史跡探訪年表(    2007 〜 2015
                                                    


 番号

    史 跡 名     場  所   年 月 日       史 跡 概 要   備 考
171  成大寺跡
 (利光宗魚墓所)
 大分市上戸次
       利光
 2007.3.14
 古くは戸次氏祈願所
 天正14年12月7日
 利光合戦で戦死した
 鶴ヶ城(利光城)城主
 「利光宗魚」の墓がある。
 「長空院殿前越州刺史
       水雲宗魚大居士」

 
172  八木山石坂古戦場
 (八木山峠)
 飯塚市  2007・3.26  
 戸次統虎初陣の場所 
  「石坂のい」
 僅かな手勢率い秋月勢を
 翻弄 
 初陣ながら人並みはずれた
 知略に、周囲の者驚かせた。

173  八木山:千人塚  飯塚市八木山  2007.3.26

 石坂に置いて戸次鑑連
 高橋紹運と秋月勢の戦いの
 戦死者を葬った塚。
174  大伴部博麻
 (おおともべの
        はかま)
 福岡県上陽町  2007.3.28
 大伴部博麻
 白村江の戦い(663)に
 一兵士(丁)として参加したが  
 捕虜 となる。
 長安で唐が大和を攻める事を
 聞いた博麻は我身を奴隷に
 売って資金を調達。他の四人
 を帰国させ伝える。
 平民として唯一、持統天皇
 よ勅語賜る 
 「 愛国」の言葉の発端となった 
175  可愛山陵
 (えのさんりょう)
 川内市宮内町  2007.4.10
 「エノヤマノミササギ」
 天孫「天津日高日子番能
        邇邇芸命」御陵
176  三角:矢崎城跡  宇城市三角
       矢崎
 2007.4.11
 阿蘇大宮司家の支城
 南阿蘇村一心行の桜
 謂れの発端となった城。
 矢崎城主「中村惟冬」の妻子
 は島津3万の攻撃の中落ち
 伸び故郷阿蘇へ帰郷。
 桜を植え「惟冬」を弔った。
177  秋月種実の墓
 (西林院)
 串間市西方  2007.4.16
 秀吉に降参した「種実」は、
 日向国櫛間城(財部含む
 3万石)を与えられ入る。
 後年高鍋城(財部城)へは
 嫡男の種長が入り、高鍋藩と
 なった。
 西林院近くには櫛間城跡が
 残る。
178  願成寺  人吉市願成寺  2007.4.17
 相良氏の菩提寺
 響原で盟友「甲斐宗雲」と
 戦い戦死した「義陽」の墓も
 ある。
179  懐良親王御陵
 (悟真寺)
 八代市妙見  2007.4,17
 征西大将軍「懐良親王」の
 良は数箇所あるが、八代の
 墓陵が宮内庁管理

宮内庁書陵部
桃山監区管理
180  五万騎塚
 (大保原合戦)
 久留米市
      宮ノ陣
 2007.4.19  
 南北朝期、正平14年、延文
 4年(1349)
 南朝方征西大将軍懐良親王
 奉じる菊池武光軍4万。
 少弐頼尚、大友、島津ら6万。
 筑後川右岸宮ノ陣北小郡原
 一帯であった南北朝最大の
 合戦。武家方大敗 
 双方の戦死5449人
 負傷25000余。この合戦の
 戦死者、敵味方たがわず葬
 った塚。
181  将軍藤
 (大中臣神社)
 小郡市福童  2007.4.19
 合戦で傷ついた懐良親王が
 治癒を祈願したところ傷が治
 り、その加護に感謝し植たと
 される 
 神社境内に今も見事な花咲
 かす。
182  可愛山陵伝説地
 (北川墓陵参考地)
 宮崎県北川町
       俵野
 2007.4.24
 可愛山陵は、川内市の御 
 が、宮内庁管理の公式の陵
 であるが、地元では古くより
 可愛岳(728m)の麓にある
 この御陵こそ可愛山陵と信
 じている。
 現在、宮内庁墓陵参考地
183  柞原八幡宮  大分市八幡  2007.4.25
 旧、豊後一之宮
 祭神「応神天皇」
 戸次14代「戸次常陸介親
 夫妻は、健やかの男子誕生を
 祈願し、鑑連を授かった。 
 天然記念物の大楠
184  勢場ヶ原古戦場  杵築市勢場  2007.4.25  
 勢場ヶ原古戦場
 天文3年4月6日この地 
 大友勢と、豊後へ侵入を図る
 大内勢が激戦を繰り広げた。
 序戦は大友軍は大きな損害
 出すが、劣勢を挽回大内勢
 撃破し勝利。
 この合戦で、大友軍の大将の
 一人「吉弘源氏直」討ち死。
 氏直は高橋紹運の祖父
185  鎧ヶ嶽城跡
 (戸次氏居城
 豊後大野市藤北  2007.4.26
 (平成19年)

 「鎧ヶ嶽(847m)」
 「9代戸次親載」以降戸次氏
 主家の拠点
 鎧ヶ嶽は大変に狭く険しい。
 二段になっている。
 登山道には鎖場、転落注
 平時は、麓「藤北館」へ居住。
 「藤北」には、3代「貞直」の弟
 「親教」が藤北を号として用い
 ので、「親載」移転時には、
 既に戸次の氏族が居たとみら
 れる。

  
  一段下曲輪より鎧ヶ嶽
  頂上(本丸?)望む
  大変に狭い
  比高は2mほど

  
  東口鎖場、武士たちは
  甲冑つけてこの崖を登っ
  たであろうか。
  写真で見るよりは急崖。 
  鎖なしでは登れない
186  上津神社  豊後大野市
    大野町中原
 2004.4.26
 戸次氏祈願所
  戸次鑑連は金幣、銅
  戸次親載寄進の石鳥居
  
187  古屋敷
 (戸次藤北館跡)
 常忠寺(二回目)
 豊後大野市藤北  2007.4.26
 
 
 現地にて遺構らしき物は
 確認できなかったが、市の
 資料によれば、竪堀、横堀、
 土塁で区画されている。
 隣接し 
 「 戸次統常(統連)」の墓所
 「常忠寺」がある。

 国道57号沿い宮迫には、
  「戸次五郎修理亮親」の
 松尾城・城門跡

 田中に「戸次館跡」最乗寺
 戸次氏支城「雷山塁」跡
188  高橋紹運首塚
 (二回目) 
 筑紫野市二日市
        京町
 2007.5.1
 この日は首塚の形状測定
 その結果現在のものは、
 筑前国続風土記の記述より
 ひと回り大きい。
 近世修築されている。
 おそらく岩屋城跡二の丸の
 墓も修築の可能性大
189  石井樋
 (いしいび)
 佐賀市鍋島  2007.5.8  
 「石井樋」とは藩政時代初期、
 佐賀藩が嘉瀬川に築いた
 佐賀城下と佐賀城の濠水安
 定のための石造り取水堰。
 戦国末期「竜造寺隆信」の
 侍大将で、鍋島信生に仕え
 た「成富兵庫茂安」が築く。
 茂安は「象の鼻」「天狗の鼻」
 といった石積堤の工夫により
 安定した清水の取水を考案し
 多布施川を開いて佐賀城下
 利水を確保した。
190  沖田畷古戦場
 (二回目)
 島原市  2007.5.23
 竜造寺隆信戦死の地
 慰霊碑の写真
191
 名島城跡
 福岡市東区名島  2007.5.25  
 立花山城の支城
 現在名島神社
192  響ヶ原古戦場
 (盟友相まみえる)
 熊本県宇城市
      豊野糸石
 2007.6.31  
 互いに不可侵の盟約を結ん
 でいた阿蘇氏「甲斐宗運」と
 八代麓城「相良義陽」であっ
 たが、島津の圧力の前に相
 戦うことになった悲劇の合戦。
 天正9年12月(1581)。

