西の大友立花山城  立花鑑載謀反
                         筑前大友五城


    

  「立花山城」 
  
立花山は、福岡市東区香椎の東に横たう山並み、新宮町、久山町との境界が一点に交わる場所にある。
  頂上に立つと眼下に博多湾が広がり、博多、福岡の市街地が一望できる。好天の日には老若男女、多
  くの登山者の訪れる憩いの山である。今も楠の大木が原生し豊かな自然を残す。古くは双神山と呼ば
  れた。山容はほぼ東西に起伏の山並みが連なる。
  主峰は立花山(367m)北西に松尾山(349m)、白岳(315m)が位置し、これにツフラ尾山などと呼ば
  れる小峰がくっ付き山体を構成、総称して立花山という。

  「筑前国続風土記・立花山古城冒頭部分」
 
  昔は二神山と云。いつの比よりか立花山と號せり。此山七峯有。南にあるを本城と云、最高し。又井楼山と云平
   なる所一段許有り。本城の北に水の手あり。山の腰より谷水いづ。其西にあるを松尾(まつのお)と云。其上の平
   なる所五六畝あり。松の尾の西なるを白岳(しらたけ)と云。本城の西にあり。其上平なる所一段許有。松尾の南
   なる。ひきき山を大つぶらと云。大つぶらの南なる、いとひきき山を小つぶらと云。本城の東にある小山を大一足
   と云。又其東にある小さなるを小一足と云。すべて七峯也。・・・
 
  地質は隣接する三日月山境付近まで全山閃緑花崗岩で成っている。
  元徳二年(1330)立花山に山城が築かれる。築城者は
大友貞載豊後大友氏6代貞宗二男。
  以来立花城は「西の大友」として筑前、筑後の歴史に深く関わる。
  築城の由来は確かでないが、外敵警護の大友氏持場が香椎浜一帯であったこと、商都博多を西に控え、
  筑前筑後の広大な穀倉地帯を統治するに要の場所であること、このことは、後年中国大内氏、毛利氏
  らと争奪を繰り返えすなど、この山が筑前統治の要とみたこと。
  また、大友氏の7代家督を弟五男千代松丸(氏泰)が継いだことなど考えられる。

                  
                                 立花山遠望(古賀市青柳)
                   左立花山(367m)中 松尾山(349m)右 白 岳(315m))
                   手前に微かに右 三城岳(155m)左 前 岳(159m)



  立花山城は東西の御殿、松尾山、白岳(九州諸家盛衰記は西城)に離城の四城で構築されていた。
  さらに海沿い名島に出城の名島城があった。
  立花山は見た目にはなだらかであるが、花崗岩の急崖多く天険の要害である。東城の西側に馬責場を
  設け、大手門は北面現登山道を登ったあたり、城域への大門は立花口付近にあった。縄張りは相当
  広範囲である。米比多文書古文書の記述より、立花城の主要な行事は西の御殿で行われていたのでは
  ないかと思われる。400年経過した今にちでも、石垣や古井戸、曲輪跡、曲輪の切掘り時の石を捨て
  たと見られるもの、また離城松尾山には多くの焼成瓦片が残る。 

        
 
              立花山西城御殿跡            東城跡 七面大天女、立花大権現碑

            
            西城下り松尾山への曲輪跡の石垣      井戸跡 今も水を湛えるが余りにも小規模
                                  立花山は花崗岩、山腹での地下水の涵養は
                                 低い。通常の水場は、北側の沢筋から修験坊の
                                  滝あたりであろう。

