島津氏の城変遷 リンク : 島津氏発祥の地 「惟宗忠久(初代島津忠久)」が、島津荘(現都城市一帯の広大な所領)を所領し「下司職」に任じられた ことにより「島津姓」を用いたことは疑いの余地がない。従って「都城市」が「島津姓」の発祥の地である事は 事実であろう。 (「島津姓」発祥の地と、戦国大名「島津氏」成立の過程とは分けて考える必要がある。) 都城市郡元町には、「島津氏発祥の地」と称する「祝吉御所」という所があって、初代忠久の館(やかた)跡とし ている。しかし、「吾妻鏡」によれば「忠久」は生涯鎌倉に在し鎌倉で没し、二代「忠時」も鎌倉で没している。 このことより「都城市」の「祝吉御所跡」を初代「忠久」の館跡と決するには史料に乏しく伝承に過ぎない。 三代「久経」も博多で没し、四代「忠宗」も北部九州にいたとされ、島津氏の薩摩在住が確認できるのは、五代 「貞久」になってようやく南部九州での所在を確認できるのである。この様な状況証拠により、「戦国大名」とし ての島津氏が薩摩に拠点を構えるのは、五代「貞久」以降と考えられるのである。 三木靖氏の南日本新聞への寄稿文によれば、島津家家臣の山田聖栄という人の書いたものによると、忠久 は薩摩山門郡(出水市)より庄内の堀之内御所に移ったとあり。江戸時代の「島津氏正統系図」には、1186年 山門院に下向、「島津国史」に同年「木牟礼城(出水市)」に入ったとあり、江戸時代後期の「三国名勝図会」 には、島津五代は「木牟礼城に在り」と書かれているとする。 「忠久」の薩摩下向は疑わしいので史実ではないが、これ等の書き物は何れも先ず山門院(出水市)へ先ず入 ことになっている。また忠久は1213年薩摩国守護に再任された際、職執行のため薩摩に守護所を設けたが、 この守護所と木牟礼城が結びつき、出水市を島津氏発祥の地としたのではないかとする。 さらに「旧記雑録」によれば「島津貞久」は川内市碇山にあった「碇山城」に守護所を置いたとあるとされる。 (注:前記のごとく、島津氏の当主が確実に薩摩に居たと確認できるのは、「旧記雑録」に書かれた五代貞久が 碇山城へ守護所を置いたとするものである。) このように「貞久」が最初に居城としたのは、「木牟礼城(出水市高尾野町江内)」であったのか、碇山城なのか は定かにできない。 (筆者考えるに、貞久は後年鹿児島「東福寺城」を攻略するが、鹿児島に近い中心地川内「碇山城」を此の 城攻めの拠点として在城したと見ても不思議でない。) 初代「忠久」と「山門院(出水市)」とを結ぶ記述や伝承より、「木牟礼城」が草創期の戦国大名「島津氏」の重 要な拠点であったことは間違いないであろう。 このように戦国大名島津氏が都城(都之城)へ居住したする証拠は今のところ見つかって無い。 南北朝期、薩摩でも島津氏一族、国人領主たちが南北方へ分れ激しい戦いが行われた。暦応3年(1340)、同 4年(1341)、北朝方に組した「島津貞久」は鹿児島「東福寺城」へ籠もる矢上、長谷場、谷山氏等に大隅より 支援の「肝付兼重」を攻める。貞久勢にも多くの損害出すが、激戦のすえこれを破り東福寺城を占拠する。 以後貞久は東福寺城を島津宗家の居城とする。 六代「氏久」、七代「元久」と東福寺城を居城としたが、七代元久は嘉慶元年(1387)「清水城」を築き、要害な がら手狭な東福寺城より清水城へ拠点を移す。 其の後、薩摩を平定した「島津貴久」が伊集院「一宇治城(伊集院城)」を居を構え、鹿児島に「内城」築くまで、 清水城は島津宗家の居城となっていた。 「貴久」は、金峰布施麓「亀ヶ城」に生まれ、伊作「亀丸城」を拠点に、当主をめぐる一族間の混乱を勝ち抜き、 薩摩国内を統一したのである。 「島津義久」「義弘」も内城を居城としたが、関ヶ原合戦後家督を継いだ義弘嫡男「家久(義久の子婿養子)」は、 薩摩領が安堵されると慶長7年(1602)新たな城作りへ着手、(1604)「鶴丸城(鹿児島城)」を完成する。 以後鶴丸城は、維新まで薩摩藩の居城となる。 |
