高橋紹運(吉弘鎮理)



             天文17年(1548)〜天正14年7月27日(1586) 39歳没 戒名:天叟院性海紹運大居士
                                                 墓所:岩屋城址 首塚:二日市京町
             幼名千寿丸〜弥七郎(孫七郎とも)〜吉弘鎮理〜高橋主膳兵衛鎮種〜剃髪して高橋紹運
             父:吉弘鑑理  母:大友義鑑娘  兄:鎮信  姉妹:大友義統室、片賀瀬城主戸次鎮秀(宗傑)室
             正室:斉藤鎮実妹(宋雲尼)
             子:統虎(立花宗茂)、統増(高橋統増)


   1)生い立ち
     高橋紹運は旧名を吉弘鎮理(しげただ)といい、豊後国国東郡都甲荘の屋山城(八面山)城主:吉弘鑑理(あきただ)
     の次男として生まれた。幼名千寿丸、後に弥七郎。吉弘氏は大友一族田原氏庶流で国東郡武蔵郷都甲荘長岩屋を
     本貫地とする在地有力領主であった。応永年間には室町幕府の小番衆(将軍直轄警備職)務めた。
     都甲荘に入った吉弘一族は六郷満山の中山(なかやま)に属する屋山の長安寺入る。鑑理の時代には六郷執行と
     なり武士による六郷支配体制を確立した。
     吉弘氏は武勇の誉れ高く鎮理の祖父吉弘氏直は勢場ヶ原の戦では総大将として大内勢と戦いにて討ち死した。
     父吉弘鑑理は戸次鑑連、臼杵鑑速と共に豊州三老に数えられる宿老で、大友義鑑、義鎮2代に仕え大友を支えた。
     武闘派の鑑連に対し知勇に富んだ武将である。鎮理の兄鎮信も有能な武将で、父鑑理病死後は屋山城を継ぎ大友
     義鎮の側近となった。門司城奪還攻めには軍大将として出陣、毛利との戦いで激戦指揮する。しかし高城の戦いで
     は総大将田原紹忍の無策のもと乱戦に巻き込まれ戦死する。また石垣原の戦いでは旧君大友義統の旗揚げに参じ、
     これまた討死した吉弘嘉兵衛統幸は鎮信の嗣子で鎮理の甥子にあたる。 「吉弘嘉兵衛統幸
     吉弘氏の本城は屋山城(八面山)であるが、日常は麓の長岩屋の「筧城(かけいじょう)」を拠点としたとされる。
     鎮理の出生時の詳細は定かでないが、岩屋城玉砕自決時の年齢(天正14年・39歳)年次から逆算すると天文17年
     (1548)生誕、長岩屋のやかた(館)筧城で誕生したとみられる。
     (注:筧城の場所は明らかではないが、長岩屋川沿いの堀之内とも、吉弘氏の菩提寺金宗院跡とも推定されている。
      金宗院跡はには、石積みや仁王像など遺構が多く残る。吉弘統幸の「首級」埋葬した墓がある。)

   2)初陣
     弥七郎(鎮理)の初陣働きは定かではないが、永禄4年(1561)兄鎮信が軍大将任され出陣した門司城奪回である。
     弥七郎14歳であった。(おそらくこの年元服 吉弘鎮理となった)その後永禄10年〜12年(1568)宝満山高橋鑑種の
     謀反にたいし父鑑理、兄鎮信とともに出陣した。鎮理20歳。後年、鎮理は宝満城督としてへ戻る。
      
   3)嫁取りの逸話
     鎮理には父鑑理と大友氏の侍大将斉藤鎮実との間で、鎮j実の娘を鎮理の許嫁とする約束が出来ていた。鎮実の
     妹は温和にして気立てよく鎮理も心に決めていた。ところが妹は当時のはやり病痘瘡に冒され顔が変わってしまって
     いた。このため鎮実は、吉弘側の早く祝言をとの申し入れに「妹ははやり病にかかり容貌が変わってしまった、嫁に
     はやれ」ないと断ってきた。これに鎮理は鎮実に向かい「これは異なことを申される。それがしが妹御を妻にとお願い
     したのは妹御の気立てであって、決して容姿ではありません。容姿が変わったとしてもその心に変わりないはず、ど
     うして約束を違えることが出来ようか」と婚儀をすすめたという。そして千熊丸(統虎:後の立花宗茂)が誕生した。
      
   4)吉弘鎮理〜高橋鎮種〜高橋紹運へ
     永禄12年(1569)、2年有余にわたって毛利、秋月に余同し、大友に謀反抵抗していた宝満山城主高橋鑑種が降参。
     大友義鎮(宗麟)は許さず、討伐にあたった参老戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速の三将は鑑種を切腹させると決め
     ていたが、鑑種の一族一万田氏の命乞いにより領地没収の上小倉に送られた。
     元亀元年5月(1570)大友義鎮(宗麟)は、23歳の鎮理に宝満、岩屋の二城の城督命じ、自らの片諱「鎮」一字与え、
     名門高橋の通字種つけを高橋鎮種となった。以後鎮種は立花山戸次鑑連(立花道雪)と共に筑前、筑後に於ける
     大友氏の要として、激動の天正期を獅子粉塵の活躍をする。 天正6年には31歳(当時は数え歳)にて剃髪「高橋
     紹運」と称す。

