親良
永禄8年~寛永20年
   1565~1643
 
 正兵衛、号山田勝兵衛、亦の号津留原
 「片賀瀬戸次氏・戸次鎮秀(宗傑)」三男 柳河「宗茂」の下へ
 大阪城屋敷勤めしたとされる
 
 「親良」は「宗茂」の没した、寛永19年の翌年、追う様に
 寛永20年8月21日(1643)卒 79歳
                   法名 功譽宗徳居士 

(注) 大分県竹田市片ヶ瀬(片賀瀬)の戸次一族の墓地には、
  藩政時代に建てられ、年号の明らかに読める
     天保5年甲午4月21日「戸次清兵衛親宗」
                  (HP管理人管理墓地)
     文政4年3月6日「戸次宗右衛門親重」といった墓がある
  江戸時代にも片ヶ瀬(片賀瀬)には武家として残った一族の
  居たことが覗える。
  牢人していたものか、岡藩に奉公していたのか不明
  また「親続」以降の偏諱「親」の字一字を大切にしたことも
  分かる
  これらの者は、系図より「戸次宗傑」~「親良」と続き
       二男「戸次親実・山田宮内少輔」
       三男「戸次親房(親泰)・正兵衛尉」
                         の末裔たちと見られる
  その後400年の系譜全く不明
  片賀瀬氏に関する資料は、天正14年「島津軍」が引き上げ
  る折、火を放ち焼き払われたという 

     
藤北戸次氏
名 称 活躍時代            主たる略履歴

戸次 親教
     不詳  
 肥前守四郎、刑部大輔
 戸次系藤北氏

 (注)藤北氏は、「大友能直」の九男「能基」が祖とされている
    「親教」が藤北に入った理由不明

戸次 親正  明応4年~永正8年
   1495~1511年

 藤北戸次氏 初代

 藤北戸次氏祖、号「親延」、戸次五郎、戸次右馬助治部大輔
 本家「親宣」の代に「片賀瀬戸次氏」と共に独立分家
 大野荘宮迫(藤北傍)に住む。「親正」屋敷跡とされる場所に
 「城門跡」と云うところがある
  
「城刕(じょうり)舟岡山に於いて、合戦の砌(みぎり)恵林院殿
 義尹将軍(足利義稙のこと)に属して、前頭(せんとう)に進み
 細川典厩小令政賢の陣を破り、忠戦(身を捨てて戦う)に致っ
 たにより、御剣(太刀)と御感状(武功の証明)を頂戴する」
 
 その後、永正8年肥前国小坂にて討ち死、17歳であった
       法名 玄清義山

 

戸次 親就
     不詳  
 親正弟
 戸次孫十郎、治部少輔、但馬守
 兄「親正」の嫡男「親繁」を養子とす


戸次 親繁
 天文~永禄のころ  
 親正嫡男であったが、伯父「親就」の猶子となる
 刑部少輔
 永禄10年9月3日(1567)「休松合戦」戦死

 

戸次 親宗
 天文~永禄年間
 1530年代~1567年

 藤北戸次氏 二代
 
 親正二男
 戸次右馬介、隼人佐、治部大輔
 大永6年「戸次鑑連」の肥後「車返し」に謀反の菊地一族討伐
 では、大友軍三千の先頭に駆けて敵を蹴散らす働き
 「親宗」は初陣後の「鑑連」の後見の立場にあったと思われる
 永禄10年9月3日筑前秋月「休松合戦」戦死  享年63歳
                              法名 紹心

 

戸次 鎮時

     ~天正14年
     ~ 1586年
 
 親繁嫡男
 刑部少輔
 天正14年12月12日(1586)「戸次川の戦い」戦死


戸次 鎮直

  永禄~天正14年
     ~ 1586年
 
 親宗嫡男
 治部少輔
 弓馬の達人として、広く世の知る人であった
 天正14年12月12日(1586)豊後国利光表
                  「戸次川の合戦」戦死

 

戸次 鎮栄

  慶長~元和年間
 
  藤北戸次氏 三代
 
 親宗二男
 弥太郎、雅楽助
 元和9年12月24日(1623) 卆  号御栄


 戸次
 右衛門
 大夫鎮実

     ~慶長5年年
     ~1600年
 
 戸次刑部少輔親繁(休松戦死) 二男

 「戸次右衛門大夫鎮実」 号立花「立花右衛門大夫鎮実
                     「道雪」側近

  「右衛門大夫」の兄「戸次刑部少輔鎮時(戸次川戦死)」の
  嫡男「戸次興左衛門親正(親昌)」の残した「戸次系図」に、
  慶長5年於筑後国八院戦死と明記

  慶長5年(1600) 関が原にて西軍へ付き「京極高次」大津城攻
  めた「宗茂」勝利するも「関が原敗戦」
  「関が原」後、「家康」は東軍へ付いた肥前「鍋島」に「宗茂」追討
  命ず。肥前勢の大軍は「八院(柳川北一里)」に終結
  是に「右衛門大夫」は二男「善四郎(親雄)」共々「柳川」の北方
  一里半 「江上表(現、久留米市城島江上、八院)」に出陣
  善四郎共々「江上・八院表戦死」
  墓は、三潴郡大木町堀田にある。
  この合戦で「立花家中」名のある士 だけでも
  江上表 38名、八 院 53名 計 91名 が戦死した
  「米多比文書」立花氏関係「戦死帳」によれば、「右衛門大夫」
  次男共「八院戦死」に名無く 「江上表戦死」に名がある。
  「立花三大夫」も同じ。なお右衛門大夫家中「八院戦死」には
   5名の名がある