  古戦場跡に戦死者弔った
 祠「相良神社」がある。
 また御船滝川、平成音大前
 には「相良塚」もある。
193  高屋山上陵  霧島市溝辺  2007.6.6
 「タカヤノヤマノエノミササギ」
 天津日高日子彦穂穂手見命
 御陵。 彦火火出見尊とも
 山幸彦の伝説で知られる神
 神武天皇祖父神
194  星野村:大円寺
 (懐良親王御陵)
 福岡県星野村
        土穴
 2007.6.12
 懐良親王の墓は複数ある。
 その一つであるが、親王の
 伝承などより有力な御陵の
 ひとつ。
 墓は山中深くひっそりとある。
195  将軍梅  福岡県宮ノ陣  2007.6.12
 「懐良親王」陣跡とされる
 宮ノ陣神社境内の紅梅古木
196  鶴崎城跡
 (妙林尼の戦い
 大分市西鶴崎
       二丁目
 2007.6.19
 「吉岡長増居城」
 天正14年12月、島津の猛
 攻に耐え、巧みな和解作戦
 にて油断させ、寺司浜にて
 島津勢を破った女将妙林尼
 活躍の城。
 現地は小学校
197  日本最後の
      仇討ちの地
 玉名市石貫  2007.6.26
 明治4年4月16日(1871)
 宇津露木谷という所で肥後
 藩士「下田平八」らによって
 行われた日本最後の公式
 仇討ち。
 この後明治6年仇討禁止令
198  広福寺  玉名市石貫  2007.6.26
 豊後国片賀瀬城(戸次城)
 第4代
 「 戸次山城守鎮」 号宗傑
 墓所
199  菊池武光騎馬像
 菊池神社
 菊池市
 ふるさと創生
     市民広場
 2007.6.26  
 筑後川の戦いの英雄
 「菊池武光騎馬像」
 菊池神社、旧隈府城跡の麓
200  グラン・サン・
  ベルナール峠ほか
 スイス  2007.7.5
 スイス旅行(10日間)

 グラン・サン・ベルナール峠とは
 1800年4月、フランスの窮状を
 打破するため酷寒の中、イタリ
 アの再獲得  を図ナポレオ
 オーストリア軍を叩く為、4万の
 大軍を率い越えた標高2469m
 の峠。氷河の削った急峻な深
 い谷沿いをバスで越た。
 凍てつく峠越え、ナポレオン軍
 谷へ落ちる兵、馬数知れず。
 大砲は引きずりあげたという。
 ガイドの説明聞きながら、その
 苦難が知れた。

 その他訪れた史跡
  カベル橋(最古の屋根付き
         木造橋)
  シヨン城(塔、岩窟地下牢、
        絞首刑場。塔には
        地震によるひび割
        れあった)
  ベルン旧市街(世界遺産)
  ベルン大聖堂

 観光
  ベルニナアルプス
  ローヌ氷河
  マツターホルン(トレッキング)
  ユングラツフヨツホ
  モンブラン
  アイガー
 
 
201  千光寺
 (懐良親王御陵の
        ひとつ)
 久留米市山本町
         豊田
 2007.7.19
 「筑後川の戦」
 (大保原合戦)にて傷ついた
 親王は、谷山城へ引き上げ
 手当てのかいなく亡くなる。
 城主「谷山馬之介」は密かに
 火葬し埋葬したとされる。
 その「御火化所」とされる杉
 林がある。
202  吾平山上陵
 (三回目)
 鹿屋市吾平町  2007.8.6
 前記 略
203  亀山城
 (西郷党の拠点)
 福津市福間駅東  2007.8.20
 宗像氏貞の与力
 西郷党頭領「河津隆家」居城
 隆家は氏貞が大島へ逃れた
 時、籠もって立花勢を防ぎ
 密かに氏貞の復帰を図った。
 氏貞にとっては最も頼れる
 忠臣であった。
 しかし「道雪」と「氏貞」和解に
 際し、西郷300町は「色姫」の
 化粧料として立花山へ譲渡。
 西郷党の者たちは若宮郷へ
 追われた。
 さらに道雪は隆家の首を要求
 した。氏貞は止む終えず隆家
 を赤間「明湛寺」へ呼び出し
 謀殺する。
 これら一連の事件が、後年
 「小金原の戦い」の発端と
 なった。
204  飯盛山城跡  古賀市内殿  2007.9.4
 飯盛山(157m)
 蔦ヶ嶽城の砦
 九州道上り線「古賀SA」の
 すぐ北に見える山。
205  木崎原古戦場
 (四回目)
 えびの市三角田  2007.9.26
 この日は「六地蔵塔」調べる 
206  寺司地蔵尊
 (鶴崎城の戦い
 寺司浜の戦い
 大分市鶴崎西
      二丁目
 2007.9.16
 「鶴崎城の戦い」終盤戦
 「寺司浜の戦い
 天正15年3月8日
 女将「妙林尼」が仕掛けた
 島津勢帰路襲撃戦。多くの
 島津兵が討たれた。
 寺司地蔵はその戦死者
 供養の地蔵尊

 
207  龍王城跡  宇佐市龍王  2007.10.17
 大友宗麟加判衆「田原紹忍」
 持城。
 戸次川敗戦の後「大友義統」
 はここまで逃げた。
208  吉弘氏本貫地
 (筧城跡・推測地)
 豊後高田市
       松行
 2007.10.29
 吉弘氏の菩提寺跡
          「金宗院跡」
 「筧城」は吉弘氏平時の館
 とされているが詳しい場所 
 不明。金宗院跡付近と推測
 されている。
 吉弘氏「屋山城跡」
 長安寺(六郷満山総寺)
209  安楽平城跡
 (荒平山)
 福岡市早良区
        重留
 2007.11.5
 荒平山(395m
 筑前大友五城
 小田部民部少輔鎮元居城
 天正7年秋、肥前竜造寺勢
 に攻められ落城自刃。
210  箱根  神奈川県箱根町  2007.11.10
 箱根関所跡
 旧街道杉並木
 蘇我兄弟の墓
211  針磨山陣跡  筑紫野市針磨東  2007.11.12
 柴田川の戦いの戸次道雪
 陣跡。現在筑紫中学校
212  戸次氏一族跡  大分市尾津留
       (高山)
 2007.11.13
 石積み遺構がるとされてい
 るが未確認。
 神社は確認。道三池未確認
213  子子神社
 (獅子神社)
 大分市鴛野  2007.11.13
 尾津留(高山)道三池で見つ
 かった、戸次鑑連の兜前たて
 の獅子頭を御神体とする神社
214  柑子岳城跡  福岡市西区  2007.11.27  
 柑子岳(255m)
 筑前大友五城
 博多西の備えであった。
 大友宗麟は、臼杵新助鎮広
 を配置。高祖城「原田氏」との
 間で幾たびか争奪戦。
 新助後は臼杵進士兵衛鎮実、
 木付鑑実とはいるが、耳川の
 大友敗戦後、筑前の大友離
 れは続き、柑子岳城周辺は
 原田勢となり孤立、道雪の
 救援隊派遣も効果なく、天正
 7年冬遂に開城
215  道三池跡
 (戸次鑑連兜飾り  
       獅子頭)
 大分市尾津留  2007.12.5
 戸次一族の尾津留高山地区
 にあった小さな池。
 「高畠道三」という者が網打ち
 において、獅子頭を揚げた。
 これは「戸次鑑連」が兜に付
 けていた物で、獅子神社の
 ご神体となった。
 その後、この池を「道三池」と
 呼ぶようになった。
216  
 出水市
  島津氏発祥の地
      武家屋敷
      感応寺
      