   5)高橋紹運の家中対応
     「紹運」が高橋家への迎えられたのは、高橋鑑種の重臣であった北原鎮久が中心となって実現した。紹運の入った
     高橋家の家臣団は複雑で、吉弘本家より引き連れた家臣、大友義統の差し向けた家臣もいたが。殆どは高橋家累
     代の家臣が占めていた。 元亀元年11月25日の大友宗麟が高橋家を継がせた時の宗麟書状には「高橋家長臣、
     屋山、伊藤、福田、村山、今村の五人よく取り立てて宝満、岩屋両城を堅く守るように」とある。このことは「高橋記」
     の高橋家再興の条にも記述される。
     『高橋記とは慶安4年・5年(1651〜1652)に伊藤氏の後裔「伊藤源右衛門一蓑」が取りまとめたもので五十三の項
     目からなり、一の高橋氏の由来より主だった出来事を項目別に記述。たとえば十七には長男統虎が道雪の養子と
     なったこと、二十・二十一には紹運、道雪の筑後攻略、三十五には紹運の自決。そして末尾には先にも書いたが、
     斉藤氏と紹運の婚姻にまつわる逸話が書かれている。(川添昭二箸:中世九州の政治文化より)』
     紹運は高橋家累代の北原、屋山、伊藤、福田、村山、今村らに支えられて家中を取り纏めていった。しかし大友氏
     への忠義一途で、時勢の変化に柔軟に対応しないと紹運を批判、高橋家迎い入れの中心あった北原鎮久がその
     功におごり家中で強い力を持ち、他の重臣と勝手に婚姻結び被官関係つくるなど専権化を強め、秋月種実へ通じた。
     鎮久は北原能登守を名乗る旧高橋家譜代の臣であったが鑑種反乱が鎮圧されると大友に余同し紹運にも重用さ
     れ支城の龍ケ城を預けられていた。此の鎮久の謀反は密かに紹運の知るところとなり、紹運は知略をもって鎮久を
     誅した。ともすれ高橋家中には秋月、筑紫と好みの家臣もいて、反紹運に転ずる危険を常にはらんでいた。鎮久の
     誅罰は紹運にとって何かと重しになっていた家中の批判勢力(重臣の間には紹運批判が底在していた。)を抑え、
     大友氏支持への忠義と信念のもとに家中の結束を強化する転機となった。
     特に謀反人鎮久の嫡男であった北原進士兵衛種興を誅することなく説得し、龍ケ城の秋月勢を知略を持って壊滅
     させたことは紹運への信頼をおおいに高めた。紹運は家臣の軍労、軍忠についても其のことを大友家に逐一上達。
     このことは天正8年や天正11年の簗瀬三河入道や屋山中務少輔などへの大友義統の感状で明らかである。
     こうして紹運は大友氏への忠義を信念として家中をひとつにした。

   6)統虎立花道雪の養子とする
      天正9年8月、紹運は立花道雪(戸次鑑連)の強い要望に応じ、ついに道雪の娘「ァ千代」の婿として養子とするこ
     とを承諾。紹運は出立に際し統虎へ、自身の備前長光の太刀を与えこう告げた。「こののち、道雪殿がお前の父で
     ある。この争乱の世、いつ敵味方として戦うやもしれぬ。その時お前は立花家の先陣にたち、このわしを討取れ、道
     雪殿は卑怯未練のふるまいが大嫌いである。仮にお前が道雪殿と離別するようなことあらば二度とこの城に戻って
     はならない、その時は潔くこの太刀で自害せよ。」まさに忠義ひと筋の紹運の言葉である。
   
   7)紹運年表         
年 次  西 暦    出来事    場 所             概 要
 天文17年  1548  出生
豊後国国東郡
都甲荘長岩屋
 筧城にて誕生
 永禄4年頃  1561  門司城奪回
     初陣
 豊前門司  
 弥七郎初陣 14ないし15歳(おそらくこの頃元服)
 兄鎮信とともに出陣:吉弘鎮理となる
 大友軍は15,000の将兵で毛利に奪われた
 門司城奪回の攻勢かけるが、地の利と毛利水軍
 との機動力に差があり果たせず退く。
 帰還中毛利水軍の待ち伏せ受け多くの損害。

 永禄9年ごろ  1565  婚姻(18歳)  筧 城  
 大友氏の侍大将斉藤鎮実妹(宋雲尼)と結婚
 
 紹運の婚姻については逸話がある(前記)

 永禄10年〜
     11年
 1566〜
   67
 高橋鑑種討伐  筑前宝満山
 高橋鑑種は有能な武将であったが、大友義鎮
 には遺恨があったという。大友の被官離れ専権
 化を狙う。毛利、秋月と通じ謀反。
 大友義鎮は戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速を
 派遣。毛利勢の立花山撤退により鑑種遂に降参
 小倉へ移される。

 元亀元年  1570  宝満山城城督  筑前大宰府
 吉弘鎮理、宝満山城に入り高橋鎮種。
 宝満。岩屋の城督となる。23歳
 鎮種は妻子伴い筑前へ大宰府へ。


 元亀2年
    2月7日

 1571  鎮種(紹運)父
 吉弘 鑑理没
 不明
 吉弘鑑理は高橋鑑種討伐出陣後体調壊し病んで
 いた。一旦は立花山城城督を命じられたが、病気
 のため立花道雪が立花山城督となったとされる。
 
 天正5年
   12月1日
 1577  宝満岩屋攻め  太宰府
 竜造寺、筑紫、秋月の三手宝満、岩屋城浸入
 数日に渡り攻撃するも、宝満、岩屋の備え堅く
 引き退く。

 

