大友宗麟 像                             リンク : 「大友 宗麟

             「大友宗麟」:本名「義鎮」第21代豊後大友家当主
                    享禄3年1月3日(1530)〜天正15年5月6日(1587) 58歳没

            戦国争乱の九州、島津四兄弟、竜造寺隆信、秋月種実、宗像氏貞、筑紫、草野、星野、
           等々、それぞれに戦場での武勇が聞こえる中、「大友宗麟、義統」親子にはそれが無い。
           六カ国の守護にまでのし上がったが、大友家中に聞こえてくるのは、有能な家臣団の武勇
           ばかりである。
           若い頃は粗暴であったとされる宗麟、果たして武将としての器量はどの様であったのか。
           宗麟は存亡をかけた主要な合戦で二度も総大将の任命に失敗している。「今山合戦」の
            「大友親貞」そして「耳川(高城)合戦」の「田原紹忍」である。「親貞」は時の大友系図に
           その名を見出せない。惣領家以外に「大友」を使えなかった大友氏、では「大友親貞」とは
           宗麟とどの様な関係にあったのか。 
            「田原紹忍」こちらは宗麟に諂うばかりで合戦の経験に乏しかったという。
           戦国武将としての宗麟を推し量る一つの判断材料ともいえるが、六カ国の守護を手にした
           手腕をみれば、ほんとに評価の難しい武将である。


                        
                        太刀の下緒(さげお)ピンと張った宗麟の
                        堂々とした像 (JR大分駅前)
                                      
                     
                     臼杵城址 ブロンズ像(日名子実三 1937作 複製)    
                     脇に「国崩し」手には「火縄銃」。宗麟絶頂期の姿       


         宗麟像 「
廃墟


          臼
杵城址のこの像は、戦前の日本を代表する彫刻家「日名子実三(1893〜1945)」の
           大正9年の作品である。日名子実三は紀元2600年建立の宮崎市平和公園「平和の塔」の
           製作者としても知られる。(平和の塔は、戦前は 八紘の基柱 と呼ばれた)
           この「廃墟」の像は、晩年の「宗麟」を表現したものという。芸術家の表現は分らないが
           「朽ちた武将」ということだろうか

           
             
「悲壮」「落胆」「哀愁」「憔悴」「絶望」「孤独」 いくらでも表現できそうなこの像
               そして、おびえたようにも見える。
               晩年の宗麟を表現したというが、西洋に豊後の王とまで言わしめた宗麟のこと
               これほど迄憔悴した姿になったとは思えない。名作とされながら、雨ざらしに
               日ざらし、城址に放置されたこの姿は哀れ。緑青は浮いていたが、幸いにも
               鳥の糞には汚されていなかった。    



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