 出水市  2008.3.29
 出水市は島津氏に最も縁の
 深い地。
 島津氏発祥の地の一つ。
 武家屋敷が公開されている。

 感応寺は島津氏五代の墓所
 初代より五代の墓五輪塔が
 ある。
217  岩屋城跡
 (何度も訪問)
 太宰府市
     観世音寺
 2008.4.5  
 桜観賞と紹運墓墓参
218  百間石垣
 (大野城跡)
 福岡県宇美町  2008.4.5  
 7世紀後半、大和政権によって
 築かれた「大野城」の防衛石塁
 大宰府より四王寺林道を宇美
 方面へ下る左手。
 山の斜面に約200mに亘り
 築かれている。
219  都城市
  島津氏発祥の地
 都城市郡元町  2008.4.15
 祝吉御所跡
 源頼朝より「島津院」賜った
 初代「忠久」が御所を置いたと
 する場所。
 巨大な碑が建てられている。
 NHKが大河ドラマ「篤姫」にて
 出水市を島津氏発祥の地と
 紹介。都城市抗議した。
220  高鳥居城跡
 (三回目)
 星野兄弟終焉地
 須恵町  2008.5.2  
 この日はツツジ、藤の花
 観賞。
 途中の空堀と土塁調査
221  門司城跡  北九州市門司区  2008.5.3
 元暦2年(1185)源氏に備え
 平 知盛が長門「紀井通資」
 に築かす。
 後に「藤原親房」が豊前代官
 として門司城入城。「門司氏」
 名乗る。
 戦国期、大友氏の支配下に
 入るが、毛利氏が奪還。
 大友氏は永禄2年、4年と
 戸次鑑連、吉弘鑑理らに攻め
 させるも奪回ならず。

 この日は関門海峡舞台に
 源平船合戦のイベントが行わ
 れていた。
222  大友義鑑の墓  臼杵市野津町
       寺小路
    「到明寺跡」
 2008.5.8
 「大友二階崩れの変」にて
 家臣に討たれた「義鑑」の墓
 生前義鑑がよく参拝した寺。
 「到明寺跡」
223  大友宗麟像   臼杵城跡
 JR大分駅前
 2008.5.8  
 臼杵城の「宗麟像」は戦前の
 日本を代表する彫刻家「日名
 子実三」の彫刻で「廃墟」と
 名づけられ、宗麟の憔悴した
 姿を彫っている。
 
224  吉弘神社
 (二回目)
 別府市吉弘町  2008.5.8
 「下馬の松」
 「統幸の墓、祠」
 「旧豊前街道石積み」
  写真撮影
225  山野城跡
 (朽網城)
 竹田市直入仏原  2008.5.16  
 豊後最大の山城跡
 朽網氏の居城
 直入と玖珠を結ぶ要所
 天正14年豊後直入へ侵入の
 島津義弘も一時入城
226  高鳥居山城跡
 (四回目)
 須恵町  2008.10.7
 前記 略
227  国営吉野ヶ里
      歴史公園
 (五回目)
 佐賀県
     吉野ヶ里町
 2008.10.22
 日本を代表する弥生遺跡
 工業団地造成中に発見
 昭和61年より発掘調査
 「魏志倭人伝」記述の遺構が
 発見され注目された。
 紀元前2世紀より3世紀の
 弥生時代の「村」から「国」へ 
 の形成を語る遺構とされる。
 現代公園として、弥生集落
 宮殿などを復元。
 「国営吉野ヶ里歴史公園」
228  島原城址  島原市  2008.10.23
 復元天守閣
 石積み、水濠
229  鷲岳山・正應寺  福岡県那珂川町
       南面里
 2008.11.6
 鷲ヶ岳城主
    「大鶴上総守宗雲」居城
 筑前大友五城
 柑子岳、安楽平と大友五城
 が次々開城する中、最後まで
 持ちこたえたが、天正9年遂
 に竜造寺隆信勢に降参。
 出家して「浄慶」と号し、麓に
 「正應寺」開く。 
230  大聖寺  豊後大野市
    犬飼町柴北
 2008.12.10
 豊後大友氏は戦国大名として
 成立していく過程では、度々
 家督をめぐる混乱があった。
 特に「大聖院宗心」は中国
 大内氏と通じるなど、執拗に
 画策する。
 「宗心」は13代「親綱」六男と
 されるが、家督継承が嫡男
 家督単独惣領制へと移行す
 る中で、本流を離れ不満が
 鬱積、反乱を繰り返す。
 大聖寺は「宗心」の父「大聖
 院殿」の墓のあるところ。 
231  戸次(立花)右衛門
     大夫鎮実
 (八院の戦い  
     古戦場跡)       
 福岡県大木町
        横溝
 2009.1.20
 関が原の戦いにて西軍に加
 わり敗戦した「立花宗茂」
 柳川へ急ぎ戻るも、同じく
 西軍に加わった「鍋島勝茂」
 は汚名挽回と、家康に取り
 入り「柳川討ち」にでる。
 これが俗に言う「八院の戦い」
 柳川勢は、現大木町の横溝、
 江上、八院で応戦するが
 大軍の鍋島の前に総崩れ
 あわや「立花宗茂」玉砕の
 寸前、加藤清正、黒田如水が
 仲裁、宗茂は城を開け清正の
 お預けとなる。
 この戦いで「立花(戸次)
        右衛門大夫鎮実

 次男「戸次善四郎親男」戦死
 墓は横溝の「圓通庵跡」
232  岩屋城跡  太宰府市  2009.3.25
 桜見物
 墓参
 本丸下の斜面保護工事中

 屋山中務の墓碑文字の風化
 が進んでいる。
 そのうち読めなくなる心配。
233  大中臣神社
 (二回目)
 小郡市福童  2009、4.15
 大保原合戦(筑後川の戦い)
 傷ついた「懐良親王」傷治癒
 祈願の神社。
 樹齢600年お親王手植えの
 「将軍藤」が身頃を迎えてい
 た。
234  ァ千代の墓  熊本県長州町
   腹赤(はらか)
 2009.4.15
 「戸次ァ千代
 「戸次鑑連(道雪) 娘」
 立花山城:女城督
 立花宗茂正室「立花ァ千代

 慶長5年関が原で敗戦。
 「八院の戦い」で加藤清正に
 助けられた宗茂は高瀬という
 所に居住したという。
 ァ千代は宗茂を追って腹赤
 まで至り「阿弥陀寺」に寄寓。
 宗茂とは別居。
 慶長7年壬寅10月17日(1602)
 この地にて亡くなる。
 墓は、柳川へ復帰した宗茂が
 寛永11年(1634)建立した。

  「光照院殿泉誉良清大姉

 ァ千代の墓は、墓柱上の丸い
 笠石が「ぼたもち」に似ている
 事から、親しみをこめて
 「ぼたもちさん」と呼ばれる。

 
      ァ千代の墓
     (長州町腹赤)

