戸次鎮連・石宗軍配相伝契約


       「戸次鎮連(べっきしげつら)」は戸次氏第十六代当主で、大友義統の重臣。加判衆も努めた武将。戸次鑑連
      実弟「鑑方」の嫡男であったが、「鑑連」が筑前筑後統治に専任するに当たり、鑑連の養子にして家督を譲った。
      秋月との「休松合戦」や、第一次日向侵攻に戦功のあった武将であったが、天正14年島津の豊後侵攻に際し、
      妻子(戸次統常)の諌めも聞かず島津へ内応し、義統に註罰されたとされている(真相不明)。
      実子「統常」は「戸次川の戦い」にて、父の汚名を晴らすべく僅かな手勢で出陣し、壮烈に戦死する。
       「石宗」は「角隈石宗(つのくませきそう)」と言い、大友氏の軍師であったが「大友宗麟」の日向高城侵攻には
      強く反対した。しかし宗麟にへつらう総大将「田原紹忍」に押し切られ止む無く出陣戦死する。
       このページは、天正6年1月(1578)「大友義統」を総大将に、日向縣(延岡)松尾城「土持親成」を討ったおり、
      「戸次鎮連」は三万の軍勢七隊の一大将として参陣していた。大友勢は松尾城落とし「親成」を自刃に追い込み
      北部日向を平定した。その諸将開陣の折の大友家の軍師「石宗」と「鎮連」との出来事である。

      「土持氏」を退治した大友勢の諸将は、開陣に際し豊後国宇目の「酒利(さかり)」と言うと所に集結していた。
      酒利は、佐伯市宇目町大字千束酒利に位置する自然豊かな山里である。北に酒利嶽、東に朝日嶽城がある。
      ここに「戸次山城守鎮連」の陣所はあり、隣家に「軍師石宗」が宿していた。鎮連は予てより石宗に軍配の望み
      を伝えてあったことから、良い機会と石宗に参会し様々な話で盛り上がった。
      やがて鎮連は石宗に問うた。「この度、松尾城土持居城において狼煙(のろし)が立ったおり、これは薩州の
      合図ではと不審にとらえた者がおったが、貴公(石宗)合図にあらず、只策(はかりごと)なり、律気にあらず、
      (定まった気ではないとの意味)不吉の相見へたると仰せし事共、奇特に存じ候なり。自今以後、度々参上いた

      す、軍配残らずの御相伝を」と所望した。石宗は「安き事に候。師弟の契約の上は、某存じ候通り、毛頭残りす
      まじく候。先ず少し気の物語から申すべく候」と応じた。
      (注) 松尾城の土持氏は大友勢が城を囲んだ時、あたかも島津の後詰が近くにいる如く、城内より盛んに狼煙
          を上げ大友勢を欺こうとしたが、軍師「石宗」は是を見抜いていた。

       以下「石宗」気の講談

     
城の気には、東南西北の靡きといふ事あり。外典(此処に云う外典とは、キリスト教のそれでなく、他の書
       物の意味か)に多く見えて珍しからず候得共、仔細述ぶべし。夫、気というは、煙霧雲などにて窺い見る
      ものなり。
      凡そ、城攻囲む邑城
(さとじろ)の気の色、死灰の如くは城屠(ほうふる)(べし)という心は城郭を攻め
      