 天正6年
 1578  高橋紹運へ  大宰府  鎮種31歳で剃髪 高橋紹運と号す

 天正6年
   12月1日

 1578  柴田川の戦い
(柴田川とは
  宝満川のこと)
 天山、針擦
 大宰府 
 
 柴田川挟んで秋月種実、大友紹運、道雪の戦い。
 秋月は筑後勢引き連れ天山(筑紫野市)に本陣置く。
 対する紹運、道雪は柴田川挟んで針擦に陣。
 軍勢は秋月が圧倒したが大友軍よく戦い、紹運道
 雪は思うところあって徐々に軍勢を二日市方面へと
 退きはじめた。これの種実は好機とばかりに追討は
 じめ、ついには二日市過ぎ大宰府の岩屋城下白川
 へ至った。さすがに秋月家中からも深追いへの懸
 念が出たが、種実はこの好機を逃してはならぬと群
 を進めた。この時すでに紹運、道雪は2000の軍勢を
 伏せていた。これが一気に鬨をつくり襲いかかった
 ので、土地不案内の秋月勢は混乱退き始めるも、
 その先に大友の旗幟が群立していた。
 これは紹運の立てた虚旗であったが、秋月勢は大友
 の援軍に後詰されたと勘違い二日市を大きく迂回し
 這う這うの体で引き揚げた。
 この時、大友勢の討取った秋月勢の甲首含め首級は
 300に上った。
   詳細は「紹運の智謀(柴田川の戦い

 

 天正7年
   1月中旬
       1579    岩屋城下の
       戦い
 大宰府
 岩屋城下
 
 昨年末、秋月種実は柴田川にて紹運、道雪の巧み
 な戦法により多くの損害出した。このの遺恨返しと
 ばかりに秋月、筑紫の5000が岩屋城下へ攻め込
 んだ。岩屋城の城代屋山中務は果敢に打って出て
 秋月勢を散々に追い散らし戦功上げろ。これに紹
 運は感状与えた。
 
 天正7年4月  二日市の戦い  二日市
 秋月、筑紫勢は再び岩屋城下へ攻め込んできた。
 しかし紹運の守りは堅く種実も容易には攻め込めな
 かった。 戦況はこう着状態、豊後大友義統は志賀
 道易を主軸に大友軍派遣。大友旗下のの小田部な
 ど筑後勢も加わったが、秋月には宗像、麻生、許斐
 に、元は大友の大鶴鑑尚らが余同し大友勢を包囲
 危機に至ったが、ここでも紹運、道雪の働きで危機
 脱出。紹運が大友筑後勢の支援が来るとの虚報を
 流し、驚いた秋月勢は撤退する。

 
 天正7年6月  大宰府合戦  大宰府
 秋月、筑紫連合大宰府へ
 高橋、立花勢これを撃退

 天正7年
   7月27日
 観世音寺の
       戦い
 種実岩屋襲撃
 大宰府
 秋月種実、筑紫広門、原田連合軍3000大挙して大
 宰府へ侵入。紹運、立花勢観世音寺に出て戦う。此
 の隙狙って種実岩屋城襲うも撃退される。
 高橋、薦野、立花勢総勢2800余、紹運1000は筑紫
 勢に。道雪1500は秋月に対峙。一気に攻めかかり秋
 月、筑紫敗走。
 薦野増時300は先回りして観世音寺へ。敗走してくる
 秋月、筑紫勢を痛撃したので敵軍散りじりに敗走。。

 
 天正7年9月  鞍手進出  不明
 立花道雪、高橋紹運鞍手郡を襲う。
 
 天正7年
   10月24日
   
 鷲ケ岳開城
 岩戸合戦
 岩屋城攻防
 南面里、岩戸
 大宰府

 9月大友の安楽平城落とした竜造寺隆信は10月佐賀
 より太田兵衛4000の軍勢で坂本峠こえ筑紫広門と
 ともに鷲ケ岳麓南面里に陣を敷いた。
 鷲ケ岳危急の報に紹運は岩戸に陣を進める。
 これに太田兵衛は、紹運後詰ときいて一旦陣を退く。
 しかし筑紫勢は陣を退かなかった。
 これには秋月との間に談合があった。紹運を岩戸に
 引き止め、留守の間に岩屋城攻める手はずである。
 談合の通り秋月種実の5000余が岩屋城下へ押し寄
 せた。危急は屋山より紹運へ注進があり岩屋危急に
 紹運は陣を退くことにした。戦は退く時が最も危険。
 退く高橋勢に筑紫の2000が突きかかてきた。高橋
 勢は厳しい状況になったが、萩尾、荒川、土岐、成富
 の諸将が殿勤め筑紫勢を押し返し紹運は岩屋いる。
 秋月勢4000余は大宰府の高雄山辺りまで浸入して
 いたが屋山、土岐福田等が討って出て押返し、秋月
 勢は若干の戦死だし退く。しかし筑紫勢はなおも攻め
 かかり高橋勢入り乱れて争う中に、立花道雪軍到着
 筑紫勢の背後から鬨を造ったので慌てて退く。   
    詳細は 「鷲ヶ岳城

 紹運、筑紫の岩戸対決は12月17日とするものがある。
 別の戦いであろうか。

 
 天正8年
   10月2日
 1580  北原 鎮久  岩屋城中
 高橋家の重臣で龍ケ城を任されていた、北原鎮久は
 大友氏一辺倒の紹運を臨機応変の対応出来ないと、
 秋月種実に通じ、紹運追放を企てるも紹運の知ると
 ころとなり岩屋城で謀られ誅される。

 天正8年
   10月18日




 蘆木の惨劇



 蘆木山
 龍ケ城
 
 紹運は謀反の北原鎮久を誅したことを利用、龍ケ城
 に籠る秋月勢の掃討図る。
 鎮久の嫡男北原進士兵衛は父の謀反の企ては知ら
 なかった。この時代謀反一族は同時に殺されるのが
 常であったが、進士兵衛は忠義の武士。紹運は何も
 知らなかった。進士兵衛を高橋家に尽くすよう説得し
 た。 父の謀反は父に非のあることを悟り、父謀反の
 原因は秋月にあると、憎き秋月にこの怨念晴らさず
 にはと心に決した。これを機敏に捉えた紹運は進士
 兵衛、伊藤源右衛門に命じ策をを練らせた。

