大友義鎮出奔・剃髪宗麟之事



        「
戸次鑑連」涙しての諌言にも「大友左兵衛督義鎮」猶も美女を呼んで遊ぶ遊興癖は収まる事は
        一向になかった。
       この「義鎮」の行状に、「北の方(奈多夫人)」の妬(ねた)みに、イライラは極限に達していた。
       自ら国中の僧、山伏に申しつけ「義鎮を呪詛する」との風聞を流布した。
       この風聞に「義鎮」は怒り心頭、誠のことと疑い、国中の僧、山伏をことごとく搦捕らえ死罪にせよと
       命じる始末であった。
       その折、加判衆「吉岡三河守長増」は、義鎮を必死に宥め僧山伏を悉く追い払い、その所帯を悉く
       没収し、取り合えず義鎮の怒りを治めた。それからやがて「義鎮」の所行がおかしくなったのである。
       ある日の夕方、義鎮は庭に下り立ったまま行方が分からなくなった。「お屋方さま」がいなくなったと
       の噂に、一族譜代の者はじめ、家中の諸士は我先に「大友館」へ登城する騒ぎとなった。家中皆々、
       残すとこなく城中を探したが義鎮の姿は無かった。
       重臣らは、義鎮の近習の者ことごとく縛(いましめ)、厳しく糾問したが誰一人として、義鎮の行くへを
       知る者は居なかった。皆々、暗夜に灯かりを失いたる心地で呆然とするばかりであった。そんなおり
       宗像兵庫助、「北の方の仰せによって、呪詛によってお屋方様殺(し)いいたらしめた」との流言を沙
       汰してしまった。このことに多くの宗徒が怒り、「北の方」の館を取り囲み、事の是非を糾問した。
       この仏教宗徒の動きに恐れをなした兵庫助は、災いを避け暫く行方知れずの逐電をしてしまったの
       である。
       義鎮が行き方知れずになって四、五日経ったころ、豊前「彦山」に義鎮の姿を見かけた者がいると
       の噂が流れた。この風聞に府内では我も吾もと彦山へ向かい、山中を尋ね歩いたが義鎮の姿も、
       跡形も無くまったくの虚説であった。また、肥後修験の坊阿蘇山に坐しますなど皆勝手に取り沙汰す
       るが一向に所在が知れなかった。
       家中途方にくれる中、ある日「義鎮」が上原という所の民家に現れた。との知らせに驚き、家中の者
       が馳せ参じると、義鎮の様子は異様であった。十余日もの間どこに居たかもわからいない状況であ
       家中の者たちは、もはや神仏の御加護にすがるほかないと、連日種々祈祷医療を尽した。其のかい
       あって、義鎮は数日後ようやく体調を回復した。
       蘇った義鎮は人が変わったように参学に励むようになった。 義鎮は京洛北「大徳寺」の「怡雲和尚
       (いうんおしょう)」を招き深く崇敬し行を修めた。
  
       こうして永禄5年5月朔日「義鎮」は剃髪し「
瑞峯宗麟」と号することになった。これを機に大友家中は
       「
戸次丹後守鑑連・道雪」「田原近江守親賢・紹忍」「志賀伊予守・道輝」朽網、一萬田など重臣三十
       余人に上った。
  
 
                          
                           
宗麟像 大分県史 中世編Vより


                                            参考資料   九州緒家盛衰記
                                                     豊肥軍記集  


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