戸次道雪戦功


       戸次丹後守入道戦功之事

    此の記事は、「九州諸家盛衰記(豊肥軍記集)」の書く立花山城「立花鑑載」の第一次謀反(永禄8年)の顛末である。
    此の記事では「鑑載」は、最後に城内で自殺した事になっている。「鑑載」は永禄11年に再び謀反するので、通説とは
    異なるので疑問がのこる。著者が二つの謀反を混同したとも考えられるが、そのまま紹介する。
    原文はやや読み辛いので、読みかえて記述する。
     「九州諸家盛衰記」とは元禄5年(1692)、馬場信意の書いたもので「西国諸家盛衰記」と云った。龍造寺の由来を
    書き起こしたもので、島津義久の秀吉降伏に至るまでの、およそ50年間の九州治乱記。龍造寺、大友の二家中心に
    是に関連して、戸次、鍋島、菊地、立花、島津ら諸家の興廃記である。
    昭和54年10月歴史図書意社より「九州諸家盛衰記」と改められて復刻版を出版したものである。


     其のころ「大友義鎮」は「一向禅法」という宗教へ心を傾注していた。如露(にょろ)、因果(いんぐあ)、無辺(むへん)
    なんどと云う僧が府内へ入り「禅」を広めた。義鎮はひたすらに邪見に墜ち「佛神」をないがしろとする為、是は「大友
    家」滅亡の発端となると、心ある人は嘆いた。
    筑前国の立花山の本城は、「勢楼山(せいろうやま:井楼岳367m)」と云って大友氏一族の「立花但馬守鑑載」の居
    城であった。また西には「白嶽(西城)」といって「怒留湯長門入道融泉」が居城していた。
    然るに「鑑載」、大友家を疎(うと)み、中国「毛利元就」に内通し逆心(謀反)を企てる。まず鑑載は筑前国同国の士
    「薦野三河入道浄圓(薦野城主)」、「米多比(ねたび)大学(米多比城主)」の両人を立花山城へ招き呼び、謀って討
    果たした。続いて「白嶽」の怒留湯融泉へ攻めて懸った。怒留湯入道は不意をつかれ防ぎえる術(すべ)もなく、稀有
    (けう:運よく)にも落ち行った。
    そのころ筑前国の国士「原田下総守親種」も「毛利氏」の幕下に属し、立花山に一味してきた。これに「鑑載」は大い
    に悦び、国中(筑前国)を伐り従えんと図った。豊後では「大友入道宗麟」此の事を伝え聞き、直ちに註伐すべしとし
    て、永禄8年5月中旬筑前へ向け発向した。
    先鋒は大友一族「戸次丹後入道道雪、田原近江入道紹忍、臼杵越中守鑑速、田原親廣の凡そ六千三百余騎」。
    二番は「志賀安房守親安、白丹(しらに:南山城)の志賀鑑高、朽網鑑安、一萬田弾正鑑実の凡そ五千三百余騎」。
    三番は「坂本入道道烈、有津何右衛門尉、古後弾正、野上兵庫助、同入道一閑、森五郎左衛門尉、帆足三郎兵衛
    尉、小田弾右衛門尉、以下玖珠、日田両群の勢四千五百余騎」。旗本は「吉弘、吉岡、田北、古庄を備頭として六千
    二百余騎」。都合その勢二万二千三百余騎にて立花山城へ押し寄せた。
    5月17日には遠攻めにて鉄砲軍(いくさ)がおこなわれ、鬨の声が山に響き、鉄砲の音が谷に答えて(こだまして)、
    天地を揺るがした。 翌18日、大将、旗本が寄り集まり諸勢が気勢をあげ勇みあった。 追い手方(大手口)の寄手
    先陣戸次丹後守鑑連入道道雪、只一息に城を揉み落とせと下知。これに逸(はやり)りたつ若者共は、岸崖といわず
    詰め寄せ詰め寄せ塀下へとりついた。城内よりは乗り入れらじと応戦。敵味方の槍、長太刀の入り乱れる様は、あた
    かも、稲、麻、竹、葦があたかも風に靡く(なびく)如しであった。寄せては少しも気を屈せず、矢狭間(やはざま)より
    繰り出す槍に取り付き、横引きに引き折る者。寄せての突き入れる槍を半ばより切り落とす者。寄せ手に取った矢狭
    間より鉄砲を打ち込むなど、敵味方てを砕いて攻め、そして防戦した。しかし勢いに乗る寄せては、切りかかられても
    突かれても退かず、見方の死人を足台にして、遂にどっと城内へ乗り込んだ。道雪は下知して「この勢いおとすなと」
    士卒を叱咤激励、是により難なく二の丸、三の丸を打ち破った。
    この事態に「鑑載」は今は十計つき、詰め丸にて自害。他の者共は右往左往に落ちていった。原田下総守親種は、
    「鑑載」の加勢に別の丸にいたが、もはや叶わじと、城を下って降伏を請う。「宗麟」はこれを許し、同国「高祖」へと
    帰した。
    
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