選士育む原野
                「九国弓馬術の原点:豊後国 大野・直入の原野
                「選士(せじ・せんし)」とは平安時代初期、筑紫大宰府に
                置かれた九州辺境警備の兵士をいう。 
                その軍事制度を「選士統領制(せじとうりょうせい)」という。


      我が国の古代律令国家は、国民を奴隷のように支配し、成人男子の三人に一人は兵士に徴用され、国家の守備と
     治安維持、一部有力支配者の利益確保に当らせた。中でも農民にとってこの軍団制は重たい負担を強いられた。
     兵士らは、軍団を管理する役人達の私役にも使われたため、農民には耐え難い苦しみであった。
     このため延暦11年(792)「桓武天皇」の時軍団制度は廃止され、新たに「健児の制」が成立。 諸国有力者の男子を
     健児こんでい)として地方国府重要施設の警備に当らせた。ところが九州は「地これ辺要(辺境の要害)にして、備え
     なかるべからず」として除外された。このため九州の兵、農民らの苦しみは続いた。名前は兵士だが、実は役夫(人夫
     ・にんそく)と同じで、体が疲弊し兵の役にはたたない事態であった。
     類聚三代格(るいじさんだいきゃく)は、「兵士の賤(せん・身分)は奴僕(ぬぼく・下男)にことならず」と九州の兵士の困
     窮振りを伝えている。これを改善するために設けられたのが、九州各地の辺要警備につくられたのが「選士・選士統
     領制
」なのである。

     「選士」は大宰府に属し、九州各地の「富鐃遊手(ふにょうゆうしゅ:豊かに苦のない生活おくる人)」の男子1720人を
     選び「選士統領」の下、4交替30日間、大宰府国府の施設警備に90日勤務させる制度である。選士は庸(よう:現物
     租税を免除され、中男(ちゅうなん:十代後半の男子)3人の使役が許された。選士には勤務中、米一升五合、塩二杓
     が配給されたという。
     そしてこの選士の中核となったのが、豊後大野郡、直入郡の者達であった。類聚三代格には「豊後国大野直入両郡、
     騎猟の児だし、兵において要となす
」と伝える。また、直入郡には官の牧(官営牧場)があって古くより、大野直入地方
     では、馬の飼育、馬役の仕事を生業としていた。この大野直入の原野で弓矢射ちに長け馬を乗り回し狩猟を行う人々
     を、大宰府警備の兵に組み込み、豊後選士の巧みな馬術、弓矢射ちの技術を広めようとしたのである。
     余談であるが鎌倉時代「源頼朝」は、富士の牧狩りの再現に、九州阿蘇の原野にその技術習得の為「梶原景高、新
     田某」の二名を使わした。阿蘇の牧狩りは「阿蘇大宮司家」が支配し数千人規模の大掛かりなものであったとされる。
     帰路、二人はその成果を試すため「久住山」の麓の原野で土地の人の介添えを得て牧狩りを行い、多くの獣を獲った
     という。  その場所は、その時に獲った動物の霊を弔うために建立された「猪鹿狼寺廃寺跡」のある久住山南山麓
     「沢水(そうみ)」登山口一帯であったとみられる。現「猪鹿狼寺」は竹田市久住町の国道(R442)沿いに移され現存
     する。

     選士はその後、大宰府や九州各地の国府警備のため増員されたと見られ、豊後国が輩出した弓馬の技術に長けた
     選士が警護にあったのである。
     選士制度のための太政官符は「しかればすなわち田園に来秬の夫を帰し、城府に弓馬の士きたる」と伝え、兵農分
     離の可能性を述べているとする。これは、大宰府管内において最初の「戦闘集団」が組織された事を意味し、以後、
     弓馬に長けた者が社会集団として行動し、やがてこれが有力者と結びつき、再び農民らを圧迫する武士へと変じる
     のである。その意味で、「豊後国大野直入の原野」は、「選士」即ち後に「九州武士団」誕生の発祥の地ともいえる
     のである。


                                             参考資料  大分歴史事典(西別府 元日)引用

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