木牟礼城跡 (出水市高尾町江内) 木牟礼城跡 |
鹿児島県出水市 国道3号線上り線屋地信号左手、国道より見える。 島津貞久が薩摩下向するまで「本田貞親」が城内に 「竹林城」を築き守護代相当職にて日向、大隅、薩摩の 情勢把握に当たった。 出水市が「戦国大名」としての「島津氏」発祥の地とする 根拠となった城跡である。 現代の遺構は8m四方の台地残るのみで大変に小規模 現地案内板、石碑がある。 |
碇山城跡 (川内市天辰碇山) 川内川の左岸堤防上住宅越しに「碇山城跡」見る 石切場の崖の一部残るのみ。背後は寺山嶺 |
JR川内駅の北東、川内川左岸「天大橋」近く。 五代「貞久」が守護所を置いたとされている。貞久の 三男「師久」は相州家島津氏を興し碇山城を拠点とした。 城跡は近世採石場として石が切り出され、大半破壊され 一部は住宅地化した。当時は、西は川内川に接し、東は 寺山へ続く要害であった。 現状は、破壊尽くされ城跡の面影はない。 碇山城跡の標柱の近くに、小さな保食神社があるのみ。 案内板もなし。 |
東福寺城跡 (鹿児島市清水町) 島津氏居城東福城本丸跡 |
東は錦江湾へ面した崖上の山城。 天喜元年(1053) 藤原純友の四代後裔、長谷場永純の 築城とされる。 三州(日向、大隅、薩摩)における最初の山城。 鹿児島湾に面した急崖の要害である。 南北朝期の、暦応3〜4年(1340〜1341)この城に籠もる 南朝方長谷場、谷山氏、矢上氏に、救援の肝付兼重らと 北朝方島津五代貞久との間で激しい争奪戦が行われた。 貞久は序戦は敗北するが遂に勝利、東福寺城は元久が 清水城築くまで居城となる。 島津氏の三州統一へ向け最初の拠点である。 その後も要害の為、非常時の詰めの城となった。 現代は「多賀山公園」として整備されている。 「東郷平八郎」の、墓、像が立つ。 |
清水城跡 (鹿児島市清水町) 現、清水中学校・背後清水城跡の山 写真右端中央に五輪塔が見える |
現地は「清水中学校」。 嘉慶元年(1387)第七代「島津元久」築城.。 六代「氏久」築城ともいわれる。 城山には、堀切等残るとされるが、確認できる現地状況 にはない。以後、160年にわたり第十四代「勝久」までの 島津氏宗家居城となる。 現在の中学校敷地辺りに館があり、詰めの城は背後の 山にあった。「島津貴久」によって「内城」が築かれると、 館跡に「大乗院」が建立され島津氏の祈願所であった。 大乗院は明治の廃佛毀釈により、最初に取り壊された。 現、中学校正門付近に五輪塔などの遺構が残っている |
亀ヶ城城跡(南さつま市金峰町布施麓) 亀ヶ城跡の亀城神社 |
亀ヶ城とは、相州家島津氏の居城。 相州家は「島津友久」が初代。 友久は、惣領家島津氏を継がず「相州家」を起こす。 友久が相模守を用いたことから相州家と呼ばれた。 第二代は「島津運久(ゆきひさ)」。 未亡人であった「島津忠良」の母「常盤」は、運久の求婚 に、忠良を相州、伊作両家の後継者とすることを条件に、 運久へ嫁ぐ。こうして「忠良」は相州家第3代を継承する。 そして島津惣家第十五代「貴久」はこの城で誕生する。 城跡は現在「亀城神社」。ほぼ平地の城といっていい。 遺構 : 荒神祠(こうじんし)、両亀石 |
