島津 貴久

       
日新斎と貴久

        「島津忠良・貴久親子の薩摩統一への軌跡              

    島津氏は、源頼朝の御家人「惟宗広言」が日向国諸縣郡「島津荘(現都城)」の下司職に任じられ嫡男「忠久」が
   島津荘を領し島津氏を名乗った事に始る(惟宗忠康の子孫とする説も有力視される)。
   薩摩への下向は建治元年(1275)のころ、北部九州警護の任務を契機とされる。最初に島津氏が居を置いたのは
   出水市、都城市と二説があるが、都城市には「祝吉御所」と云う島津氏が最初に政治を執ったとする史跡が残る。
   一方出水市には五代までの墓と、島津氏が最初に築かせたとされる「木牟礼城跡」が存在する。しかし両地とも確
   実な根拠には乏しい。

   戦国大名「薩摩島津氏」が成立するまでには様々な混乱があった。島津氏には歴代当主交代の過程において、
   多くの分家「島津氏」が発祥しその家系は複雑である。同族相争うことがが続き、宗家の全薩摩掌握は容易には
   ならなかった。
   この永い家系の混乱を収拾し、薩摩国の統一を成したのが「
島津忠良(愚谷軒日新斎・ぐこっけんじっしんさい)・
   島津貴久
」親子であった。
   島津氏には「奥州家島津氏」「伊作家島津氏」「薩州家島津氏」「相州家島津氏」「総州家島津氏」等々他にも多く
   の分家島津氏の家系があった。
   「忠良(日新斎)」は「島津中興の祖」と呼ばれ「伊作家島津氏」の家系である。よって「伊作忠良」とも呼ばれた。
   「伊作家」は島津宗家第三代「久経」の次子「久長」が日置郡伊作庄を領した事に始まる。父は「善久」、母「常盤」。
   明応元年(1492)生誕。幼名「菊三郎」。
   伊作家は「忠良」三歳の時、父「善久」が不慮の死。九歳の時祖父も戦死し、在郷領主等の標的となる。この苦境
   に常盤は、相州家「島津運久(ゆきひさ)」に援助を要請する。島津運久は伊作支援の一方、密かに思いを寄せて
   いた未亡人の常盤に結婚を申し入れる。この時常盤が策をめぐらす。再婚の条件に、嫡男菊三郎(忠良)を何れ
   伊作家、相州両家の当主とすることであった。
   こうして菊三郎(忠良)は、永正3年(1506)元服して「忠良」と改め伊作家島津氏を相続。さらに永正9年(1512)、
   運久と母常盤の約束通り相州家島津氏両家の当主となる。
「忠良」21歳の時に居城を吹上の「伊作亀丸城」より
   金峰田布施亀ヶ城」へ移る。正室に「島津成久(系図上に見いだせない)」の女「寛庭」を迎える。
   永正11年5月5日(1514)亀ヶ城にて嫡男「虎寿丸(のちの貴久)」誕生する。
   忠良は大変に聡明で、伊作、相州両家の領地、家中をよく治めた。

   このころ「薩摩島津氏宗家」は十二、十三代と当主が次々早世し、十四代当主は「十一代忠昌」三男「忠兼」が
   継いだが、宗家の力の衰退と若年の忠兼には国内を抑えることができなかった。
   この苦境に忠兼は、分家「薩州家島津氏」の実力者出水「花見ヶ城」の「島津実久」の姉を正妻に迎え「実久」の
   武力に頼る。宗家の後見となった「実久」は思うが侭に権力を振るい、あげくには忠兼に自分を世継ぎにと迫った。
   強引な実久に忠兼はついに妻を離縁、実久と決別する。この宗家に「実久」は武力で攻勢、「忠兼」を追放し自ら
   守護と称する暴挙に出る。
   忠兼は実久と対峙するため、文武に優れ人徳のある「相州家忠良」に後見を要請。忠良は是を受け入れる。この
   宗家との関係を忠良は逃さなかった。嫡男「貴久」を宗家「忠兼」の養子(世嗣子)として送り込むのである。
   大永6年11月27日(1526)「島津貴久」13歳で元服。宗家「島津氏」第十五代当主「守護職」を次ぐ。
   「忠兼」は伊作城へと隠匿。忠良に「貴久」の国政への後見を託す。是を受け忠良は33歳の若さで剃髪「愚谷軒
   日新斎」と号し、嫡男「貴久」に薩摩島津氏の将来を託すことになる。
   この時の忠良の策略は母「常盤」譲り、あるいは指南であったやも知れない。 時代が変わる時、自身が身を投
   げうつとき、それを好機と捉える、こんにちでも評価できる資質を伊作家一族は備えていたのではなかろうか。 
   このことは「貴久」以後分家の「伊作家島津氏」が、以後累代宗家として薩摩国を担うことになる歴史的転換への
   発端となった。 

