無念柴田父子
                 「疑い、死以てはらす


       天正14年「島津家久」が、日豊国境「梓峠」の難所を越え豊後へ侵入した時、宇目の山中「朝日嶽城」には
      「柴田紹安」がいた。柴田一族は同類も多く名のある一族であった。其の中において「紹安」は、一族他の者
      に比べ処遇に不満を持っていた。加えて、豊後南部の山中に山城築城命じられ、捨て駒のように守備も命じ
      られた。紹安の不満は募るばかりであった。
      天正14年10月中旬、「島津家久」の率いる一萬余が、梓峠の難所越え豊後南部へ侵入した。この時紹安は、
      重臣等の諌めも聞き入れず、夜陰に紛れ、僅かの傍衆と朝日嶽を脱出「家久」の下へ走る。元はと言えば、
      紹安の居城は野津院「星河城」、豊後南部の地形には通じていた。紹安は家久の案内役となる。以後紹安は
      戸次氏の守る三重郷「松尾城」へ案内し、そして「宗麟」の篭る「臼杵城」と向うのである。

       其の頃海上の要害「臼杵城」では「宗麟」が守りを固めていた。
      島津家久は「松尾城」に主力を集結、府内への機を窺っていた。府内攻めにあたり、臼杵城宗麟の後詰めを
      恐れた家久は、臼杵城攻撃を計る。天正14年12月5日、柴田紹安を案内に「白浜周防守」「野村備中守」を
      臼杵城へ向わせた。 (こののち、白浜周防は鶴崎城「妙林尼」に討たれ、野村備中も傷つき高城で死す。)
      臼杵城へ面し両将は、「矢頃(飛距離)」に控えて鬨を作った。これに城内よりも鬨の声を合わせてきた。
      白浜、野村は足軽に鉄砲五十挺ばかり持たせ控えさせ、城内へ向け遠矢を度々射掛けた。これに、城内は
      鎮まり音一つなく、しばらくして先年南蛮国より渡った大石火矢(国崩し)一挺を持ち出し、丸薬込めて寄せ手
      へ向け撃ち放った。大石火矢は轟音と地響き上げて弾丸を飛ばし、島津勢の中に差矢にとびこみ、火矢に
      当たった薩摩兵は次々と倒れ、その数は計り知れない程であった。寄せ手の一町ばかり後ろに、楠の大木
      があったが、これに飛び余った火矢が直撃倒れた。薩摩勢はこの木の下敷きにもなって損害を出した。
      是を見た両将は、「高名不覚も事による。者ども遠く陣を取れと。」と退いた。火矢にて薩摩勢大勢を討った
      事に喜び色めき、是を見た「宗麟」は上機嫌であった。
      宗麟は側近の「田原紹忍」を呼び言うには、「薩摩両台の手引きに 柴田紹安が向うと聞く、柴田長門入道
      礼能父子は、同姓の親類なれば、薩摩方へ志を寄せないか」と聞いた。紹忍は「諚せにて候らえども、常々
      柴田長門入道の倅、「玄蕃允」の所存見るに、少しも野心を企てる様なことはありません」と返事を返した。
      宗麟の前を下がった紹忍は、このことを「柴田長門入道礼能」へ「上意」の趣を語った。 柴田長門入道は、
      紹忍へ向い「なんと、御屋形様の御心底我々を疑い給う趣、思いもよらず候。数代御厚情を蒙り奉る我等、
      なんで君に野心を含みもしましょうか、ましてや謀反を企てし者に、たとえ親族といえども同心仕るべきや」
      と、誓言にて紹忍へ挨拶し「この上ながら我々父子諫意これなき趣、後日沙汰なくても」と当座を立ち、父
      子共に悲悔し「諸人に疑われては口惜しき事なり、討ち死せん」と甲冑に身を固め、今や遅しと夜の明くる
      を待って、騎馬姿も華やかに出立していった。大門を固めていた「小佐井主税助」へ、「唯今上意にてより
      柴田礼能父子罷通り候。大門開けさせ給え」と門を開けさせた。
      敵陣近くまで馬を進めた柴田父子は、「御陣へ申した事が御座る。大友宗麟家中柴田長門入道礼能息男
      玄蕃允と申すものにて候。余の儀にては候わず、柴田紹安と申す者、御陣に罷立ち候由承り候。対面仕
      らんため罷向ひ候。双方敵対しておれども、われら僅か二人何程の事か候べき、ここを開きたまえ」と、云
      いければ、薩摩の軍卆も是を聞いて、誠に父子二人にては何程のこともしでかさず。と立ち出る者も居な
      かった。ややあって寄せ手より「柴田紹安の儀なればしばらく待たれたい」と返事があった。薩摩陣内では
      紹安へその旨伝えると、紹安は憂い顔で拒んだ。
      薩摩当番の軍卆は「柴田紹安は当陣へ向い候へども、俄かに風邪気に冒され陣所を引き退き候」と答え
      た。柴田長門入道もこれには仕方なく、たとえ父子二人で掛け入っても犬死するばかりと、敵も出てこな
      かった。
      再び柴田長門入道礼能申すには「紹安への体面は久方びりに候。よって一品送り申さんと、「種子島小筒
      一挺」持参いたしたが、体面なければ残念なる事かな。是非なく皆々にお見せ申さん」と薩摩軍勢多くが
      並びたる中より騎馬武者一騎狙い定めて放てば、狙いたがわず射ち落とす。倅玄蕃も、父に遅れじと放て
      ば、是も一人射ち落す。こうして一瞬にして二人を討った。
      心得たりと、寄せての若手も鉄砲持ち出し射ち、柴田父子の共に体の真ん中を射ち通され馬よりどっと落
      ちた。 是を見ていた臼杵城の手の者、急ぎ走り帰り「礼能父子、只今討ち死したり」と呼ばわった。
      この趣を「宗麟」へ言上した。宗麟は「さては、親類にも似ざりし礼能父子が所存、不愍」と泪した。

       この後「柴田紹安」は、わが行為を恥、大友へ帰参しょうと図ったが、島津勢により斬殺される。
      妻子等は、野津院「星河城」へ逃げていたが、これも佐伯氏の手勢に追討され討ち取られる。


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