大友宗麟の大砲                              リンク : 「大友宗麟

     「宗麟の量産した大砲(石火矢:国崩し)がロシアにあった。」 

     戦国期我が国で最初に大砲を輸入し使用したのは豊後の国主「大友宗麟」である。其のことについては
    当ホームページ「国崩し伝来記」「臼杵丹生島国崩石火矢之事」にて詳しく紹介している。
    宗麟は合戦に初めて用いただけでなく、豊後鋳物師「渡辺一族」を「石火矢大工」に命じ我が国で最初に
    製造させたと伝わる。宗麟がポルトガルより手に入れた「フランキ砲」は靖国神社に現存するが、製造した
    大砲は確認されていなかった。
    2011年9月29日付地元紙「大分合同新聞(西日本新聞9月30日)」はその宗麟の量産した大砲がロシア・
    サンクトペテルブルグの国立軍史博物館に収蔵されていることが確認されたと大々的に報じた。決め手と
    なったのは宗麟の洗礼名「ドン・フランシスコ」を図案化した鋳文字「FRCO」が確認されたことによる。
    大砲は青銅製で砲長264cm・口径80mmである。「FRCO]の鋳文字は大砲の中央部砲身の上面に明瞭
    に確認できる
    
  
     大分合同新聞の報道文
  

   
        確認された砲身の
      フランシスコの略の鋳文字
      Fは左に隠れて見えない
    報道によれば、宗麟は天正4年(1576)にポルトガル領インドから大砲を輸入。「大砲を軍事的抑止力」と考
    えた宗麟は、それをモデルに2年後には量産に成功したという。
    1578年ごろのイエズス会の宣教師(ルイス・フロイスか)の残した文書は「豊後国王」宗麟が複数の大砲を
    所持していたと伝えており一致する。
    ロシアに渡った経緯は定かではないが。宗麟の死後継いだ嫡男「大友義統」が。文禄・慶長の役で朝鮮
    出兵の折持ち込んだが小西行長の讒言により敵前逃亡の罪を着せられ改易となる。その後大砲は大阪
    に回収されたが、大坂夏の陣を経て徳川に接収されtとみられている。
    時代は下って200年後の江戸後期、ロシア使節レザロフは幕府に通商を求めてきたが幕府は此れを拒否。
    ロシアを恐れた幕府は旧式の「宗麟の大砲」までを北方領土に配備した。通商拒否され業を煮やしたレザ
    ロフは部下に命じ択捉島などの我が国の北方拠点を襲撃させた。宗麟の大砲はこの時ロシアに強奪され
    たものと見られる。


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