   「貴久」の守護職継承には実力者「島津実久」が強固に反発、忠兼と貴久の養子縁組の解消を迫る。
   大永6年6月5日(1527)実久は兵を挙げ忠良親子を攻めるも、この時は忠良、貴久は子これを撃退する。しかし
   実久は領内郷士たちをつかい「一宇治城(伊集院城)」谷山城など忠良の拠点を次々と攻略。鹿児島(清水城)
   に居た貴久に守護返上を迫る。孤立無援と成った貴久は徹底抗戦を決意するが、家臣らに諭され、夜陰に紛れ
   僅かな手勢で鹿児島脱出、「亀ヶ城」へ落ちのびる。忠良は間をおかず忠兼の配下の守る本来「伊作家」の居
   城である「伊作亀丸城」を奪回し拠点とする。
   貴久の引いた鹿児島には忠兼が実久に迎えられ帰還、名を「島津勝久」と改め守護職へ復帰する。
   以後、「勝久、実久」と「忠良、貴久」間の島津同族の争いは続く。この薩摩島津氏の混乱は10年に亘り、両者の
   和睦させる話もあったが勝久納得せず談合はならなかった。
   この混乱のなか、忠良、貴久親子は居城伊作亀丸城において忍従の中、所領の防衛、体制の強化に努めた。
   天文7年3月27日、忠良、貴久親子は日置城、永吉城、と落とし反転攻勢にでる。
   忠良、貴久親子が反転攻勢へ着々と体制を強化するころ、 宗家では家臣を巻き込んだ混乱も発生、「勝久」、
   「実久」の間にも軋轢が生じ両者は武力で衝突する。敗れた「勝久」は帖佐へ退き、「実久」が鹿児島を占拠する。
   一方、忠良、貴久軍は実久の手にあった谷山城を鎮圧。一宇治城(伊集院)などを攻略した。
   天文8年朔月(1539)には、「実久」方の抑えていた南薩摩の拠点「加世田別府城」で実久軍を撃破する。
   勢いづいた忠良親子は、実久の弟「忠辰」の守備する「市来鶴丸城」を下し、「島津実久」は降参する。
   「島津貴久」は鹿児島へ復帰「守護職」を回復するのである。
   「勝久」は最後まで貴久へ対抗するが既に体制は決しており、自信ををなくした勝久は薩摩を去る。
   こうして「忠良貴久」は、多くの島津氏分家が乱立、一族相争い薩摩国内統制さえ成らなかった混乱を治め、
   戦国大名「島津氏」を成立させた。

    (余談)
     「島津勝久」は豊後の「大友義鑑」を頼ったという。勝久は豊後では「浜の市」に住んだとされている。
     浜の市とは、日本三代「浜市」の一つで毎年8月、府内の西「生石」で開催されていたので、勝久は生石に
     居住したのであろう。
     また、豊後に沈んだ島「瓜生島伝説」と云うのがあってその島の絵図が伝えられている。島の西端付近に
     「勝久塚」が描かれているのも面白い。但し、瓜生島伝説はこん日の研究では、実話でなく架空の伝説と
     とらえられている。
     其の後の「貴久」は、伊集院「一宇治城(現地説明版には天文5年(1536)、天文14年(1545)と二つの
     説明書きがある」へ入り薩摩国内整備に手腕を振るう。
     天文18年9月29日(1549)薩摩に入った「ザビエル」はこの城にて「貴久」に会見し、日本で最初の布教を
     許されたという。
         
         一宇治城(伊集院城)本丸神明城跡               井戸跡

    天文19年「貴久」は伊集院より鹿児島に移る。それまでの宗家島津氏が居城としていた「清水城」に変
    え新たに「内城」を築城本城とし、本格的に三州統一へむけ本格的に動き出す。
    天文23年10月1日(1554)には、西大隈の雄「蒲生範清」の支城「岩剣城」を落とし、弘治3年(1557)に
    は「範清」を降参させる。
    「貴久」は元亀2年6月23日(1571)57歳でこの世を去るが、其の子息「義久」「義弘」「家久」「歳久」の
    四兄弟は祖父「忠良」、父「貴久」の悲願であった南九州三国統一(三州統一)へむけ、目玉しい活躍
    をするのである。
    そもそも三州統一を島津家の悲願とするは、1185年「源頼朝」より、初代「島津忠久(惟宗忠久)」が
    「薩摩」「大隅」「日向」三国にまたがる島津荘の「下司職」に任じられことによるものである。
    この三国にまたがる地頭職も、1203年一旦北条氏により停止され、ようやく1213年薩摩国の地頭職を
    回復するが、大隅、日向は回復できなかった。このことが島津家が三州統一に拘る所以である。


    ・ 元亀3年5月(1572)には、木崎原(えびの)において日向国「伊東義祐」軍を破り、伊東氏は急速に
      衰退する。天正6年(1578)には、伊東氏支援の大友氏の大軍を「耳川(高城)の戦い」に撃破し、
      日向国を制圧する。

    ・ 元亀2年6月23日(1571)「島津貴久」57歳にて没す。家督を継いだ「島津義久」は天正2年には大隅
      半島を支配してきた「高山城」の「肝付兼亮」を降参させ領地を没収。
      島津氏は草創期、大隅守護職を任じられいたこともあったが、権限はなく名目のみであった。、
        
    ・ 天正5年(1577)には「島津義久」は「肝付兼道」を薩摩阿多に僅かな土地与え移す。こうして遂に
      三州統一を果たすのである。

                                     参考資料  各所現地案内
                                             南日本新聞(三木 靖氏 寄稿

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