 詳細は当HPの「龍ケ城夜襲之事」を参照されたい

 天正8年
    10月
 
 奈須美の陣
 茄子ケ城
 (休松)
 現在の安見山
 
 龍ケ城の惨劇は直ちに種実に注進される。無念
 やるかたない種実は直ちに岩屋攻めを発し自ら
 12000の軍勢を率いて茄子見(奈須美)へ陣を進
 め岩屋攻めに備えた。
 岩屋勢も立花勢加え茄子見に押し出し激しい合戦
 となった。両軍優劣つけがたく鉄砲の応戦となった
 がこの時綿貫三左衛門、竹迫進士兵衛らが秋月の
 側面着いたので体制くずれ退きはじめた。見て取っ
 た道雪、紹運両将がどっと襲いかかったので秋月
 の陣形くずれ退却始めた。種実は烈火のごとく戻れ
 と絶叫叱責した。ところが突然茄子見山囲むように
 大友の旗幟が翻った。新たな大友援軍と種実は遂
 に兵をまとめて退いた。
 安見山は戸次一族が多く戦死し休松合戦の舞台で
 あるが大正のころまで公式地図では茄子ケ城と呼
 ばれていた

 
 天正9年7月  1581  観世音寺口合戦  大宰府  
 秋月、筑紫連合軍大宰府へ侵入
 高橋、立花ぜ出て戦う

 天正9年
   8月18日
 
 高橋統虎
 婿入り
 道雪の養子
 
 立花山城  
 統虎、立花道雪(戸次鑑連)の養子となる。

 高橋紹運と立花道雪は親子ほども歳が違うが
 妙に気性が一致。何かにつけ連携する。
 そんな中、道雪のたっての願いを入れ紹運は
 嫡男の立花山入りを承諾する。

 天正9年
   11月6日

 統虎初陣15歳
 石坂の戦い

 八木山峠一帯  
 天正9年冬豊後大友宗麟はは筑後の諸城攻める
 ため朽網宗歴3000を生葉郡井上城へ派遣した。
 これに呼応11月6日立花道雪、高橋紹運は6000
 の軍勢で加勢に向かうが、豊後からの帰還命令
 出て宗歴は陣を退いていた
 憤懣やるかたない両将は秋月領の嘉麻、穂波へ
 攻め込み秋月領を焼き払い引き上げるところに、
 秋月種実の5000余の軍勢が追跡してきた。潤野、
 大日寺、石坂、辺りで両軍入り乱れて激しい戦い
 となったが、道雪の伏せ兵1000が秋月勢の側面
 突き襲いかかたので秋月勢は総崩れとなった。
 此の時の戦死 大友方300、秋月勢760に上った。
 この戦に15歳の統虎初陣。統虎は秋月の将堀江
 備前を組討ちで討取り、早くも勇将の片鱗。

       詳細は「石坂の戦い」参照

 
 天正10年
   10月3日
 1582  米ノ山砦奪還  飯塚市米ノ山
 秋月勢は紹運の米ノ山砦を襲う。
 紹運は手勢おくり直ちに奪回。

 天正11年
   3月15日
 1583  許斐山城落とす
 許斐山城
 (宗像市王丸)
 
 許斐山城は宗像氏貞の居城蔦ケ嶽城の支城で
 西の立花山への備えの要の城である。
 永禄年間にはたびたび大友勢の襲撃をうける。
 永禄2年8月には、立花山怒留湯鎮氏、高橋鑑種
 豊後戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理の5000が
 攻め入った。許斐山は占部尚持ノ2000が籠城し
 これを迎討ったが尚持戦死するも大友勢を退ける。
 天正11年3月立花道雪、高橋紹運は2500の軍勢
 にて許斐山城包囲。赤間山(蔦ケ岳)より宗像氏貞
 も2000を率いて救援に向かったが敗退。許斐山城
 孤立。道雪、紹運の激しい攻撃で落城した。
 
 天正12年
   2月7日
    1584   岩屋城炎上  岩屋城
 筑紫広門は家臣一人を茶売りに変装させ岩屋城
 へ侵入させる。門番に咎められるが、平身低頭
 「お茶売りに御座い居ます。とまんまと騙し侵入
 隙を見て処々に種火をおき逃げ出し広門に注進。
 夜になり、折からの風に煽られ火は瞬く間に燃え
 上がり、岩屋城を包んだ、これを見た広門は岩屋
 城乗っ取ろうと攻め上がった。混乱のなか屋山中 
 務は家中を指揮して筑紫勢を追い返し場内に入
 れなかった。宝満にいた紹運も火の手見て直ちに
 とって返し一緒になって筑紫勢にあたったので、
 筑紫勢は数百の死傷出し遁走。これに追ってを
 かけ今村五郎兵衛は名のある武将うちとる。
 翌日道雪も火事場装束で駆けつけ整理にあたる。

 天正12年7月 @大友勢筑後
       出陣
 生葉郡
 黒木(猫尾城)

