大友氏水軍 (大分市佐賀関町一尺屋)
ここに書く「大友氏水軍」とは「若林水軍」の事である。
若林水軍とは、豊後大友氏の水軍を支えた海上武士団である。元の氏姓は「橘氏」とされ、下野国桐生
(しもつけのくに)の出とされるが正確な系譜は定かでない。室町時代の早期より大友氏に従ったとされる。
大分市佐賀関町一尺屋を本貫地とし、上浦湾を拠点とした。また、臼杵湾の黒島にも砦を設けていた。
現在の一尺屋港は、海岸護岸、防波堤、波消しブロックなどで固められているが、このHPの管理人が子
供の頃海水浴に来た頃は、美しい砂浜の続く海岸線があった。その頃一尺屋産の「いりこ」は上質で、行
商の人が、大分県内各地を売り歩いていた。若林水軍は豊後東海岸の警護と合わせ、海産物を大友氏
へ上納していた事がうかがえる。
若林水軍が最も活躍したのは、古くには「大友持直」の頃。そして「大友義鎮」の時である。「持直」が姫岳
へ籠もった「姫岳の戦い」では浦衆の支援があったとされ、恐らく当時の頭領「若林上総介源六」の援助が
あったとのではないか。
若林氏の知行地は絶えず変化しているが、大友氏の出した知行預け状は計89点にのぼり、井田郷、永興
(りょうご)、朽網郷、臼杵荘、佐賀郷(佐賀関)内尾一尺屋、野津院、津久見村等々計143貫分に7町の
知行地があった。遠くは筑後国竹野郡にも至る。永禄8年ごろには、豊前国京都(みやこ)郡2ヶ所、築上
郡6ヶ所計44町が確認できるが、豊後国内の知行は不明である。大友政親(16代当主)の頃には一尺屋
の殆どを領有していたと見られている。
天文19年(1550)「大友二階崩れの変」後には、変を起こした「津久見美作」の所領のから、津久見村の
10貫分、同臼杵荘高松15貫分、臼杵荘津久見尾張守跡10貫分などが安堵された。そして「大友義鎮」の
時代になり縦横の活躍したのは「若林鎮興」である。
「鎮興」は天文16年(1547)若林越後守の子として一尺屋にて誕生、幼名は「塩菊丸」、成人し「義鎮」より
一字もらい「鎮興」と称した。官位は中務少輔。文禄二年(1593) 47歳で没した。法名:道円
永禄11年(1568)、立花山城「立花鑑載」が謀反により「戸次鑑連」に討たれると立花山めぐって大友毛利
の争いが激化する。毛利元就の九州北部の対応に中国では、手薄になった毛利氏に対し宿敵尼子氏らが
毛利領へ攻め入った。これに呼応し大友義鎮は、豊後へ逃れていた大内輝弘に兵を与え大内氏再興とば
かりに毛利氏の虚をつかせた。この時、輝弘の警護船団の大将は「若林鎮興」である。永禄12年8月9日
防州秋穂浦に取り付き、自ら敵首一つとり功名あげる。この時鎮興勢は敵数十人を討ち果たし、敵船一艘
を奪い取った。一族あげて参陣した若林勢は、鎮興はじめ若林弾正、同藤兵衛尉、同大炊助、同九郎らが
義鎮より感状が与えられた。
若林鎮興の活躍は目玉しく、以後の海戦に悉く勝利した。元亀3年(1572)の伊予西園寺攻略、天正6年
(1578)日向侵攻、天正7年島津水軍との火振沖合戦、同8年22日には謀反の田原親貫支援の毛利水軍
数十隻が安岐浦へ入港しようとしたが、是を遮りを追討した姫島沖合戦で大きな武功をあげたこの時も、
敵船一隻を分捕り、大友水軍は完全に海上を制圧した。。
天正14年(1586)豊薩合戦後の恩賞では、高田荘内、野津院内、佐賀郷内に計87貫分。多聞院赤井5貫
分、筑前野間口25町分の加増を得ている。天正16年6月には、佐賀関の管理を若林氏に委ねる旨の条々
が大友義統より発せられている。鎮興は文禄の役(1592)に水軍として出陣しているが、義統改易後浪人、
文禄2年伊予二間津で没した。
大分市佐賀関より国道217号を海沿いに南へ6〜7km一尺屋上浦(うえうら)地区。上浦漁港道路沿いの
岸壁の上に若林水軍のものとされる石柱が立っている。墓と見られる石碑は阿蘇溶岩一枚岩の自然石で
二つ。高さは二つ共120cm位か。右の石碑は太い文字で「南無阿弥陀〇」と読める、左は「法号・・・」と読
めるが、両方とも周囲の細かい文字は削り取られたものか、風化なのか読めない。

国道217号の道端、一尺屋上浦漁港の岸壁にたつ若林水軍石碑
右のものは、中央に南無阿弥陀仏と彫られている。左は上部に「法號」、
下の方に「海、鯨」の文字が読める。
一尺屋海岸は、内陸に生まれたHP管理人が始めて海水浴に行った
海岸です。当時は、美しい砂浜の海岸が開け岸壁もなく、この写真に
見える消波ブロックなどなかった。大きく様変わりした。

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