神代三代御陵

      日本の古代史は九州を起源とする。南九州には皇祖三神の御陵があります

     「皇祖神の系譜(参考・古事記)」黄泉国(よみのくに・穢き国・きたなきくに)より黄泉比良坂
     (よもつひらさか)を越え現世に戻った「伊邪那伎命(いざなぎのみこと)」は「竺紫(つくし)
     の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきがはら)」にて禊ぎ祓いを
     行い、身に着けた物を脱ぎ捨てるたびに十二の神々がお生まれになる。そして左の御目を洗った時
     成せる神が「
天照大神(あまてらすおおのかみ)」である。
     右の御目を洗ったとき成れる神が「月讀命」、御鼻を洗った時成せる神が「建速須佐之男命(たけ
     はやすさのうののみこと)」である。
     天照大神が左の髪につけた八尺(やさか)の勾玉(まがたま)の五百箇(いほこ)の珠(たま)を
     天   の眞名井(あめのまない)で漱ぎ噛みに噛みて、吹き棄つる気吹きのさ霧に成れる神が、
     天照大神の子「
正勝吾津勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこ
     と)」である。 天照大神は「忍穂耳命」に対し、「豊葦原中つ国が騒動しいので、天降って平ら
     知らしめせ」と申された。これに忍穂耳命は、僕(あ)は降りはしない。僕(あ)には子供が生ま
     れました、名を「
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめにきしくににきあまつひこひ
     こほのににぎのみこと)」と云います。この子を降ろすべしと仰られた。(「邇邇芸命」は天照大
     神の孫になることから「
天孫」と呼ぶ。)
     この子は、忍穂耳命と高木の神(たかきのかみ)の女(むすめ)「萬幡豊秋津師比賣命(よろずは
     たとよあきづしひめのみこと)」御合(みあい)して生まれた子である。
     「邇邇芸命」は「
猿田毘古神(さるたひこのかみ)」に警護と先導され、竺紫の日向の「高千穂の
     くじふる嶺(たけ)」に天降った。「
天孫降臨」である。(高千穂の嶺とは、どのような場所なの
     か特定されていない。瑞穂の国と言われるように、稲作中心の古代国家の思想より、高く積み上げ
     た稲穂の山を指すとする説もある)只誤解してはならないことは、天照大神の国「高天の原(たか
     まのはら)」は天上にあったとは限らないことである。むしろ地上にあったと解する方が記紀の記
     述などより、より史実に近いと解釈される。
     さて、邇邇芸命は笠沙の御前(みさき)と云うところで、麗しき美人(おとめ)「神阿多都比賣
    (かむあたつひめ)」亦の名「木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやひめ)」と出会う。そして一宿
     婚(ひとよまぐわい)にて生まれた御子は「火照命(ほでりのみこと・隼人阿多君祖・海幸彦)」、
    「火須勢理命」、「火遠理命(ほおりのみこと・山幸彦」亦の名を「
天津日高日子穂穂手見命(あま
     つひこひこほほでみのみこと)」と云う。 穂穂手見命は、兄「海幸彦」の「鉤(釣針)」失い責め
     られる。嘆き悲しみの中「鹽椎神(しほつちのかみ)」に海神の所へ行くよう教えられる。そこで
     山幸彦は海神の女(むすめ)「豊玉毘賣命(とよたまひめ)」と逢い三年過ごす。そして「
天津日
     高日子波限建鵜葺草葺不合命
(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」が誕生す
     る。そして「鵜葺草葺不合命」と姨(おば)「玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)」の御子とし
     てお生まれになるのが「
神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)」即ち「神武天皇
     である。

     九州三山陵(九州神代三代御陵)とは、この神々のうち「
邇邇芸命」「穂穂手見命」「鵜葺草葺不
     合命
」の御陵を指す。


   「
可愛山陵(えのさんりょう)エノヤマノミササギ」
        
    「天邇岐志国岐志天津日高日子番能邇邇芸命」の御陵(天孫
            川内市御陵下町「新田神社」の裏手に鎮座

            場所は、川内市外地の北「川内川」の右岸側「神亀山」という小山
            の頂上にある。隣接する「新田神社」の本殿右脇の路地をいると右に
            宮内庁の事務所のある先。
            「川内」の地名は、邇邇芸命が千台(千個の城壁)を築いて皇居を構
            えた事から「川内(せんだい)」と呼ぶようになったとも言う、
       
            管理:宮内庁書陵部桃山墓陵監区 可愛部事務所
            明治7年7月御陵に指定
            尚、皇霊は「霧島神宮」に祀られている。

            尚、宮崎県北川町俵野「可愛岳(727.7mm)」麓に明治29年に宮内庁
            により「邇邇芸命」の墓陵参考地に指定された、墓陵伝説地がある。
            下記参照。


            
                 
可愛山陵 (川内市宮内町新田神社内)