235  田手畷古戦場  佐賀県
 吉野ヶ里町田手
 2009.4.22
 古戦場といっても何らかの
 遺構がある訳ではない。
 長崎自動車道「東背振」ICより
 国道385号を南へ、吉野ヶ里
 遺跡を右手に見ながら国道
 34号「田手交差点」を200mも
 進むと田園風景が広がる。
 ここが田手平野、かって「田手
 畷」と呼ばれた古戦場である。
  享禄3年8月(1530)
 中国大内義隆の「杉興運」の
 一万に「少弐冬尚、竜造寺
 家兼」四千が激戦を展開した。
 序戦は大内勢が攻め込んだ
 が、「赤熊」と称す奇妙な面を
 被った一団の突然の出現に
 大内勢は動揺、陣形が混乱、
 数百の兜首が上げられ敗退
 する。
 このころ「竜造寺」は「少弐」の
 旗下にあった。
 
236  片ヶ瀬石造物群
  「オト様」
 竹田市大字片ヶ瀬  2009.4.26
 天正年間「戸次鑑連」に従い
 筑後で戦った 「由布(油布)
 九郎左衛門」は、戦いの非常
 さに兄由布雪苛(道雪重臣
 
と別れ、片賀瀬城(戸次城)
 へ戻り土着。
 その後の「九郎左衛門」に関
 する聖地遺構。     
            
237  鞠智城跡
 (古代 大和政権
        築城)
 山鹿市菊鹿米原  2009.4.30
 663年「白村江の戦い」敗戦後
 古代大和政権は唐の進攻に
 備え、九州に金田城(対馬)、
 大野城(福岡)、基肄城(佐賀)
 鞠智城(熊本)を築き備えた。
 鞠智城は武器、食料の支援基
 地として664年ごろ築かれたと
 され、こん日まで多くの遺構を
 残す。
 八角形鼓楼(復元)、兵舎跡
 礎石群、貯水池跡、堀切、土
 塁、堀切門跡、深迫門跡等が
 確認されている。

 現在整備され公園化している。
 標高は140m余の低台地。
 四城の中でも最も標高低い。
                
238  竹迫城
 (合志城)
 遺構:大型土塁
     空堀
     本丸跡
 合志市竹迫  2009.4.30
 大規模な土塁、空堀
 広い本丸跡。
 竹迫城は建久年間(1990年代)
 合志地頭職中原師員(竹迫氏
 初代)によって築かれた。
 永正7年(1510)15代公種の時
 大友氏に従い豊後へ移る。
 永正8年竹迫城には合志高岑
 が入り、合志城と改める。
 以後肥後北部の要所として、
 阿蘇氏、菊地氏、大友氏らとの
 争点の城となった。
 天正13年9月(1585)島津氏に
 攻められ落城する。
 遺構は広い円形の本丸曲輪跡
 はじめ、大型空堀土塁が残る。
 特に大型土塁は中九州の中世
 城跡としては他に例を見ない。
 大変に美しい土塁。
 よく手入れされ保存が行き届い
 ている。
 
                 
239  高鳥居山城跡
 (岳城山・381.4m)
 (五回目)

 戦国の世の宿命
 とはいえ、岩屋城
 玉砕の犠牲ともい
 える。吉実、吉兼。

 兄弟の首級を葬っ
 た「吉塚」の地名の
 発祥の発端となっ
 た戦い。
 
 須恵町、篠栗町  2009.5.2
 天正14年 立花宗茂
 星野吉実、吉兼討つ。
 立花(戸次)次郎兵衛一番槍

 遺構:本丸、二の丸、三の丸
    各曲輪跡
    土塁、空堀、竪堀

 本丸跡に吉永正春先生文の
 碑がある
 
 登山道脇には、高鳥居城武士
 菩提所の「薬師堂」
 薬師観音尊、六地蔵  

 登山道は約2.5km。緩やかな
 勾配歩きやすい。
 駐車は須恵歴史資料館利用
 途中「孔雀」の家、池の鯉も
 見られる。
              
何故かこの山
に引かれる。
240  石 峠  宗像市平等寺  2009.5.6
 石峠とは、蔦ヶ岳城跡(城山)
 と宗像四つ塚の一つ金山との
 間にある標高170mほどの峠
 である。南に登れば蔦ヶ岳城。
 北へ登れば、金山経て西へ
 峰続きに、宗像氏貞の支城
 草場城跡へつながる。
 石峠は蔦ヶ岳城の搦め手口
 に当たる要所で、厳重に警備
 されていたと見られる。
 蔦ヶ岳の西登山口より石峠ま
 での林道脇には、地形を巧み
 利用した、土塁、竪堀が幾筋
 も見られる。
              
241  中津城  中津市姫路町  2009.5.11
 中世中津は、城井城「宇都宮氏」
 の勢力下にあった。
 「黒田孝高(如水)」は当主を謀
 殺、中津城築城に着手。
 その後細川忠興が大改修。 
 細川氏肥後入り後「小笠原氏」。
 その後「奥平氏」10万石にて入
 城。幕末まで9代続く。

 中津城には天守閣は築かれな
 かった。
 現代は昭和39年、末裔一族に
 より模擬天守閣が建設された。
 歴史的価値は低いが展示物の
 中に甲冑等とともに、奥平家に
 「武田信玄」送った「陣羽織」や
 「長篠の戦いの」合戦絵図など
 見るべきものもある。
               

242  大友 頼泰の墓
 (最初に豊後入り
  した大友氏当主)
 大分市岡川501  2009.5.19
 豊後大友氏第三代当主
 1222生〜1300没
 1242年以前、若くして豊後守護
 相続。
 最初は鎌倉で守護代派遣して
 いたが1269年ごろ豊後下向。
 その後「大友氏」豊後土着。
 元寇、文永の役では評判よくな
 かったが、その後蒙古最来襲
 へ備え、九州武士団の軍事指
 揮権を与えられる。

 墓は、大分市南部、岡川の高
 台、道路脇のみかん畑の一隅
 にある。個人の所有である。
 近くに「菩提寺の常楽寺」。
 途中道狭い注意。
 大分市街方面又は、光吉ICより
 R210西へ進み、途中県道623
 へ左折(南へ)。七瀬川渡り左
 へカーブ直ぐに変則三叉路を
 右折。右正面に案内がある、
 見落とさない事。入口狭いが
 直進。車の離合のできない
 トンネルなどあり。要注意。
 常楽寺があるが通り過ぎて
 150mほどか、左の路傍。

               
243  田熊石畑遺跡
 (弥生中期遺跡)
 宗像市田熊
       二丁目
 2009.5.31
(最終現地
     説明会)

 旧宗像高等女学校跡地、
 昭和8年には遺物が発見され
 遺跡であることが分っていた。
 平成20年までの調査の結果
 木棺墓跡より、人骨と共に各
 墓より複数の武器型青銅器が
 合せて15本も発見され、
 福岡市早良区や唐津地方の
 遺跡にも劣らない文化的価値
 の高い宗像地方を代表する
 弥生遺跡となった。
 
