田原 紹忍

        「愚将田原親賢

    剃髪、号して 「田原 紹忍」 : 大友義鎮、義統の重臣。民部大輔、尾張守、近江守。
   「紹忍」は名を「親賢(ちかかた)」と云い、出生年は明らかでないが杵築「奈多八幡宮」宮司「奈多鑑基」の次男と
   して生まれた。母は名門「田北氏」の出である。妹は「大友義鎮(宗麟)」の正室、通称「奈多夫人」。
   奈多氏は奈多八幡宮の大宮司家であるが、父「鑑基」が大友氏の寺社奉行へ任じられ多くの合戦に出陣、武士
   化する。「親賢」は大友氏諸家御三家の一つ、「大友能直」異腹の「田原氏」の分家「武蔵田原家田原親邦」の
   養子となってのち頭角を現す。「親賢」は妹が義鎮の正室とあって重用された。永禄8年には加判衆に加えられて
   いる。それでもこの頃は長老「吉岡長増(宗歓)」「臼杵鑑速」らが健在で、親賢も彼等と行動しており、謀反の疑
   いの長野筑後守討伐や「戸次鑑連、臼杵鑑速」らとともに門司城攻めにも加わっている。 
   天正に入り「長増」「鑑速」が相つぎこの世を去り、「戸次鑑連」は立花山城督として筑前筑後の統治に追われ豊後
   になく、親賢は義鎮(宗麟)の寵愛をいいことに権力を振るい、天正期には、筑後、肥前、豊前方分となる。その処
   遇は破格であった。そしてやがて親賢の武将としての資質を問われる事になったのが天正6年日向出陣である。
   長く日向に君臨した伊東氏も、「義佑」が元亀3年5月真幸院「木崎原の合戦」に大敗。日向国内は島津義久に駆
   逐されていく。そして遂に天正5年12月「伊藤義佑」は豊後へ逃れ「大友宗麟」を頼る。それまで日向伊東氏と豊後
   大友氏との狭間にあって、バランスしながら北部日向を所領してきた縣(延岡)「松尾城」の「土持親成」も、遂に
   「義久」と和睦する。是を知った「義鎮」は天正6年3月15日、嫡男「義統」を総大将に三万の軍勢で松尾城を落し
   「土持親成」は捉えられ自刃させられる。
   この時期豊後国内は、宗麟の切支丹信仰傾注や親賢の横暴などへの不満が鬱積していた。こうした中、縣攻め
   に島津の後詰めがなかったことから義鎮は島津の力を侮った。縣侵攻で止めておけばよかったものを、義鎮は
   日向に切支丹王国を築く等と云う妄想にかられ、再び日向侵攻を決める。これには重臣や軍師「角隈石宗」らは
   国内対応優先すべきと強く反対したが、義鎮にへつらう「親賢」が同調し押し切る。 そしてその結果が、現在まで
   も親賢の無能武将としての評価が定着してしまうのである。
   日向侵攻総大将は「田原親賢」、親賢は合戦の経験に乏しく雌雄を決する大合戦指揮の経験はない。今流に言え
   ば合戦音痴である。義鎮は、今山合戦に無能な「大友親貞」を総大将に立てた様に、「親賢」の武将としての資質
   を見誤った。親賢は小さな小山「高城」に籠もる島津の将「山田有信」を攻めきれず、やたらと日時を費やす丈で
   有効な戦法を見だせず大軍を掌握できなかった。結局こん日に言う「高城耳川の戦い」に大敗、大友氏は一気に
   凋落の道へと進む。この時、「親賢」の行動が情けない。敗戦濃厚の中、親賢はいち早く逃亡。皆は戦死したもの
   と推測したが一か月も過ぎて突然姿を現す。この行動により領地を本家田原氏へ宛行されるもいつしか再び地位
   を回復する。
   天正8年には「田北紹鉄」を讒言により謀反者にしたて、止む無く逃亡はかたった紹鉄を日田で捉えさせ殺害する
   など謀略をめぐらす。豊薩合戦の折「戸次鎮連」は島津へな内応したとして義統に誅罰されるが真相は戸次一族
   