   「
北川墓陵参考地地元は可愛山陵伝説地と呼ぶ)」
           
宮崎県延岡市北川町俵野
           この塚は、地元民が藩政以前より「邇邇芸命」の墓陵伝説地として
           手厚く保護してきたところで、明治7年明治政府が鹿児島県川内の
           新田神社にある「塚」を墓陵に指定した時、これに広く史家らは強
           く反論。
           宮内庁はこれに抗しきれず遂に明治29年「北川墓陵参考地」とした
           経緯がある。
           宮内庁は、明治16年職員二人が調査「日向の挨(エ・アイ)の山陵」
           は、日向国臼杵郡長井村俵野門にある」としている。真実味がある。

         (注)「北川墓陵」は「可愛岳」の麓にあるが、近くに「西郷隆盛宿陣跡、
            児玉邸」がある。「西南の役」西郷は、「和田越えの戦い」に破れ、
            薩摩への退却にこの「可愛岳」を600の残兵で突破、途中遭遇した
            政府軍を壊滅し、故郷薩摩へ向かった。

            
                 
北川墓陵参考地(延岡市北川町俵野)


   「
高屋山上陵(たかやさんじょうりょう)タカヤノヤマノエノミササギ」
        
   「天津日高日子穂穂手見命」の御陵(山幸彦
           「山幸彦」伝説の命として知られている。
           霧島市溝辺町(橋の口・神在りの岡)鹿児島空港近くR504沿い
           管理:宮内庁書陵部桃山墓陵監区
           明治7年7月御陵に指定
           尚、御皇霊は「鹿児島神宮」に祀られている。

            場所は、九州自動車道を鹿児島県に入り、「溝辺P]を少し過
           ぎた右手に見える山である。国道504号の傍、アクセスは良い。
           私が訪れた時、宮内庁の方が居られて、資料を戴き詳しいお話を
           も伺えた。
           この地は、「神在りの岡」あるいは「神割の岡」と呼び、陵域は
           53000uあって、立ち入りは出来ない。
           上古より室町時代までは頂上に「鷹屋大明神」と云うのが在った
           そうである。
           御陵は拝所より60mほど高く、200m行った所にあって円墳という。
           (一部に、この御陵を前方後円墳としたものがあるが、間違いと
           断言された)
           明治2年12月より翌年3月のかけ、確認の発掘調査が行われ、盗掘
           されていたが、石組みが残り奥にも小さい円墳が有るそうである。
           また、西から北にかけ麓に「神護石」が残り参道より見える。
           明治7年、「日本書紀」の「高千穂の西、高屋の山の上に葬る」の
           記述や「古事記」の記述、伝承や位置関係から「高屋山上陵」と
           指定された


            
                  高屋山上陵 排所全景(霧島市溝辺)
                    御陵は、背後の山「神在りの岡」60m上にある


  
      都於郡城跡:伝説高屋山上陵 (西都市都於郡高屋)

                都於郡城跡は日向の盟主であった伊東氏の古城跡である。
                地名も高屋と言い、地元では此処こそ高屋山上陵であるとしている。
     

               
                        
                      大手口標柱には、都於郡城本丸跡。伝説高屋山上陵とある
                                     背後は曲輪跡の斜面崖



              検索すると、都於郡城跡の情報は結構多い。しかし「高屋山上陵伝説地」を取り
              上げたものは殆どない。。公式の神代三代の御陵は全て鹿児島県内にあって、
              北川墓陵参考地でも述べたように、これは当時明治政府内で権力握っていた
              政府が決めたものである。
              この「都於郡城跡」のある地名は西都市高屋という。此の都於郡城址こそ宮崎の
              史家が「彦火火出見尊」の陵「高屋山上陵」という伝説の地である。
              現在は本丸の中の林に「傅説高屋山上陵」の標柱が建つのみである。唯、本丸
              曲輪跡の中央に奇妙な板碑群がある。説明がないので何なのか分らないが、な
              にか宗教的な意味があるようにも思える。一見して近世のものでは無い。
              二代「伊東祐重」は此の城築城の折、上陵を発掘し出土品を近くの「一乗院」へ
              納めたとされる。上陵として何らかの関係があるのものなのか ?。

                  
                   高屋山上陵伝説地標柱        本丸跡の中央にある石柱(板碑)、上陵跡


   「
吾平山上陵(あいらさんじょうりょう)アイラノヤマノエノミササギ」
           
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」「神武天皇父君の御陵
           皇霊(ミタマ)は「鵜戸神宮」に祀られている
           鹿屋市吾平町
           管理:宮内庁書陵部桃山墓陵監区
           明治7年7月10日墓陵に指定

            場所は、鹿児島大隈半島の中央部、肝属川の支川「吾平川」の
           上流山紫水明の地にある。御陵のある山を「鵜戸山」という。
           日本でも有数の美しい御陵と云う。御陵域は 9,35hr 。
           この御陵は、吾平川に迫立つ鵜戸山の岸壁、岩清水の落ちる奥の
           「岩窟」の中にあって広さ 3a(100坪)
           「窟内」には大小二つの塚があるという。大きい方が「父神」小
           さい塚が「母君」の陵とされる。

                  
                             吾平山上陵 (鹿屋市吾平町)
                         手前は、吾平川に架かる参道橋。背後の崖はおよそ40mほどか
                                  御塚は、鳥居の奥の窟内にある
                                  参道橋は一般人立ち入り禁止





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