 遺構
  住居跡、堀立柱建物群
  環濠、貯蔵穴群、墓域
  陸橋

 出土品
  銅剣、銅戈、銅矛、勾玉
  菅玉、ヒスイ製垂飾、須恵器
  土師器

 特徴
  埋葬形式が北部九州に多い
  甕棺墓でなく木棺墓

 調査範囲は約32000uで
 あるが、遺跡の範囲は周囲の
 住宅地の範囲に及んでいると
 見られる。
               

245  木崎原古戦場
 (五回目)
 えびの市池島
    (三角田)
 2009.6.8
 九州の桶狭間、関が原とも呼ぶ
 合戦。日向伊東氏の衰退を決定
 づけた。
 元亀3年5月(1572)。真幸院の
 領地回復を図るべく伊東義祐は
 3000の兵でもって、飯野城
 島津義弘夫人の守る加久藤城を
 攻めさせるるが攻めきれず。
 飯野城より救援に来た義弘と、
 大口城より救援の新納忠元軍と
 激戦になったが、伊東軍の油断
 と、義弘の巧みな戦法により伊東
 軍は560余人もの討死だす。
 島津勢も260余の戦死だすが、     伊東勢は混乱し敗退。
246  都之城跡
 (都城歴史資料館)
 都城市都島町  2009.6.9
 「都城」の地名発祥の元となった
 由緒ある城。
 大淀川の左岸に位置し、本丸の
 西から南に十の小城を持つ縄張
 である。標高159m
 都城島津氏(北郷氏:ほんごうし)
 の居城。永和元年(1375)二代
 北郷義久築城、240年続く。
 元和元年(1615)廃城。

 発掘調査では、門跡や鍛冶場、 
 物見櫓跡、虎口などの遺構が
 確認されているが、埋められて
 曲輪跡以外遺構は殆ど見えな
 い。本丸跡は、お城風の資料館。
 大手門跡には模擬大手門が
 建築されている。
                 
247  一宇治城跡
 (伊集院城)
 日置市伊集院町  2009.6.9
 鉄丸城ともいう。
 鎌倉時代、紀四郎時清築城
 四代続く。
 其の後、伊集院氏歴代居城
 数代続く。
 天文14年「島津貴久」入る。
 天文18年ザビエル訪問、
 日本で最初の布教許可得た。
 公園化され手が加わった。
 神明城跡、釣瓶城跡、
 仲之平城跡、井戸跡、蔵跡
 多くの曲輪跡。
248  佐賀城跡  佐賀市城内  2009.6.17
 佐賀城跡、鍋島藩居城
 佐賀城は、竜造寺家の居城
 村中城を、鍋島勝茂が改修
 築城した。
 本丸曲輪跡は歴史資料館
 県庁も城内。
 遺構:水濠、石垣、土塁、
 重要文化財 鯱ノ門
 (門内にアームストロング砲)
 南側の濠越の風景は大変
 美しい。
                
249  八院合戦史跡 
         巡り
 (危機一髪 宗茂
 福岡県大木町
    横溝(堀田)
      上八院
      中八院
      上白垣
      五反田
 2009.6.17
 関ヶ原で敗戦した立花宗茂。
 慶長5年(1600)10月25日
 佐賀鍋島勝茂、柳川立花宗茂
 が存亡かけて戦った合戦。
 多くの史跡が残る。

 立花(戸次)右衛門大夫
               父子墓
 立花三太夫地蔵
 荒人神
 十時新五郎惟久墓
 猫橋(場所)
 地獄橋(場所)

 史跡は広範囲に点在。事前
 の下調べしていないと探すは
 一苦労。

 「宗茂」あわや玉砕の危機。
 加藤清正に救われる
                
250  三原城跡  福岡県太刀洗町
        本郷
 2009・7・14
 別名「本郷城」
 東西110m、南北150mの平城
 筑後三原氏の居城 
 祖は「三原弾正時勝」
 鎌倉時代の初め第十三代を
 高祖城「原田種直」の子「種朝」
 が継ぐ。
 原田氏は「多田羅浜合戦で」は
 南朝方に付きましたが、「大原
 合戦」では武家方として「少弐」
 へ従います。
 天正14年「三原紹心」が「岩屋
 城」で戦死。廃城となる。
 城跡の石柱は路傍にあって直
 ぐ確認できる。
 詰めの城跡は竹林ブッシュ。 
 内堀が残るとあるが確認でき
 なかった。
  記事は現地説明版参考。
 名前などは他の資料と異なる
 ところあり。
                

251  十時新五郎
     討死の地
   (八院の戦い)
 久留米市
  城島町五反田
 2009・7・16
 十時新五郎大神惟久
 旧柳河立花家家臣
 慶長5年10月20日(1600) 
 「八院の戦い」に出陣
 五反田で戦死
 若干17歳の青年武将
                
252  東福寺城跡  鹿児島市清水町  2009・8・4
 戦国大名島津氏の鹿児島での
 最初の居城。
 南北朝争乱期、北朝方の島津
 五代「貞久」は南朝方の東福寺
 城に籠もる、長谷場、矢上氏ら
 を激戦の末落とし、島津氏の鹿
 児島での拠点とした。
  長谷場氏はあの藤原純友
  四代後裔。
                
253  碇山城跡  川内市碇山  2009・8・4
 戦国大名島津氏創期の居城の
 一つとされる。
 「旧記雑録」という書き物の中に
 五代「貞久」の守護所あったと
 されている。

 現状は「碇山城跡」の碑と、
 小さな「保食神社」があるのみ、
 城跡は殆ど破壊され、宅地と
 荒地となっている。
  昭和の初期より石切り場で
  あったようだ。
                
 
254  木牟礼城跡

 出水市を戦国大名
 島津氏発祥の地と
 する根拠の一つと
 なった城跡
 出水市木牟礼  2009・8・5
 戦国大名島津氏の発祥の地が
 出水市である事の根拠の一つ
 とされる城である。
 島津氏初代「忠久」の家臣
 「本田貞親」の築城とされる。
 日向、大隅、薩摩の地頭職と
 なった「忠久」が三国監視の為
 代職として置いた。
 当時は、もっと広大であったと
 思われるが、現状は僅かに
 20坪程の台地が残るのみ。
 国道3号線より見える。
 屋地信号近く上り車線左手
 40m。
 
                
255  赤司地蔵
 (惨忍・隆信 @)
 みやま市高田町
 飯江 地蔵私橋
 2009・8・26

         

 肥後菊池「隈府城」赤星統家は
 嫡男新六郎16歳を人質として
 龍造寺隆信にだしていた。
 ところが臣従の姿勢を示さない
 統家を疑い、隈府城襲い8歳の
 娘も拉致する。
 隆信は惨くも兄弟を飯江川の
 竹飯川原へ引き出し磔にて処
 刑した。
 赤星兄妹供養の地蔵尊。
 「宗像氏・山田事件」と共に、
 戦国九州における最も惨忍な
 出来事。

   

256  蒲池氏百八人塚
 (惨忍・隆信 A)

 みやま市大和町
        塩塚

 龍造寺隆信は柳川城主
 「蒲池鎮並」を佐賀におびき
 出し謀殺。
 さらに隆信は柳川城の蒲池の
 残党狩りを徹底、蒲池一族の
 殲滅を計る。
 残党狩りに追い詰められた鎮並
 夫人など108人はこの地で自害
 して果てた。
                
 

257  国崩し実物
 (佛狼機砲)
 東京都千代田区
        九段
     靖国神社
 2009・8・29

       
 
 臼杵城址でレプリカは何度も見て
 きた。
 一度見たかった「国崩し」の実物
 ようやく目にする。
 400年以上経過した今も、殆ど損
 傷も無く保存されている。

258  引陣地蔵   太宰府市
     坂本3丁目
 2009・9・3  
 天正14年「高橋紹運」の岩屋城
 へ攻め上がった島津軍であった
 が、高橋軍の激しい反撃にあい、
 尾根筋より陣を引いたとされる。
 この地蔵尊は地元民が戦死した
 将兵を弔うために建立した。
                 
