懐良親王
     「
大保原合戦(筑後川の戦い)の征西将軍宮
                        
 参照:九州古戦場巡る

     「
懐良親王」(1329〜1383)かねよししんのう(かねながしんのう)
    「親王」は南朝「後醍醐天皇」十六皇子。
    僅か九歳(八歳とも)にて
征西大将軍征西将軍宮)。「親王」は1342年九州
    の南朝方を統率するため九州へ。北部九州沿岸での九州入りは襲撃のおそれ極
    めて高く、これを回避するため南の薩摩から九州に入る。
    「親王」は谷山城(鹿児島市)に滞在の後、1347年九州西海岸沿い「葦北」あ
    たり経て肥後南朝方「菊池武光」の菊池本城(隈府城)に入る。
    「親王」は筑前、筑後の幕府方や足利直冬らと対峙する一方、正平3年(1348)
    豊後高崎城を攻める。九州南朝の勢いに大友氏は一旦南朝方に下るが、将軍家
    の意向に沿い「大友氏時」は北朝に帰順、南朝に対抗する。この大友氏に菊池
    武光は、文和4年(正平10年・1355)高崎城を攻め大友氏は南朝に下るも再び
    北朝方につく。以降「武光」は何度となく豊後の攻め入る。延文年(正平13年・
    1358)にも挟間口、赤松口より高崎城に迫るが敗退。高崎城の備えは強化され
    ていた。標高629m天嶮の要害、高崎城は落ちることは無かった。
    延文4年(正平14年・1359)「懐良親王」三十歳、この「懐良親王征西将軍宮」
    を奉じる「
菊池武光」軍に、武家方「少弐頼尚」が一大合戦を繰り広げた「
    
後川の戦い大保原合戦・日本三大合戦の一つ)」に南朝方が大勝。1361年
    (正平16年)「少弐氏一族」を一掃「大宰府に征西府」を開き、九州南朝方は
    全盛期迎える。 同、1361年「斯波氏経」が九州探題として入るが4年余りで
    九州去る。後の「渋川義行」は上陸すらしなかった。
    応安3年・建徳元年(1370)「今川了俊」九州探題として下向、了俊の子「義範」
    は高崎城にいる。「菊池武光」は高崎城を100回以上に亘って攻めたが防禦が強
    化された「高崎城」は落せなかった。
    九州入りした「了俊」は北朝方武士団の結束の強化を進め、南朝勢の包囲網を
    狭めていく。中元元年・応安6年(1373)大宰府の「菊地武光」軍は遂に下る。
    13年に亘った「大宰府征西府・懐良親王」は「良成親王」に「征西将軍」を譲
    り高良山に引き、さらに八女郡矢部へに隠退、矢部でなくなったとされる。
    (星野村の大円寺に入ったとも)

    九歳にて九州に来た「懐良親王」都遥かに居て、40年に及ぶ九州での南北朝の
    抗争の果て、1383年3月27日 五十五歳にて没したとされている。
    「懐良親王」の墓所は数箇所あり、九州には八代市「宮内庁管理」「
悟真寺
    の墓陵が今のところ公式の墓陵である。
    其の外「星野村、
大円寺」「久留米市、千光寺」とある。
    「親王」は矢部(星野谷とも)で没したとされているが、宮内庁公式陵墓は
    八代市である。
    言い伝えでは、正平2年(1347)薩摩谷山発った「懐良親王」は、同年12月14日
    肥後に入り、八代の高田(現、奈良木町)に10日留まったとされる。
    その後、大宰府に征西府を敷くが、やがて大宰府を追われ、「良成親王」が征
    西府将軍となり、宇土落城後 元中7年(1390)八代に入り「高田征西府」敷い
    たとも言う。現在この場所は小さな公園で、「懐良親王御所址」の碑が立つ。
    八代市の墓陵が公式であるが、星野村「大円寺」のものも有力という。

     以下は、九州で「
懐良親王」の御陵とされる三箇所の写真紹介

         

        
八代市妙見「悟真寺」の公式懐良親王 陵墓」宮内庁書陵部桃山墓陵管理


         
      
     星野村「大円寺」背後鬱蒼とした山中にある「懐良親王 陵墓
            「懐良親王」は高良山より天授3年(1377)星野谷大円寺に入り、
             弘和3年(1383) 55歳にて薨去(こうきょ)されたという。
             大円寺より悪路を4kmほど上った山中、判りづらい場所にある
             墓は大変に立派(昭和57年 正当600回忌に改築された)


         
         
       久留米市「千光寺」の「懐良親王 陵墓
          説明書きによれば、合戦で傷ついた「親王」は近くの「谷山城」に引き上げるも
          手当ての甲斐なく8月18日にお亡くなりになった。谷山馬之介は味方の士気を重ん
          ばって密かに火葬した。この場所を「御火化所」という。お墓の下にある杉林


                           参考資料  大分歴史事典  大分放送
                                 大日本百科事典  小学館
                                 現地説明板


                            トップへ