紹運の智略「柴田川の戦い」  (筑紫野市天山・針摺)



    柴田川合戦は、天正6年の冬「秋月種実」が仕掛けた岩屋城「高橋紹運」立花山城「戸次道雪」との
    戦いである。
    「
柴田川」は、筑後川の支川「宝満川」の上流部の古い呼び名である。明治33年の公式地図ではまだ
    「柴田川」となっている。
    合戦は、柴田川(宝満川)挟んで秋月勢は「天山(筑紫野市天山)」柴田川河原に「道雪・紹運」は
    対岸の高台(現筑紫野中学校付近、当時標高56mの低山があった)の針磨峠(筑紫野市針摺)に陣を
    敷いた。当時、この柴田川あたりは左岸(川は、下流に向かい右を「右岸」、左を左岸」という)を
    御笠郡「天山村」、右岸を「針磨村(はりすりむら)といった。
    柴田城は「筑紫氏」の端城として天山村にあった。「村山近江守」その子「村山弾正」を守将として
    在城、筑紫氏へ従っていた。
    元亀元年3月肥前「今山合戦」、さらに天正6年日向「耳川合戦」と大友氏が敗戦すると、筑前筑後に
    おける大友支配に翳りがみえはじめ、国人領主達の大友離れが顕著となる。
    この機を突いて一気に勢力を拡大したのが「古処山城・秋月種実」であった。これまで大友へ忠誠を
    尽くしてきた、筑後生葉郡(浮羽郡)の「問註所治部少輔鑑景」らも種実の旗本となって大友を離れた。
    天正6年冬秋月種実は、今や筑前筑後における大友氏の要となった「岩屋城」攻め、更に「立花山城」
    へ侵攻するため筑後の領主達に兵を催促、これに「問註所治部少輔」の1000騎が柴田城に入り、肥前
    牢人「綾部駿河守」が家臣には、内田善兵衛、横田讃岐守、上野四郎右衛門、木所刑部丞を先手に
    四千余騎、柴田川の天山河原に陣を張った。
    秋月勢には、「種実」旗下の長谷山民部少輔、熊江修理亮、芥田惣六兵衛らも随った。種実の柴田川
    出陣は「高橋紹運」にとっては由々しきことである。
    「岩屋・豊満」までは60町余り、柴田川を上れば直ぐである。種実の出陣と聞いて「岩屋城高橋紹運」
    「立花山城戸次丹後守道雪」は、直ちに柴田川挟んで対岸「針磨(針摺)」に軍勢押し出し対峙した。
    最初は互いに「矢戦」を仕掛けたが、やがて敵味方柴田川に入り川中での合戦となった。双方、散々に
    戦ったがやがて、小勢の岩屋方は終日の合戦に気力たゆみ、「道雪・紹運」の両将は思うところあって
    軍勢を岩屋の「邑城(さとじろ・むらじろ)」へと退く気配を見せた。この道雪紹運の動きに種実は
    「敵は陣を退く」と取った。種実は勝ち戦とばかり、先手旗下の手勢を一つにまとめ勢いにのって追討
    をはじめる。
    二日市、片野過ぎ大宰府の「白河(白川)」までも追い詰めた。この場所は「岩屋城」までは僅かに
    10町(1100m)あまり、岩屋城の城下である。秋月勢は敵地深く踏み込んでいた。さすがに「問註所
    治部少輔」は「土地の事情も分からぬ敵の城下に深入りし、夜の合戦働きは如何なものか、直ちに本陣
    へ退き明日一戦有るが然るべきであると注進した。しかし、種実はこれを除け「敵を城下まで追い詰め、
    この機を逃がすでない」只管に押し懸かっていった。
    この時「種実」は既に「紹運」の策中に陥っていた。これは「紹運」の「態(わざと)」と敵を引き付
    け取り囲み討ち取る謀であったのである。
    種実そうとはつい知らず種実は強引に突き進んだ。 その時である、「由布美作守」「小野和泉守」
    「綿貫佐三兵衛」「竹迫進士兵衛」「高橋越前守」「成富左衛門」「薦野三河守」ら「道雪・紹運」の
    二千余騎。勢いよく山陰より差し回し、秋月勢の背後より鬨をあげ、爰(ここ)に紛れ顕れ押し懸かっ
    た。この思いもよらぬ不意打ちに秋月勢は混乱、たちまち裏崩れし退き始め形勢は一転した。
    紹運が成富、綿貫は「勢いの手緩めるな」と種実の備えに襲いかかる。種実の長谷山、熊江、芥田らも
    身命掛けて応戦したが、軍勢手勢の討死相次ぎ備えもまばら、種実の敗戦は明となった。
    秋月勢は周辺民家に火を放ち紛れ本陣「柴田城」へ退こうとした。ところが、二日市と針磨の間に「旗
    馬印し」数十本、日の暮れた空に風にひらめき、静まりかえって見えたではないか。これを見た秋月勢、
    豊後勢の支援が打って出て後詰されたと思い込んだ。退路を遮られた秋月勢は已む無く、二日市、針磨
    を避け、一旦二日市の西へ大きく迂回、「杉塚」より二日市の南を回りさらに「長岡(永岡)」経て、
    天山の南15町ばかりの所を打ちまわり、這う這うの体、命からがら甘木領「彌長」まで退きとった。
    このとき、岩屋勢の討ち取った秋月勢の首は「三百」にものぼった。夕暮れの空に秋月勢が「豊後の後
    詰」と見誤った「馬旗印し」は、知将「高橋紹運」のとった「智謀」の策で「種実」が引き続き岩屋城
    近くに陣取ることを防ぐための「空旗(嘘旗)」であった。
    よくよく思うに、この作戦「道雪・紹運」両将が最当初から企てた謀り事でなかったか。わざと最初か
    ら小勢と見せて挑んだと見られる。是は「由布、小野、綿貫、薦野」と云った名うてが、秋月勢を後詰
    に襲っていること、秋月勢の退路の先に手際よく嘘旗を数十本も立てていることからも覗える。
    地理不案内の場所へ引き入れ「野伏せ」をかける、これに秋月勢はまんまと嵌った。
    これは、よほど「道雪、紹運」の先手が巧みに退きながら誘い込んだと見られる。さしもの知将「秋月
    種実」にしては不覚であった。
 
             
             
現在の柴田川(宝満川)古戦場付近、左「針磨」側・右「天山」側
                    見えてる橋、通称「柴田橋『宝満橋)」
                左手遥かに「四王寺山・410m」 右手「宝満山・869m」


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