がけむたい親賢の讒言とする説もある。
   天正14年12月12日「戸次川の戦い」敗戦濃厚となった総大将「義統」は戦場放棄、府内を脱出「田原親賢」が
   支配していた要害豊前龍王城(安心院)まで逃亡する。間違いなくこれも親賢の策によるものであろう。叔父と甥
   っ子の関係の「親賢」と「義統」、合戦で逃げることしか打つ策をもたなかった。
   文禄2年(1593)「大友義統」、朝鮮出兵時の失態により改易。「田原親賢」は秀吉より3000石を与えられ、豊後
   直入郡「岡城:中川秀成」の与力として召抱えられる。
   そして「関ヶ原」。義統は浪々していたが、嫡男「義乗」を家康に預け、加藤清正、黒田如水らと「家康」に味方する
   ことを申し合わせていた。しかし西軍の総大将「毛利輝元」の「豊後一国安堵」とのしたたかな挑略に乗せられ、
   あっさりと西軍に加担する事を決意してしまう。
   慶長5年9月14日(1600)、「関ヶ原の戦い」の前日行われた義統の別府「石垣原の戦い」。義統は、黒田如水、
   時枝軍の前に大敗、大友氏の再興は露と消えた。
   この合戦に際し「田原親賢」は、岡城より旧君の旗あげに参陣する。しかしこの時親賢は、またしても胆略的な行
   為を行う。こともあろうに東軍であった「中川家」の旗印(紋旗)を無断で持ち出し、義統陣中へ掲げてしまう。
   この行為は「家康」の中川秀成への不信を招く。驚いた中川秀成は、家康の不信を解くために、西方臼杵城の
   「大田一吉」を攻める事となり重臣等を出陣させ「佐賀関の戦い」となる。岡藩舟奉行「柴山勘兵衛」預かりとな
   っていた親賢も是に従い出陣。しかしこの出陣でも親賢はさらに胆略行為を働く。
   かって、田原本家と所領を争った時「宇佐宮」を焼き討ちする狼藉をおこなった。親賢は佐賀関でもこの焼き討ち
   戦法をとる。村々に火を放ち焼き払い、遂には住民の信仰厚い「関神社(早吸日女神社(はやすいひめじんじゃ)」
   へ火を放ったため、神主「関作之丞」の怒りをかい、戦局は一気に大田方へ靡き中川勢は大田方の激しい攻撃 
   を受け、中川氏は名のある重臣の多くを失う。
   そして「田原親賢(紹忍)」も戦死する。時に慶長5年10月4日(1600)であった。

                       
                     「佐賀関の戦い」田原紹忍が火を放ち神主の怒りを
                     かい敗戦へと戦況の傾いた早吸(速吸)日女神社。
                     この神社は「蛸」との縁が深く、御神宝の「神剣」は
                     神武天皇東征のおり、蛸が速吸瀬戸で守っていた
                     剣を二人の海女神が持ち帰ったものと伝えられる。
                     奥の「総門」は県指定有形文化財。「石鳥居」は市
                     指定有形文化財。建物の多くが文化財指定。
                     佐賀関は熊本藩領で加藤清正や細川家の庇護が
                     あった。

   田原紹忍の墓現在は失われて存在しない・・か。・・・?
    「田原紹忍(親賢)」の墓は、大分市佐賀関町上浦(うえうら:旧佐賀関町)にあるとの情報をもとに訪ねた。
    (田原紹忍の墓の事は、紹忍が佐賀関合戦時に支えていた「岡藩の学者:唐橋世済」の書いた「豊後国史」に
     記述がある。国史によれば・ 
田原紹忍墓:並在佐加郷佐加関左義長崖 ・ とあって,紹忍の墓は佐賀関の
    長崖に並びあったことを伝えている)
    随分と上浦地区を歩いて捜し歩いたが、其れらしきものは見つけられなかった。そこで地元の地理には詳しい
    タクシーの会社を訪ねたが誰も知らないという。
    最後に大分市役所「佐賀関支所」を訪れた。上司の人が懇切丁寧に佐賀関町史で調べてくれたが、それでも
    わからなかった。地元の史家の人にも電話で問い合わせてくれた。その方のお話では、以前峠の道沿いにあ
    ったが道路工事で壊され、残念ながら今は存在しないとの事であった。豊後国史の付図にも書いてあるとの事
    で大分県立図書館で付図を克明に読んだが見出せなかった。おそらく支所の南の高台、国道217号の峠沿い
    にあったと見られる。

                                               参考 : 早吸日女神社由緒ほか


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