259  須古城跡  
   (高城)
   (隆城)
 佐賀県杵島郡
   白石町須古
 2009・9・14
 須古城は高城、隆城とも呼ばれ
 肥前杵島地方を支配した千葉氏
 の旗下「平井氏」の居城であった。
 その後平井氏は、有馬氏に下り
 有馬氏の東の備えとなった。
 須古城は佐賀白石平野の西に
 位置し、須古城跡の館跡には
 須古小学校が建ち、詰めの城は
 運動場に繋がる独立した低い
 岩山に築かれた城である。
 周囲 に土塁や水濠を巡らした
 要害で、西に杵島城、東に男島城
 と、是も低山の支城を配していた。
 永禄6年(1563)、龍造寺隆信は、
 有馬氏攻略を進める為、須古城
 「平井経治」攻めへ掛かるも、土
 塁や二重の水濠巡らし、膝まで
 埋まる湿地帯を回した須古城は
 容易に落ちず、天正2年(1574)
 の落城まで実に12年を要した。
 その後隆信は、思うように進ま
 ぬ有馬攻略に島原へ侵攻。
 「沖田畷」において、救援の
 島津の巧みな戦法に掛かり
 戦死する。
 須古城はこの頃隆信の日常の
 居城の一つとした。
 柳川「蒲池鎮並」謀殺も、この城
 より指示したと見られている。

 (余談)
  現地調査の時、登坂路や本丸跡
 は草を刈ったばかりで藪こぎも
 なく楽であったが、本丸跡と帰り
 の道で大きな「黒へび」二匹に
 遭遇。
 「黒へび」は攻撃性強く、鎌首を
 持ち上げたので石投げて撃退。
 黒蛇は食用にもなるそうだが、
 あちこちと山城探索したが蛇は
 はじめて、皆様夏場は要注意。


 
260  萩歴史散策   山口県萩市  2009・9・26
 萩歴史町並み
   木戸孝充生誕の地
   高杉晋作生誕の地
   日本道路100選
   萩城跡
   松下村塾
   松蔭神社
261  大内氏史蹟   山口市中尾  
 大内氏遺跡附凌雲寺跡
  永正10年(1507) 
  大内義興開基城砦兼ねた
  寺院跡
  惣門跡(巨大石垣・石塁)

 大内義興墓所
 
 山口市大殿大路
     上堅小路
 2009・9・27
 大内氏館跡
  正平15年(1360)
  大内弘世が是までの拠点
  大内御堀より移す。
  100間四方の巨大館跡
  発掘調査にて、遺構が確認
  されている。
   ・豊後石
   ・ザビエル布教跡井戸
  
  現在「龍福寺」敷地
  弘治3年(1557)毛利隆元が、
  築山館で討たれた大内義隆を
  弔うため建立。

   

 築山館跡
  大内館のすぐ北の位置
  大内教弘が居館として築く。
  以後歴代当主の居館
  大内義隆はこの館にて
  重臣陶晴賢の謀反にあい
  討たれる。

  現地
     八坂神社
     築山神社
  一部土塁が鍵の手に残る。

   
 山口市香山町
 瑠璃光寺五重塔(国宝)
   日本三大名塔の一つ
   嘉吉2年(1442)完成
   大内盛見が、応永の乱にて
   戦死した兄「義弘」の墓所と
   して着工。40年後完成す。

262  佐土原城跡   
 宮崎市佐土原町
   田島字追手
 2009・9・30
 現地、二の丸跡に「佐土原町
 歴史資料館」の「鶴松館」

 佐土原城は南北の山に挟まれた
 平地に館を、東の山上に詰めの
 本丸を構えた複合城。
 建武のころ伊東氏氏族田島氏の
 築城。
 建物遺構は残ってないが、山城
 としての、曲輪跡、石塁、堀切、
 井戸跡、枡形、土塁、各役所跡
 など残る。
 長く伊東氏の重要な支城であった。
 伊東氏の居城「都於郡城」が消失
 した後、居城となった。
 戦国末期、島津家久氏が入った。

 藩政時代は島津氏族3万石の城。
 
 
263  鹿屋城跡    
 鹿屋市北田町

 現地、城山公園
 鎌倉時代の築城と見られている。
 周囲2kmの広大な山城。
 幾つかの山を曲輪とした山城。
 如何せん公園化で手が加えられ
 遺構は確認できず。
 付近に大手町などの地名有。
 戦国末期鹿屋氏の居城。
 
264  猪鹿狼寺
 (いからじ)
 竹田市久住町  2009・10・24
 源頼朝は「富士の巻狩」のため
 阿蘇大宮司家「下野の巻狩」の
 作法を修得させるため二人の
 武将を阿蘇へ遣わした。
  その成果を試すため、久住山の
 南麓原野で巻狩を行い多く獲物
 を仕留めた。(現在の南登山口)
 猪鹿狼寺はその動物の霊の供養
 として頼朝が名付けたという。
265  柞原八幡宮  大分市上八幡  
 2009・11・6

 豊後一ノ宮
 御祭神  応神天皇 神巧皇后
        衷哀天皇
 天長4年(827)御告げがあり
 天長7年7月7日(730) 
   宇佐神宮より幡が飛び分社
 大友氏縁の神社
 
266  都於郡城跡
 (とのこおり)


 西都市都於郡
       高屋
 2009・11・16
 日向伊東氏の居城跡
 伊東氏は此の城を拠点に日向
 48城を築く。
 戦国初期の山城の特徴を色濃く
 残す遺構。
 大規模な空堀、土塁は見るべき
 ものがある。保存状態も大変良い
 遺構五城郭、井戸跡など。

 伝説:高屋山上陵

267  岡城址


 
 竹田氏下原
      天神山
 2009・11・20
 戦国期豊後大友氏譜代志賀氏の
 居城。
 藩政時代中川氏七万石城址
 阿蘇溶岩の岩山台地に築かれた
 難攻不落の城。
 天正14年青年武将「志賀親次」は
 巧みな戦法で島津義弘の大軍を
 撃退した。
 その特色は史蹟全域に見られる
 石積みにある。
 石の台地を巧み使い築城。
 優れた築城師の居た事が分る。
 
 名曲:滝廉太郎「荒城の月」の城

268  鶴丸城址  鹿児島市城山町  2009・11・25
 藩政時代薩摩島津氏の居城
 島津義久の養子となった義弘の
 子「島津家久」の築城。
 義弘は築城に際し、浜に近い
 此の場所は守りの面で不安が
 あると反対であったという。
 天守閣は築かれなかった。
 現代は歴史資料館「黎明館」や
 図書館がある。
 背後は城山。
269  伊作亀丸城跡


 日置市吹上
   (伊作)  

 伊作家島津氏居城
 島津氏第三代久経の次男「久長」
 が起こした家系。
 伊作地方を領地としたことから、 
 「伊作家島津氏」と呼ばれた。
 島津中興の祖「島津忠良」生誕地。
 城は鹿児島特有のシラスの台地の
 峰々を削り曲輪(薩摩では曲輪も
 〇△城などと呼ぶ事が多い)として
 西の曲輪を本丸亀丸城、東に蔵之
 城跡、山之城跡や他の曲輪跡が
 る。亀丸城跡には忠良や、義久ら
 の誕生石が幾つもある。