 筑後に絶大な影響力のあった豊後大友氏も地場
 領主たちの大友離れが進み今や、高尾城五条鎮
 定、長巌城問註所統景のみとなった。草野、星野
 黒木など竜造寺の勢力家に入り、大友方を攻めた
 この情勢に鎮定、統景は豊後へ筑後への出陣を
 促した。大友義統は筑後回復の好機と国中より
 7000余の軍勢かき集め、弟の田原親家を大将に
 朽網、志賀、清田、田北、木付、臼杵、佐伯
 一万田、奈多、等を筑後へ向かわせた。一行は
 日田より生葉郡にいり鷹取山の西の妹川峠より
 上陽北川内を経て黒木猫尾城目標にした。
 城主は黒木兵庫頭家永。黒木家は歴史のある
 武門の誉れ高い武家で、大友方も猫尾城落とせば
 他の城は容易に下ると思っていた。黒木方も佐賀
 の救援数百を入れ防備を固め黒木の反撃はすさ
 まじく、戦経験のない若手将校の大友勢は軍勢に
 勝も攻めあぐね、1か月に及ぶ黒木の反撃の前に
 戦況は一向に打開できなかった。
 
 
 天正12年8月 A道雪・紹運出陣
   耳納越え
      
 生葉郡
 片ノ瀬
 鷹取山
 

 一向に戦果の上がらない黒木情勢に業煮やした
 義統は歴戦の勇、道雪、紹運に筑後出陣命ず。
 此の時の立花、高橋の勢力はおよそ4000〜4500
 とみられる。紹運は宝満に統増を、岩屋に屋山中
 務置き、800余をの残した。一方道雪は統虎大将に
、薦野増時、十時摂津、米多比、小田部など歴戦の
 老臣つけ1000余を残した。
 8月14日軍議、18日には出立した。
 先陣は紹運隊、殿を道雪、道雪はこの時輿に乗っ
 て出陣したと伝わる。出陣は敵中を踏破するもの
 で極めて厳しい行軍となった。片ノ瀬辺りで千歳
 川(筑後川)渡り早くも秋月の将芥田兵庫率いる
 50余に遭遇、一人残らず血祭りに上げる。
 難所は耳納越え、狭くくねった九十九道路が続く、
 各所に伏兵鉄砲撃ちかけてきたたので大友勢に
 多くの死傷者でる。道雪も狙撃され輿にあたる。
 狙撃兵は逆に狙撃し倒すが、敵も最後尾の由布
 雪荷隊に迫る。雪荷はここが死に場所と決め、
 ここは防ぐので山を越えるようにと、紹運に伝令し、
 立花次郎兵衛(戸次次郎兵衛)らを率いとって返
 し切り込んでいった。道雪も大返しの太鼓打たせ
 坂下へ向かいかけたが、立花の軍師大橋桂林が
 押しとめ「ここはお任せを」と采振り一気に坂下の
 秋月、筑紫、草野n混成軍へ切り込んだので勢い
 に押され散りじりになって敗走。両将はようやく峠
 越え黒木へいる。

 天正12年
   8月20日
   9月 5日
 猫尾城攻め  黒木  
 道雪、紹運の敵中突破しての到着に先着大友勢
 の士気は大いに上がった。両将は猫尾攻めの障
 害排除にかかった。支城高牟礼城の黒木の家老
 椿原式部、犬の尾城川崎重高に内応工作すすめ
 開城させた、これにより竜造寺の応援部隊も退き
 あげるが、竜造寺も新たな援軍送ってきたので
 大友軍は一旦佐賀勢の掃討にかかり城島、酒見、
 貝津、榎津、一帯焼き払い周辺の城を落とした。
 孤立状態になった猫尾城に対し猛烈な攻撃をか
 ける。黒木勢も激しく応戦したので攻め手にも死
 傷者多数。しかし城内は食料も尽き、吸い水脈
 たたれ9月5日遂に落城す。黒木家永は13歳の娘
 に介錯させ自刃した。
 娘は寄せ手の一人切り倒し、父の首と刀を投げつ
 けたともいう。
 二か月に及ぶ黒木攻撃はようやく終わった。

 天正12年
     9月
 筑後南部作戦
 福島(八女)
 柳川城
 
 猫尾城落とした道雪、紹運は筑後南部に留まり
 柳川一帯の回復作戦。9月11日福島(八女)の
 山下城蒲地鎮運が降参、大友の侍大将宗像掃
 部を城番。周辺の諸城落とし村落焼き払うが竜
 造寺勢を一掃することはできず。
 中でも重要目標の柳川城は多量の食糧とともに
 数千が籠城。湿地帯に位置し複雑にクリークの
 入込む難攻不落の柳川城は攻めがたく回復は
 ならなかった。

 天正12年
    10月
 久留米合戦   高良山
 久留米
 発心山
 甘木

 柳川城を攻めあぐんでいた道雪、紹運は高良山
 座主良寛の勧めで10月3日本陣を高良山に移す。
 4日には草野を攻め星野、問註所領内、千歳川
 (筑後川の旧称)越えて秋月領まで侵入焼き討ち
 かけるなどして暮れた。
 田原親家は道雪、紹運の活躍に呼応して秋月領 
 へ攻め込んだが逆襲受け豊後へ逃げる
 この年筑後の大友勢は高良山、北野などに在陣 
 年をこす。

 天正13年
    2月以降
 1585  久留米
 高良川筋
 
 天正13年早春竜造寺は籠っていた柳川城から
 西牟田に陣を張り軍勢を催促して高良山の大友
 に対峙。これに秋月も呼応筑後国境まで軍を進め
 後詰。筑紫広門も竜造寺勢と合わせ8000余が高
 良山したに迫る。此のころ高良山では座主の座
 めぐり良寛と弟鱗圭が争い、鱗圭は竜造寺に応じ
 た。大友勢は軍議の結果豊後志賀、朽網らの豊
 後勢は秋月、草野、長野、城井を西小田に押し
 とめた。
 道雪、紹運は竜造寺、筑紫勢の大軍と鉄砲の撃
 ちあいで戦端が開く。大友勢は小勢次第に押さ
 れて退く。しかし紹運は平地の戦いを得意とする。
 十分に引き付けたところで紹運が動いた、萩尾
 福田、伊藤らを先陣に自らもやりを取って突き進
 んだ。深追いで陣が乱れた竜造寺勢は長追いの
 疲れもあって棒立ち浮足立った。そこえ道雪が
 迂回して横を突いたので竜造寺勢は突き崩され
 千歳川渡り逃げ出した。筑前勢は是を追討し
 首級数百をあげる。
 