在所(居城)を取り廻したる時、城の上に立つ気、火の気も無く灰の如くならば、其の城亡ぶべきなり。
      屠とは、人に攻め落さるるを云うなり。


        一つ、 城の気、 東へ靡かば落城し難し、行才(てだて)覚えあるべきものなり

        一つ、 城の気、 南へ行ば、責めたりとも落まじきなり、 策行(はかりごと)を肝要にすべし

        一つ、
 
城の気、 西へ行ば寄せての勝になりて、城は降参すべきなり

        一つ、 城の気、 北へ行ば寄せ手の負けになるべし

        一つ、 城の気、 何方へも出て、又城の方にへ入は城主やがて逃ぐべし

        一つ、 城の気、 寄せ手の軍勢の上にふさがらば、寄せ手に病人多かるべし

        一つ
 城の気、 高く上がりて、何方へ行とも見定めずば、急に勝負見えず。日数を経るべきなり

      凡、城を攻むるに旬、即ち十日を過ぎて雷鳴らず、雨降らずば、必ず敵城に助成あるか、さなくば味方に
     謀反人できるか、如何様城は強かるべし。
    
 扨又(さてまた)、陣をとりて後、我が士卒を暮れごとに門戸に立て定めごとをせば、敗軍と知るべし。
     又、武者の勝色負色という事あり。人数の備え如何にもしくろみ
(統制の取れた様)、人馬の足見えざるは
     勝色なり。備えばらばらにして、人馬の足見ゆるは負色なり。 又、巴と言う事あり。誰も今、合戦と諸軍
     相待とき、一人何事なりとも密に云ひ出れば、傍のもの聞かんと近付寄れば、またそれに続いてせんぐり
    
 (じゅんぐり)に寄る。あまたの目に是を見れば、巴のように見ゆるものなり。是も敗軍の相なり。
      扨又、日取りの事は、軍の発端に第一といえへども、味方の吉事は敵も吉事なり。唯方角を肝要とするも
     の
なりと云う人もあり。それは宜しからず。其大将の性にあわせ考ふる日は、餘(他)の大将の為には吉
     日にはならず。
     又悪日を吉日に取りなし、悪方を吉方の用いる秘術あり。日に依り時に依り、懸りて利を得るもあり。引受
     けても勝もあり。或は日を考へ気を伺ひ或は時をくる。皆是軍法の行
(てだて)なり。此等如きを知らずして

      戦場に出る者は海中の魚のひれなきが如く、野山の鳥の翼なきに似たり。竿無ふして舟に乗るが如しと、
     先師云い置かれたり。古人曰く、戦上手は戦せずして勝なり。太刀の鎬を削りて勝は、善き大将にあらず
     と見えたり。
 

     
 と、様々に石宗は講談し、雑談にも耽った。 鎮連は「面白き物語、誠に忝く次第に存じ候。某相伝の初めには、
     気一巻承り候はん」と申されける。石宗「懇の儀は臼杵において相伝申べし。」

    
扨、気は煙気雲気様々の事御座候得共、天地陰陽和合の一理を肝要とす。覆て外なき天の道。載せて
     捨つ事無きは地の徳なり。斯の如く天地聖徳を以て、呂律の二気を見分け吉凶を窺うふ秘伝を宣べられける。
    扨、八陣と申すは、陣取りは八つに定まるものにて候哉(そうろうかな)
     石宗曰く
    八陣と云うもの、異国の諸葛孔明が八陣の圓を持て沙汰し申なり。
            
八陣は、魚鱗鶴翼長蛇偃月
(えんげつ:半月)鋒矢(ほこや:中央足軽を突出させる陣形)
                 
方圓(ほうえん:円と方形)衡範(こうはん)雁行
    右を根本として、様々の陣取りあり。其家々の軍配ありて一機に定まり申さず。然れども出る源は、八陣より
    起れる事共なり。軍配一巻は、重ねて書面を以て相伝すべき
 
の契約あり。


     「石宗」と軍配相伝契約結んだ「鎮連」であったが、「石宗」は高城出陣に強く反対するも、田原紹忍に押し切られ
     出陣戦死した。一方「鎮連」は軍師「石宗」講談の趣旨や思いを確りと受け止めていなかった。残念ながら「鎮連」
     島津侵入時早々と内応してしまった。(但し、鎮連の内応については根拠無く、義統に疎んじられ島津へ与同した
     との讒言が流され詰腹の説もある。田原紹忍あたりの策であろうか?)
     加えて残念なのは「片賀瀬城」に生まれ「津賀牟礼城主」となった「
戸次統貞(玄珊)」も是に余同したことである。
     (玄珊についても、「島津義弘」の巧みな談合に津賀牟礼城を開城したのが事実のようである。)

                                                     参考資料  大友興廃記


                                 トップへ