 義久
 義弘
 家久
 歳久

   生誕地 
270  亀ヶ城跡
 南さつま市
     金峰町
     田布施
   

 相州家島津氏居城
 島津氏第九代忠国の庶子「友久」
 の起こした家系。
 二代運久(ゆきひさ)が忠良の母と
 再婚したとき養子に入り第三代を 
 継ぐ。
 現在、城跡は「貴久」祀る「亀ヶ城
 神社」が建つ。

 
 貴久
   生誕地
271  泰平寺
  「秀吉本陣跡
  「島津義久降伏


 ※ ページ企画中
 薩摩川内市
    大小路町
 2009・11・26 
 薩摩征伐に「豊臣秀吉」が本陣を
 置いた寺。
 「根白坂の戦い」に敗れ降伏を決意
 した「島津義久」は剃髪、泰平寺の
 秀吉へ降伏した。
 現存する寺は後年再建されたもの
 であるが、境内に「和睦石」が残
 る。
 俣隣接する公園には「秀吉へ降伏
 する義久」の像がある。

  
272  花見ヶ城跡
 (出水城)
 出水市麓町
 元は「和泉氏」の持ち城。
 よって和泉城と呼ばれた。
 和泉氏途絶後は、島津十代忠国
 の弟「用久」が薩摩守名乗り「薩
 州家」起こす。
 「忠良」「貴久」の時代、当時の
 実力者「島津実久」の居城。
 現代遺構らしきものはない。
 全体が墓地となっている。
 出水小学校の南の山。

273  八並・吉原口の
         戦い
 吉原源内左衛門
      貞安の墓
 福津市八並  2009・12・1
 八並・吉原口の戦いは、天正11年
 3月、戸次道雪高橋紹運の両将
 が、宗像氏貞の支城「許斐山城」
 を攻めた戦いである。
 この時期、道雪と氏貞は和睦の
 盟約中であったが、しかし道雪の
 鷹取山への兵糧救援隊へ対する
 宗像若宮郷士の襲撃に端を発した
 「小金原の戦い」は氏貞への不信
 となり道雪は激怒した。
 このことがきっかけとなって吉原口
 の戦いとなった。
 この時地元の郷士「吉原源内」が
 道雪の臣「薦野勘解由丞」に討た
 れた。
 源内の墓が許斐山吉原口登山道
 の入り口から人家を過ぎた辺りの
 左手の高台にある。
274  田原紹忍の墓
        探索
 大分市一尺屋
       上浦
 「若林水軍の碑」


 大分市佐賀関
  大字関
     字上浦

  
 2009・12・2
 田原紹忍は主君の「大友義統」が
 改役となって後は、岡城中川家の
 与力として召抱えられた。
 旧君「義統」が「小石原の戦い」に
 走ると、紹忍も馳せ参じた。
 しかし、本来胆略的な紹忍は、また
 しても失態をさらす。
 事もあろうに、中川家に無断で同
 家の旗印(紋旗)を掲げた。
 この行為は中川氏への徳川家康の
 不信を招く。この疑いを晴らすため
 中川秀成は、西方の臼杵城「大田
 一吉」を攻めるため軍を動かす。
 是が「佐賀関の戦い」である。
 しかしまた、紹忍の取った焼き討ち
 戦法が住民の反感を招く。
 大田一吉の猛攻の前に中川家の
 重臣の多くを失う。
 そして遂に紹忍も戦死となった。
 墓の場所は情報少なく、上浦町に
 あるとの情報でとりあえず一尺屋
 の上浦町(旧佐賀関町内)を訪問
 した。海岸の道路沿いに二の石碑
 があった。
 大振りで一部字も読めるが、風化
 が進んでいる。
 後の調査で分ったが、一尺屋は
 大友「若林水軍」の本拠地で、水
 軍に関するものであった。


 佐賀関の町内にも上浦(うえうら)
 という所があるのでそこも確認しな
 いと。
 佐賀関大字関は紹忍が放火した
 「早吸日女神社」のある場所。
 
豊後国史にも記述がある。

275  
 和気神社
 「和気清麻呂」
     追放の地
 霧島市牧園町
    下中津川
 2010・1・2  
 僧「道鏡」の陰謀を排除した「和気
 清麻呂」いわゆる「宇佐八幡宮神
 託事件」に関して、僧道鏡の怒りを
 かい、一時追放され着いた所。
 大隅国犬滝に造営された神社。
 清麻呂の危機を救ったとされる白猪
 二頭が飼育されている。
 この神社は、足腰の病にご利益が
 あるという。
 足腰に不安を抱える管理人にとっ
 ては良い初詣でになった。
276  熊襲の穴
 日本武尊
 霧島市隼人町
     妙見温泉
 2010・1・2  
 「川上梟師(カワカミタケル)」を首領と
 する熊襲の住んだ穴(広大な洞窟)
 熊襲征伐に来た「日本武尊」は女装し
 て首領に近づき殺害する。
 日本武尊の「武(タケル)」は、熊襲の
 首領「タケル」より貰ったとされる。
 
277  霧島神宮  霧島市霧島田口  2010・1・3
 初詣
 御祭神:天孫(天照大神の孫)
 「天津日高彦火瓊瓊杵尊」を御祀り
 する神社。
 参拝は三度目であったが、巨大な
 鳥居に、杉の大木林を進む参道に
 そして佇む社殿は、神々の息吹を
 感じさせる。

278  篠山城址
 (久留米城)
 久留米市篠山町  2010・1・28
 初代有馬豊氏より十一代続いた
 有馬氏21万石の居城跡。
 北西側は濠代わりの大河筑後川が
 流れ、東と南に水濠回した平地城
 遺構として石垣、濠等。
 本丸跡は篠山神社
279  姫岳
 (姫岳の戦い)





 ・田原紹忍墓調査
 臼杵市・津久見市
 市境





大分市佐賀関
  上浦(うえうら)
 2010・2・16
 「大友持直」の篭った山城。
 臼杵市野津町乙見より、鎮南山林道
 より、姫岳目指す。
 林道は無舗装、大変な悪路。遂に
 車の下が支えだした。
 やむ終えず引き返す。
 何とか遠く頂上山容の写真だけは
 撮れた。


 佐賀関上浦一帯を歩いて調査。
 最終的に佐賀関支所を訪れ、
 情報を得たが、道路工事で取り払
 われ現存しないそうだ。 残念。

280  根白坂古戦場  宮崎県
   児湯郡木城町
 2010・2・22
 島津義久が豊臣秀吉に降伏する
 きっかけとなった戦いの場。
 木下秀長の大軍に、島津義弘が
 奇襲をかけたが、突撃隊の殆どが
 討ち死する。
 この戦いで、島津歳久の婿養子で
 ある「島津忠隣」の戦死に当主の
 義久は戦意喪失、降参する。


281  騎牟礼城跡
 (志賀氏旧址)
 大分県竹田市
       鹿口
 国道442号沿い
 2010・3・14
 豊後国岡城「志賀氏」の旧址。
 乱暴狼藉のため豊後にながされた
 鎮西八郎源為朝の築城とされる。
 豊後における最古級の山城跡。
 東西450m、本丸跡など五つの曲輪の
 連なる山城跡。
 標高380m、比高40m
 360度眺望のきく城跡。久住、阿蘇
 祖母、傾連山一望できる。すばらしい
 ロケーション。
 大友氏の下向と共に豊後入りした
 志賀氏の居城となったが、1379年頃
 召し上げられ、岡城へ移ったとされる。