 手痛い敗北規した竜造寺政家は肥前勢30000
 を高良山下に集結させた。竜造寺の夥しい旗幟
 が高良山付近にひらめき大友勢を圧倒した。
 紹運、朽網宗歴の3000、高良山座主良寛の
 700が加わり、立花の由布、小野の2000にて
 戦端がひらいたが今回も弱弱しく敗走する紹運
 軍に肥前勢は一つになって追い込んできた、
 その時紹運の采配一せん後陣が槍を揃えて突
 進。是に頃合い見て道雪の由布、小野の遊軍
 2000、良寛の僧兵も加わり鬨をつくったので
 支えきれずこの戦いも竜造寺敗走。大友勢に討
 ち取られた首、甲冑首だけでも283に上る。
              「久留米合戦

 天正13年
   9月11日
 道雪死す
 紹運看取る
 北野天満宮  
 筑後の情勢はこう着状態が続き、豊後勢到着来
 とっくに1年を過ぎる長陣となった。高齢の道雪は
 疲労と暑さが重なり老体を蝕んでいた。6月高良
 陣中で発病。薬師呼び、同行の戸次右衛門大夫、
 立花次郎兵衛、立花淡路入道、立花堪右衛門の
 戸次一族懸命の看病(米多比文書)。一端病状
 持ち直す。
 この間7月大友勢は紹運が赤司城、北野城落とし
 道雪は病気押して9月北野天満宮へ陣替えする。
 (豊前覚書)北野赤司は道雪が筑前入りした時、
 一時在城したところで、道雪にとっては懐かしい
 場所である。病の中の陣替の理由の一つでは。
 9月11日家中懸命の看護むなしく道雪逝く。73歳
 道雪の死によって道雪が執念燃やした柳川城の
 奪回は成らなかった。道雪は由布、小野の重臣に
 「わが遺体、甲冑を着せ柳川向けてこの地埋めよ」
 と遺言していた。道雪の死は立花、岩屋へ急報さ
 れた。

 家中ではこの地に埋葬するか否か意見が分かれ
 たが、当主統虎の意見を聞くべきと紹運の言葉で、
 の道雪の死を受けて十時摂津より統虎の命が届く。
 「遺骸を敵中に一人置き敵の馬蹄に汚されること
  は忍び難い。直ちに立花へ護送せよ」と。
 紹運は北野の軍を退き、豊後勢も引き揚げ、大友
 筑後回復は成功しなかった。の
 道雪の紹運を殿に遺体は1000余の軍勢で立花へ
 送られた。立花では統虎以下甲冑に喪衣を羽織
 迎えたという。
 道雪の死は秋月、竜造寺、島津にも驚きをもって
 知らされたが、名将の死を憐れみ追撃することは
 なかった(鹿児島外史)。
 
      「立花道雪の死(1)
      「立花道雪の死(2)

 
 天正13年
   9月12日
 宝満山城
    焼き討ち
 宝満山
 しかし、翌12日には秋月、筑紫が動いた、300の
 兵全員が修験僧に変装して宝満山に近づき上宮
 によじ登り、佛頂山にあった宝満城に忍び込み火
 を放ったので炎上。宝満山には伊藤源右衛門ら
 老臣に宋雲尼、統増らがいたが、手勢なく鉄砲撃
 ち掛けられ危機に及んだが、岩屋より屋山中務が
 救援に駆けつけ交戦しながら統増親子らを岩屋へ
 助け出した。
 のちに大友義統は屋山中務に感状与え称賛した。
 
 
 天正14年
     2月
 1586  高橋・筑紫
      縁組
 岩屋城
 天正13年暮れ、筑紫広門は思案していた。敵対し
 ていた高橋と秋月との間で婚姻のうわさが聞こえ
 た。もし両家が一つになれば筑紫を攻めてくること
 必定。方策なく苦慮しているとき一族筑紫六左衛
 門進み出てそれがしにお任せをと。それは姫を高
 統増の嫁に押し込むことであった。広門も重臣らも
 他に策なく了承した。姫の「かね」も筑紫の浮沈が
 かかている事を察し、薄化粧に懐剣を帯び両親に
 暇乞いと礼を言い。もし紹運に断られたら筑紫の
 家名汚すことなく自害してお詫びしますと、供の女
 二人も鉢巻きに守り刀、六左衛門も殉死の覚悟を
 もって岩屋城へ向かった。
 紹運は、昨日まで敵対していた筑紫が押し掛け女
 房に来たことに驚いた。秋月との話を破談にするこ
 との影響など紹運も決心がつかなかったが、六左 
 衛門、従女がすでに自害の覚悟したことを察した
 紹運は部屋に招き入れ、話の筋は分かった、これ
 まで敵対してきたが、縁を結び両家の平和を計ら
 いましょうとつげた。
 天正14年2月「かね姫」は岩屋城へ輿入れした。
 統増15歳 かね姫17歳

 天正14年
    6〜7月
 島津侵攻   高良山
  勝尾城

 6月30日 高良山落とす。大将島津忠長、新納忠元
        伊集院忠棟、野村忠敬ら諸軍の到着待つ。
        およそ4〜5万とも
 7月6日  筑紫広門の勝尾城攻撃
 7月10日  筑紫降参
 7月12日 島津御笠郡に到着。宝満、岩屋囲む
  