           
           松尾山館跡の瓦片、焼成温度は低そう            松尾山山頂

          
                 名島城址               西城址より左白岳、右松尾山望む


 「
立花鑑載謀反
 
   立花城は初代貞載以後、
     
       
貞載ー宗匡ー親直ー親政ー宗勝ー鑑光ー鑑載ー善親鑑連ーァ千代ー宗茂

  と
受け継がれる。この歴史の過程で見逃せないのは7代鑑載の謀反である。
  永禄8年5月(1565)立花鑑載は大友家に叛乱する。大友氏にとっては晴天の霹靂であった。理由は
  明らかでないが高橋鑑種らと宗麟執政に対する何らかの不満があったと思われる。
  宗麟は直ちに
戸次鑑連、吉弘鑑理を征伐に送り鎮圧鑑載は一旦は降服する。
  永禄11年2月立花鑑載は再び反旗を挙げる。この頃大友氏を取り巻く情勢は、永禄10年7月の宝満城 
  高橋鑑種(大友一族一万田氏)の謀反をきっかけに、永禄10年8月より9月の秋月討伐では同月3日
  秋月種實夜襲戦(休松合戦)における大友軍の実質敗戦に伴い、毛利の干渉は一段と強まる。
  筑前筑後では秋月、麻生、筑紫、宗像、原田といった國人領主たちの反大友の輪は広まっていった。
  永禄11年4月中国毛利軍は、筑前原田、高橋鑑種らに先導され清水左近将監率いる八千余騎が芦屋に
  押し寄せる。これに筑前宗像、豊前麻生といった多くの諸将が応じ参陣した。状況を見計らっていた
  鑑載は再び反旗を挙げ毛利に支援要請。反旗の気配は立花城重臣薦野城薦野三河宗鎮、米多比大学に
  悟られていたが鑑載は二人を酒宴の席で謀殺してしまう。
  鑑載は白岳を守っていた怒留湯融泉(戸次一族)をも襲うが融泉は落ちのび大友へ急報する。
  鑑載の兵力は毛利の支援清水左近将監の八千に、立花勢、原田、高橋勢など筑前の加勢合わせ一万余。
  これに大友軍は豊州三老、鑑連、鑑速、鑑理に志賀道輝に率いられた二万三千で立花山を囲む。
  永禄11年4月24日大友軍攻撃開始、立花勢は小勢ながら激しく抵抗、戦いは熾烈を極め崖下の戦いでは、
  鑑連は至近距離から弓で射抜かれそうになり、家臣が身を以って盾となり一命を拾う。この窮地は、
  戸次刑部ら戸次の手勢が駆けつけ切り抜ける。こうした戦況の中、鑑連は鑑載の将野田右衛門大夫と
  密かに内通する。
  右衛門は大友軍を大木戸へ誘導、是により木戸を破った大友軍は城内へ雪崩れ込み立花城は陥落。
  支援の毛利勢清水左近らは引き上げる。
  立花鑑載は僅かな手勢で落ち延び。一旦北へ向かい古子山で体制を整えようとするが叶わず、海を目
  指すして逃げようとするも野田右衛門が察知する。これを鑑連の手勢八千余が追い詰め、鑑載は山中
  に入り腹十文字に掻切り、喉突き刺し立ちすくんで死ぬ。14人の武者も遅れじと腹を切る。
  自刃にあたり鑑載は裏切った野田右衛門を激しく罵り果てたという。筑前國續風土記によれば野田
  右衛門について「立花家重恩の者にて云々、利欲にふけり恥辱をかへりみず云々」と書いている。
  合戦の裏切りはどこにおいても後世まで評判悪い。
  鑑載の首は「川原太郎次郎」によって豊後へ持ち帰られたが、「此所に躯(むくろ)埋めるしなる
  べし」と村民は埋葬供養した。「鑑載」の「首無し塚」が古賀市青柳の竹やぶに囲まれた郷社三柱
  神社に残されている。元は別の場所に在ったとされるが「風土記」には「立花鑑載の墓」として
  「青柳の南なる小高き山の上在り、村民其の所に少なるわらやを立て置けり」とあるので、記述と
  整合する。元からこの場所でなかったか。
  また、鑑載の妻子が追ってから逃れ隠れる中、泣く子を念仏を唱えあやしたという悲話が伝えられる
  「夜泣観音」も福岡県新宮町国道三号線須川交差点を立花小学校方向へ少し入った所右手にある。


  立花山城はこの後さらに毛利氏との争奪が行われ再度、毛利氏に占拠されるが多々良川の戦いに戸次
  鑑連が勝利したことをきっかけに、毛利が開城、大友氏のものとなる。

              
                   立花鑑載 首無し塚(青柳三柱神社)         
                   左の碑に微かに立花と読める文字あり
 
    


   
                             参考資料 立花城興亡史(吉永正春)
                                  戸次軍談(巻1,2 大分県立図書館)

                                  筑前國續風土記(27 立花山古城)中村学園大学公開
                                  九州諸家盛衰記(豊肥軍記集、立花落城)




                                   表紙へ