 
282  大内盛見首塚   糟屋郡粕屋町
        酒殿 
 2010・3・29
 粕屋町「徳鳳山崇月院泉蔵寺」
 永享2年(3年とも・1430)九州北部の
 覇権を狙い筑前に侵入した大内盛見
 は、一端立花山城奪うが、大友持直
 の反撃受け怡土郡深江で豊後大友
 軍と戦い盛見戦死。
 家臣の杉孫右衛門」は盛見の首を落
 とし糟屋郡まで持ち帰り丁重に洗い
 一宇を建立弔った。
 其れが泉蔵寺である。寺名は盛見の
 戒名に由来する。墓は寺の厨裏の裏
 手にある。
 
 杉氏は大内氏の御家人で高鳥居山
 城(現・岳城山)を筑前の拠点として
 いたのでこの糟屋一帯を領していた
 と見られる。
283  玖島城址  長崎県大村市
        玖島
 2010・3・31
 大村藩2万7千石の城址
 慶長4年(1599)大村喜前築城
 本丸跡には大村神社
 遺構 石垣、濠跡。大手口、虎口
 桝形等残る。
 公園ととして整備され2000本もの
 桜に、濠跡の花ショウブの名所。
 大村氏は日本最初の切支丹大名
 大村純忠を出した家系。

284  山鹿城跡  芦屋町山鹿  2010・4・3  
 源氏平氏の戦いの末期、安徳天皇を
 奉じ太宰府に逃れた平氏は、豊後国
 緒方三郎惟栄に襲われる。
 安徳天皇は山鹿城「山鹿兵藤治」に
 迎えられ御在所へ入る。しかし、この
 山鹿も安寧の地とはならず、豊前柳ヶ
 浦へ、さらに屋島へと逃避する。
 城址は公園。

 
285  猫 城跡  中間市底井野
 宗像氏貞の端城
 天正8年頃戸次道雪の指示により
 鷹鳥城「森鎮実」が攻め込んだが
 鎮実は道雪との手筈を違え敗退する。
 現在城址は月瀬神社。

286



 飯盛山
 少年白虎隊
   自刃の山


 福島県
 会津若松市飯盛
 2010・4・21
 慶長4年(明治元年・1868)鳥羽伏見の  戦いに端を発した戊辰戦争の最中の
 同年8月23日、城下の火の手に城の
 落城と見誤り自刃した会津藩白虎隊
 士中二番隊19名が自刃した悲劇の
 場所。
 自刃した白虎隊士19名の墓。
 隊士が腰までつかり戸の口原より脱出
 した水路隧道「戸の口洞穴」等在る。


 会津若松城址
 (鶴ヶ城址)

 福島県
 会津若松市

 会津保科松平家23万石の城址
 譜代大名の中でも最も有力な藩
 戊辰戦争での戦いでは官軍の猛
 攻に一ヶ月以上の篭城戦を戦った。
 遺構:本丸・茶室など復元
     水濠、土塁、石垣、枡形、
     出丸など。

 
289  日光二社一寺
   東照宮(4回目)
   二荒神社
   輪王寺
 栃木県日光市  2010・4・22  
 豪華な徳川文化を伝える世界遺産
 である。
 が、神聖な参拝の場所と云うより今
 では歴史遺産売り物のの観光地。
 現在の社会で最も商売上手は有名
 宗教法人かも知れない。
 あの手この手で庶民の信仰心、災
 難不安心を煽りくすぐる。
 日光は今回で4回目だが、
              「もうけっこう」
 
290  長宗我部元親像
 
 高知市
    若宮八幡宮
 2010・8・1
 高知市の若宮八幡宮の一角に戸次川
 の戦いで多くの討死者出した長宗我部
 の説明版、戦死者刻銘した銅版。
 元親初陣像建っている。

291  高知城
 
 高知市   2010・8・3
 国宝の高知城本丸、二の丸、三の丸跡  石垣、堀、山内一豊騎馬像

292  大山祗神社 
 
 愛媛県大三島町  
 日本総鎮守:大山積神社ともいう。
 古くより武将の信仰厚く。源頼朝、
 源義経、平重盛らからの太刀、鎧が
 奉納され多くが国宝。あの有名な
 義経奉納の「赤糸威鎧」もここにある。
 瀬戸内海賊三島村上水軍の守護神
  三島村上とは
     ・能島村上
     ・因島村上
     ・来島村上
 
293  
 村上水軍
    因島村上氏
       水軍城
       水軍墓地
         

 広島県 因島
       中庄町

 戦国時代日本最強の海賊武闘水軍
 村上氏の往時を偲ばせる因島水軍城。
 観光目的に復元した城と見られる。
 近くの寺に水軍墓地がある。こちらは
 本物。
 本来の因島村上氏の城はやや北に
 あった青影城であった。
 天正期の城主は村上吉充。
 総領は能島城主:村上武吉


293

 唐津城址 

 唐津市

 2010・10・19

 文禄4年(1,595)寺沢広高によって
 築かれた。
 城の場所は戦国期松浦水軍の拠点
 の一つだったところとされる。
 当初は名護屋城の後詰めの城として
 築かれたらしい。
 その後寺沢氏は関ヶ原の功績で
 12万石を拝領し城を強化した。
 石材は名護屋城から運ばれたという。
 寺沢氏は天草4万石も領していたが
 天草の乱の責任を負い二代堅高が
 自害、寺沢家は終わる。以後5回も
 城主が変わり、最後は小笠原氏が
 幕末まで続く。
 現代の天守閣は、観光目的で築造
 したもので完全な復元城ではない。



294

 名護屋城跡  

 唐津市鎮西町
       名護屋
 2010・10・28
 久しぶりの名護屋城跡
 石積みは荒々しい。この城を僅か
 一年で築造した秀吉の権力の巨大
 さを改めて感じた。


295

 関ヶ原決戦場

 岐阜県不破郡
      関ヶ原
 2011・8・24
 天下分け目の戦い「関ヶ原古戦場」
 慶長5年(旧暦)9月15日
 美濃国不破郡関ヶ原に於いて西軍
 石田三成率いる82,000に、東軍
 徳川家康軍74,000が激突した合戦。
 序戦は西軍三成方優勢であったが、
 傍観していた小早川秀明の大軍が
 寝返ったことで形勢が一気に徳川へ
 傾き西軍総崩れとなった。
 激戦地近くに、合戦の様子を再現した
 「関ヶ原ウオーランド」がある。

296

 松本城

 岐阜県松本市

 2011・8・25

 日本最古の木造天守閣(国宝)
 小振りの城であるが美しく黒造りの姿
 から別名「烏城」と呼ばれる。
 永世元年(1504) 小笠原長棟によって
 築城されたという。
 天守閣は見物できる。
 

297

 石見銀山跡

 島根県太田市

 2013・10・11

 中世日本を代表する銀山跡
 600を超える間歩(坑道)が残る。
 1526年九州の博多の豪商神屋寿偵
 により発見された。
 膨大な量の銀が輸出され銀山王国
 とまで呼ばれた。
 2007年世界遺産登録。
 

298

 松江城址
 
 松江市

 2013・10・12


 国指定重要文化財
 戦前は国宝
 1611年(慶長16年)
 24万石領した堀尾吉晴により完成。
 後に京極忠高氏26万石さらに
 松平直政氏18万6千石と変遷。


 


299


 千畳閣  広島県
  宮島
  2015・4・9
 豊臣秀吉が天正15年(1587)に
 安岡寺恵瓊に命じ戦死者を弔う大
 経堂として建立されたが、豊臣秀吉
 が死んだため未完成に終わった。
 857畳が敷けることから通称千畳閣
 とよばれる。
 平安時代の豪壮な建造物。
 


                                    トップへ