 紹運は家中の者集め決意を伝える。婦女子病人は
 宝満城へ避難させよ。自分は宝満に移ることはない
 皆とともにこの城に留まり、関白の応援届くまで死
 守する。去るものは去ってよいと覚悟を示した。
 しかし誰ひとりも去る者はいなかった。
 立花山統虎は立花山への退避を進めたが、大将が
 一ヶ所に集まることは良策とは言い難いと断る。
 それでも屋山中務少輔は岩屋は城代の自分が死
 守する。殿は統虎殿のお勧めに従って立花へと注
 進したが、屋山の忠節に、忠臣を見殺しにできない
 と立花へつたえた。

 宝満山では島津の大軍の前に城内は混乱していた
 城兵は高橋と筑紫が混在していたからである。
 そのような状況の下、統増夫妻の陣九郎兵衛ら手
 の者十数名つけて宝満に入る。しかし筑紫組の中
 には統増を討取り島津に寝返る動きもあった。察
 知した紹運は老臣の伊藤源右衛門に命じ伊藤外記
 高橋山城守など十数名を宝満に送り質人とり統増を
 守護させ警護した。
 立花山よりは統虎の呼びかけに応じた討ち死覚悟の
 決死隊援20数名が加わる。

 
 天正14年
   7月12日
 岩屋城の備え
     
  
    岩屋城   
 
 紹運は合戦に備え食料弾薬など城内へ運び入れ
 籠城に備えた。随所に空堀、逆茂木、崖上には大量
 の岩石、木台積み上げた。これが島津に多くの損害 
 与える。
 紹運は高橋家譜代の屋山中務少輔本丸城戸100余、
 福田民部大手50余など、伊藤、土岐らの諸将に人数
 割振り要所固めた。自ら甲丸に手勢150と伴に備え
 た。

 
 天正14年
   7月13日
 島津降伏勧告
 攻撃前に島津忠長は僧侶を遣わし紹運へ降伏を勧
 告した。しかし紹運は「立花、宝満、岩屋は大友より
 統虎とともに預かっているもの、大友は関白秀吉の
 家人となった。三城は関白のもの渡すことはできぬ。
 と伝え。岩屋は竜造寺、勝尾とは違う死を以てこの
 城守り通す。いつでも合戦にに応じるが、いささか
 手強いことを覚悟せよ」と使いの僧を返した。
 この紹運の覚悟に忠長は攻撃を決する。

 天正14年
   7月14日
 1587  島津軍
    攻撃開始

 14日午後薩摩の侍大将伊集院忠棟は全軍に岩屋城
 総攻撃を命ず。島津は一斉に追手門目指してして攻
 め上がり鉄砲、火矢を射かけた。これに対し城中から
 も盛んに鉄砲で応じた。筑前国続風土記によれば、
 「寄せ手は大軍なれば、竹把をつい衝寄せ々隙なく
 仕寄けり、終日鉄砲の音やむことなく士卒のおめき
 叫ぶ声は大地に響くなり」とある」。
 寄せては倒れても倒れても攻め上がってきたが、城兵
 は一糸乱れず応戦、釣り木、釣り石落下させ、寄せ手
 は攻めるほどに損害が増えた。連日の戦で疲れの中
 26日には砦の一つが破られ城目指し攻め込んできた
 が追手口固める屋山中務は指揮して大石、大木落と
 した。薩軍は鉄砲弓射かけ倒れるもの、頭砕かれ手
 足折れ圧死するもの数百を数えた。損害の大きさに
 島津忠長は重臣新納武蔵守忠元を使者に立て再度の
 降伏を勧告する。
 忠元は「豊後大友義鎮の非を説き、わが島津家は政
 道正しく信義を以て人に接し、1日も早く民生を安定さ
 せようとしている。領土、命は安堵するので城を開け
 渡されよ。」 紹運は麻生外記と名をかえ朗々と自説
 説き拒否する。 この詳細は「岩屋城玉砕
 
 天正14年
   7月27日
 
 最後の勧告
 紹運自刃
 岩屋城落城
     玉砕
 
 死傷者の増大に忠長は、これ以上の殺傷を止めるべ
 軍使として再び僧を岩屋に送り、有利な条件示し降伏
 を勧告するが紹運は「主家盛んなる時は忠節を励む
 者多いが、主家衰えた時にこそ忠節を尽くすのが眞の
 武士である。貴殿たちも島津衰亡の時になって主を捨
 てんとされるや、武士たる者節義を守らぬは禽獣と何

 らかわるところなし」と武士の節操を示した。
 この紹運の言葉に軍使も返す言葉無く退散した。紹運
 の決死の覚悟に島津軍は、もはや自軍の損害覚悟で
 攻め落とすことを決意する。
 最後の攻撃は7月27日寅の刻(朝4時)に開始、先陣
 の日向土井覚兼の手勢は崖下にとりついたが、城中
 からはおびただしい大石、大木を落とし覚兼以下兵の
 ほとんどが石打にあい薩軍最大の被害被る、変わっ
 た高城主山田有信も落石命中退避した。
 激闘も正午に及んだ、薩軍は倒れても次々と新手を
 投入、岩屋城は大手が破られ、福田民部以下全員討
 死。城戸守っていた屋山中務の100余名も敵を引き入
 れて切りかけ倒したが、手負い増える中鉄砲に倒され
 全員討死。 そして敵の大手突入時の城兵は僅かに
 紹運以下50余にとなっていた。最期の覚悟決めた紹
 運は数珠片手に死者弔い、自ら長太刀を振り群がる
 敵を切り倒した。城兵の最後の死闘は壮絶極め鬼気
 迫るものあって、寄せ手もひるんだという。紹運は多く
 傷つき死期を悟り、残った城兵にこれまでの忠義に丁
 寧に頭下げ高楼に上り自害した。介錯は吉野佐京介
 という。残る兵も差し違えるなどして命を絶ち玉砕した。
   紹運 行年39歳
 紹運記によれば、辞世の句は高楼の壁に書いてあっ
 た。
  其の句
     「かばねおば岩屋屋の苔に埋めてぞ
                雲井の空に名をとどむべき
 紹運の首は島津忠長の本陣(現在の首塚辺り)に送ら
 れた。此の時忠長は床几より降り地面におりて紹運の
 首級に手つき名将に頭を下げたという。