 「道雪」病気の時の看護付き添い衆の中に、右衛門大夫の名
 がある。道雪の病気の情報は、死の直前情報ぐらいであるが、
 仮にこの「道雪」看病衆のことが、筑後出陣中のことであれば、
 道雪の筑後出陣は、既に病を押して出陣していたことになる
 道雪の筑後出陣は一年にも及んでいることから「陣中で没した」
 ことの訳が推察される
 「道雪」は筑後制圧に、自身の最期を懸けていたのではないか


戸次 直貞

     ~文禄2年
     ~1593年
 
 親繁三男
 立花弾正、治部少輔
 「宗茂」に京へ同行
 文禄の役(1593)  朝鮮にて戦死


戸次 統直
立花 統直

  慶長~元和年間  
 鎮直嫡子、治部少輔
 棚倉同行
 柳河再封後暇を申し出る
 徳川家重臣「伊井掃部頭」に奉公
 強弓 一寸二分  四方竹 与えられる
 「宗茂」が柳川に復帰した元和6年(1620)以降であろう


戸次 統栄

 天正3年~寛永元年
   1575~1624年

 藤北戸次氏 四代
 
 鎮栄嫡男 、改 種直、太郎介、左兵衛尉
 寛永元年11月16日卆 
               享年 50歳

 
 
 戸次 鎮時
     ~天正14年
     ~1586
 
 戸次刑部少輔親繁嫡男、 刑部少輔
 戸次川、利光表戦死

 
 戸次 親昌

     不詳

 戸次興左衛門親昌(親正)
 「戸次系図」作成


戸次 親雄
立花 親雄

永禄11年~慶長5年年
   1568~1600年
 
 戸次右衛門大夫 二男
 善四郎
 父と共に、筑後八院、江上に出陣「八院の戦い」
 父とともに同所戦死
                            享年 17歳


戸次 親勝
立花孫市朗


     不詳 
 戸次右衛門大夫鎮実 三男  「宗茂」棚倉同行
 再城後 700石
 
戸次氏家臣団
  仕分け     名  称                概   要
道雪七家老  
 由布甲斐守家続

 堀越後守入道東雲

 十時與五郎連秀

 安東助五郎家栄

 由布源五兵衛尉
       惟延雪下

 森下備中守入道
          釣雲

 安東紀伊介宗忠
 
・ 「戸次鑑連」が立花城に城督として入城した時の家老たち


・ 由布氏は由布院、十時氏は大野荘にあって、「豊後大神氏」
  武士団の流れ引く末裔

・ 「由布惟延雪下」は「道雪」の腹心中の腹心、数多くの合戦で
  先陣を果たし、体の合戦傷 65箇所ともいう
  酒見城城番家老 3500石
  「宗茂」の棚倉に同行
  慶長17年6月24日、老衰のため現地で卆 86歳 

 
道雪四天王  
 十時摂津守連貞
 
 安東紀伊介家忠

 高野大膳亮

 由布惟延雪下
 


・ 十時摂津は81歳でも「島原の乱」に出陣した、立花藩きっての
  猛将  正保元年 81歳(1644)卆
   
・ 高野氏も、豊後大神氏武士団の末裔、大野荘鎧ケ嶽麓高野

・ 安東氏は戸次譜代ではないが、「藤北」の東、大野荘安藤を
  本貫とした
  「大友能直」は豊後国府内には下向していない
  能直の弟「古庄四郎重能」が先陣として府内入りの時に同行
  豊後入り したとみられ、累代戸次氏に重用される
  一族に多くの戦死者出しており、武門の誉れ高い一族

道雪側近  
 小野和泉守鎮幸

 薦野 増時

 米多比 鎮久
(ねたびしげひさ)
 

・ 小野和泉は、大友氏の軍目付けであったが、その智勇、人格
  見込み、雪下の推挙で「鑑連」に仕え、一挙にその才覚顕す
  徳川本多忠勝らと共に「日本七槍の一人」とされる槍の名手
  宗茂柳河入国時 蒲池城城代家老 5000石
  宗茂浪浪の際は、「加藤清正」に仕え4000石とも
  宗茂復帰前に慶長14年卆 64歳?(1546~1609)
                    華徳院眞月浄連居士

・ 薦野増時糟屋郡「薦野城主」父「河内守」は「立花鑑載」の
  家臣であったが、永禄11年2月「鑑載」謀反の時これを察知、
  同郡米多比城主「米多比大学(鎮久の父)」共々謀殺される
  のちに「増時」は「鑑載」を討った「鑑連」に仕え、重用される
  立花三河守 城島城城代家老 4000石
  関ヶ原合戦の折、増時は徳川へ付くよう進言し柳河に残った
  宗茂敗戦後は黒田藩へ
  元和9年卆
   墓は「道雪」と共に新宮町立花口「梅岳寺」にある

・ 米多比鎮久「米多比城主」、父が謀殺された後「鑑連」に奉公
  柳河では、鷲尾城城代家老 3500石拝領
  晩年は玉名腹赤にて、「宗茂」に疎外され
  不遇の「正室誾千代」母子の世話を果たし
  父が「立花鑑載」に謀殺された以降「鑑連」に重用され恩顧に
  応えた
  「立花姓)許され「立花三左衛門鎮久」
                               寛永10年卆
  


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