島津氏発祥之地



     「島津氏」発祥の地は、 NHK大河ドラマ「天璋院篤姫」にて鹿児島県出水市と紹介され 「島津家」発祥の地を
    自認する宮崎県都城市が反発、NHKへ抗議した。

    出水市は「島津氏」とは縁の深い所で、「感應寺」には初代「忠久」・二代「忠時」・三代「久径」・四代「忠宗」・五代
    「貞久」の墓がある。
    一方、都城市には「祝吉御所舊址」と呼ぶ「島津家発祥之地」とされる場所があって、大きな石碑が建てられてい
    る。説明書きには「島津氏の祖忠久が鎌倉より下向御所(館)を構えたとある。中世此の地は島津御荘の中心地
    であったと。
    また、文治元年(1185)忠久は、源頼朝によって島津御荘下司職に、ついで同荘八千町の惣地頭職、薩摩、大
    隈、日向三ヶ国の守護に任じられ、地名をとって島津と称した」とある。
   
    両市の伝承地は以上の様になっているが、歴史的に中世史の観点ではどの様に見られているだろうか。
    幸いに、「南日本新聞」に「鹿児島国際大学、短期大学部名誉教授・三木 靖氏」 の寄稿文が掲載されていた。
    三木先生は、日本中世史、中世城郭史、文化財史を専門とされる。
    以下、同氏の寄稿記事を参考に紹介する。

    書き出しは、ほぼ都城市教育委員会の説明版と整合する。源頼朝は1185年、御家人・「惟宗忠久」を、薩摩、
    大隈、日向国にまたがる荘園「島津荘」の下司職に任命した。その後、忠久は
    薩摩大隅日向と伊勢、越前、信濃、甲斐の七ヶ国で守護(惣地頭)や、多くの郡地頭に任命されたことが「島津家
    文書」や「吾妻鏡」に確認できるという。此のうち忠久は、最も広大な島津荘を本貫地にしょうと「島津」姓を名乗っ
    たとされる。  (島津荘は現都城市、高城、一帯さす広大な地域)
    しかし1203年、忠久はこれらの地頭職、守護職を北条氏により停止され、後に回復するが薩摩一国のみであっ
    たようだ。忠久はこれ以前、1179年に京都近衛家の下級家司で、春日祭の勅使「春日祭使」の供をした記録が
    残り、六年後に頼朝の後家人となり鎌倉に移っているので、「惟宗」を名乗った時代も含め「島津家」の発祥地は
    京都とも云えるし、「島津」を名乗った鎌倉ともいえるとしている。
    では、鎌倉で将軍家に遣えていた「島津氏」がどの様にして南九州を所領化していったのか、
    三木先生は次のように説明している。



     まず「出水市説」について。

     十五世紀、島津家家臣「山田聖栄」の自記によれば、忠久は薩摩国山門院(出水市)より庄内の堀之内御所
    (都城市)に移った。また江戸時代の「島津家正統系図」は1186年山門院に下向「島津国史」に同年木牟礼城
    (出水市)入ったする。江戸後期の「三国名勝図会」には「島津五代(貞久)は当城」にありとしていたとしている。
    忠久は1213年薩摩国守護職に再任されたおり、薩摩の統治のため「守護所」を設けたが、この守護所が木牟
    礼城説と結び付けられ、出水郡に設けらとの考えを根拠としているとする。
    感應寺にある五代の墓は、島津家が建立に関ったものか分らないという。
    又、忠久の出水移住示す資料は無いとも。

         「島津五廟社・感應寺」 鹿児島県出水市
         
               感應寺の島津五廟社・左より初代忠久・忠時・久径・忠宗・貞久の墓


     次に「都城市説

     前記「山田聖栄」の自記では、忠久は山門院より堀之内御所に移ったとしてあった。
    「三国名勝会図(都城の項)」では忠久が1196年山門院から日向島津院祝吉御所に入り、その後堀之内御所
    へ移ったとあるからだとしている。何れも忠久は出水に立ち寄った後、都城を拠点と していることについて「三
    国名勝図会」は伝承としているようだ。
    三木先生も、日向島津院が「島津姓」の基点となったことはほぼ間違いないとしている。
    只、忠久が都城へ移住したことを示す資料もないとされる。

          「祝吉御所舊址(島津家発祥之地)」都城市郡元町
         
         都城市が島津氏発祥地とする場所     南日本新聞の三木 靖氏寄稿記事(部分)
                                   写真、鹿児島市清水町 本立寺跡の供養等
                                   出水市の墓と極めて似ている


    島津氏の当主で南九州在住が確実に分るのは五代「貞久」以降とされる。初代「忠久」は生涯鎌倉にて活躍、
    1227年同地で没した。二代「忠時」も鎌倉で没し、三代「久経」は元寇の役で北九州で戦死。四代「忠宗」も
    北九州に居たとされる。
    (建治元年(1275)、久経が異国警固で九州入りしたとされているが定住したかは不明)この時代島津氏の
    守護所はすでに旧薩摩郡内に在ったと推定している。
    出水市も、都城市も発祥地としては伝承に過ぎず、島津氏が史実として薩摩を本貫地として確定(発祥の地)
    するには至ってないという。

    こうしてみると、少なくとも忠久が下向したとする説には疑問がある。
    「島津姓」が「島津荘」に由来すること、これはまず間違いない。
    言い換えれば祝吉御所跡は「島津姓由来之地」といえる。
    このことと、武家集団「薩摩島津氏(家)」の形成過程(島津氏が薩摩を本貫地とした基点)は分けて考える
    べきではないか。


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