伊作亀丸城 (日置市吹上町与倉) 伊作亀丸城跡の忠良らの誕生石 |
伊作家「島津氏」の居城 伊作家「島津氏」 初代久長の築城、広大な山城。 40万uにも及ぶ。 義久、義弘、家久、歳久もこの城で誕生。 日新斎、貴久親子の薩摩平定の拠点となった。 貴久の島津家当主相続にかかわり一時「島津実久」の 軍勢に占拠された事があったが、実久一党の駆逐を果 たし奪回する。 伊作城は鹿児島県特有のシラス土壌の山の尾根尾根を 削って曲輪として築城されていた。 西のの亀丸城、東の蔵之城など曲輪跡は大小28にもな るという。周囲に土塁や深い空堀、井戸跡ものこる。 本丸跡には島津忠良、義久、義弘、家久、歳久 忠良の姫たち誕生石が幾つもある。 「貴久」以降、島津家当主は全て伊作家が継承する。 |
花見ヶ城 (出水市麓町) 本丸曲輪と見られるところの現況 |
出水城、和泉城、亀ヶ城とも呼ぶ。 島津氏宗家の居城と云う訳ではないが「島津実久」の 登場など、歴史的意義の深い城として取り上げた。 出水は古くには「泉」で、中世には和泉であった。 花見ヶ城は建久年間(頼朝の時代)「和泉大夫兼保」の 築城とされる。以後400年近く続くが1417年当主「和泉某」 の戦死で後継が途絶える。 享徳2年(1453)、島津十代忠国の弟「用久」が薩州家を 起こし、和泉城を改修入城「亀ヶ城」ともいった。 五代「実久」は当時島津一の実力者で、忠良、貴久親子 と対立、一時は権力を握ったが、反撃にあい降参する。 秀吉の薩摩いりの時、七代忠辰は他に先んじて降伏、 所領安堵されるが、文禄の役では兵を出さず秀吉の怒り をかい改易となる。 現地は、保存状態極めて悪く、多くが墓地公園となって しまった。 |
一宇治城 (日置市伊集院町城山) 一宇治城跡示す碑 一宇治城跡は、JRは伊集院駅の西に見える山 |
別名「伊集院城(鉄丸城)」 鎌倉時代「紀四郎時清」によって築かれ四代続く。 その後「伊集院氏」の居城となり数代続く。 「島津貴久」は薩摩平定にあたりこの城押さえた。 天文14年(1545)貴久伊作城より移る。 天文19年には貴久鹿児島に「内城」築き、一宇治城は 6年ほどの在城であった。この間フランシスコザビエルと 面会し、日本で最初の切支丹布教の許可を与えた。 遺構は、本丸とも云うべき神明城跡 二の丸釣瓶城跡、 ザビエル会見跡仲之平城跡、井戸跡、井戸 溝跡、蔵跡など多く残る。 公園化のため手が加えられ過ぎ。 |
内城跡 (鹿児島市大竜町) 大龍小学校の一角にある大龍寺跡遺構 |
現地は「大龍小学校」 天文19年(1550) 第十五代「島津貴久」薩摩統一後 内城築城。一宇治城より移る。島津義弘まで50年に 亘り此の城を居城とした。 関ヶ原後、家久の鶴丸城築城により廃城となった。 廃城後は「大龍寺」が築かれたが、廃佛毀釈により 廃寺となる。 |
| 鶴丸城跡 (鹿児島市城山町) 鶴丸城跡 |
関ヶ原敗戦の責任とり隠居した義弘に変わり義久の 養子となった義弘嫡男「家久」の築城。 以後藩政時代薩摩藩の居城となる。 此の場所への築城には義弘は海に近く防御には適 さないとして反対したという。鶴丸城には天主は築か れなかった。 現在城址には歴史資料館「黎明館」や図書館が建て られている。 遺構は石垣と水濠 |