        
       岩屋城二の丸跡屋山中務少輔墓
       風化し文字が消えつつある
       紹運の墓の右脇


        
             高橋紹運墓


  8)紹運の評価
   年表に見るがごとく紹運は大友家への忠節を信念に信義を貫き、誠意を以てそれを説き、家中まとめ知略を以て戦い
   大友家のために働いた。そして岩屋城攻防では、実子統虎、黒田孝高、薩摩の勧告すべて拒否して玉砕した。
   それは立花道雪(戸次鑑連)が天正8年豊後国内の情勢憂い、老臣たちに十カ条の檄文送り主家のために奮起するこ
   とを促した事にも通じる。玉砕の是非はともかく、紹運は岩屋城を死守する行動以て、武士の惹いては大友家中の節操
   の低下を憂い、自らの行動以て警鐘をならしたとみられる。いずれにせよ通説には主家に忠節尽くした名将であった。

   さてその一方、紹運の最期は岩屋城玉砕自決であるが、その人なりについて高橋記の書く事に注目する必要がある。
   以下の記述は川添昭二著「※中世九州の政治文化:P305以降、高橋紹運・岩屋城合戦小考」より部分引用し記述
   した。

   @高橋記は紹運について「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将で
     あり、数百人の侍が岩屋城で共に戦死した理由がそこにあると記す。称賛する記述。

   Aまた、紹運の人となりを義に於き「義に生き義兵を以て義に死んだ。家中の勇も仁義の勇である。」 こん日に至る
    まで紹運の評価である。このように紹運の人となりを誉め称えている。

   Bしかし高橋記には紹運への批判が明記されている事も注目すべきである。批判の記述。
     高橋記(※p334)は
    「古今稀なる名将なりと云共、未だ御齢(おんよわい)惑(まど)はぬ比(ころ)に、充(み)たせ給わねば、其壮(そ
    のさかん)なるに及びて、血気方に剛くましまして、臨機応変の謀計をも兼られず、難きを先にする本意を守らせ
    玉ふに依て也」。 
    即ち、岩屋落城は「紹運が臨機応変の謀計を欠き難事を敢行した血気の戦略の悲惨な結果である。」と言うもの
    である。解釈によっては、紹運を称賛してきた高橋記のすべてを打ち消すことにもなる。しかしこん日、この批判
    部分はほとんど取り上げられていない。

   C高橋記野の十三には、北原鎮久が「大友勢力崩落の中で宝満、岩屋に籠り諸方の敵を受け戦い続ける非を説き、
     柔軟に時勢に応ずべきと献言したが紹運は取り合わなかった。(鎮久は紹運によって誅殺される)」ことも取り上げ
     ている。高橋記の批判部分は鎮久の献言に通ずることは皮肉である。

   D紹運は度々の降伏勧告を拒否し玉砕に及んだことが通説である。これに疑問を投じる資料も伝えられている。島津
    の家臣「上井覚兼日記(※p313)」である。上井覚兼は日向を任された重臣で、岩屋城攻めでは大活躍した。
    従って覚兼の記した「上井覚兼日記」の岩屋記述は多分史実とみられる。「・・城内(岩屋)は騒ぐことなく戦上手が
    揃っていると見える。・・」 続いて「紹運が笠の陣まで出向いてきて、島津方に城は開け渡さないこと条件に、もし
    許されれば自分が罷(まか)り出てもよいと和を請うたが島津方は是を受け入れなかった。」と記録しているという。
    上井覚兼日記は著名な資料であるが、この日記の記録する紹運について触れた資料は殆どない。紹運と家臣の
    忠義心による玉砕だけがもてはやされている。果たして紹運は最初から玉砕するつもりであったろうか。
    上井覚兼日記に思うことは、紹運には主家大友の城守ることが忠義の証しという信念があった。自身は質人とな
    っても城を守り、家臣の命は救う。紹運も思慮深い武将である、元より玉砕を考えていたのでは無かろう。島津方
    の再三の降伏勧告は城の開け渡しが条件である。主家の城守ることが忠義の証しという信念の紹運にしてみれば、
    島津方の「領土は安堵、家臣の身は保証する。城は開け渡せ」は受け入れられなかった。紹運は家臣への決意表
    明で「去る者は去ってよいと」告げたが去る者はいなかった。紹運は島津の再三にわたり降伏勧告に訪れた軍使
    に対し、理路整然、朗々と拒否の言葉を述べている。これは使いへの言葉とともに家中の士にも聞かせる言葉で
    あったに違いない。紹運の軍使に対する毅然とした言葉が家中より落伍者を出さなかったのではないか。
    小生管理人は、
     高橋記のいう「紹運は義を貫いた」が、それに従った「・・義に死んだ家中の勇こそ仁義の勇・・」であった。
     と感じる。
        

               参考資料 : @中世九州の政治文化(川添昭二箸:海鳥社:九州大学名誉教授:文学博士)
                        A筑前戦国史(吉永正春箸:葦書房旧版:宗像市在住戦国史研究者。この書は
                                                 九州おける戦国図書の決定版である。)

                        本ページの記述にあたっては上記図書を参考にし一部記述引用したことを記す。