田北紹鉄之事


      田北氏は豊後国直入朽網郷田北村を本拠に活躍した大友氏同紋衆である。松牟礼城を本城とし周囲に
    真宝院城、田北城など築き拠点とした。田原紹鉄は名を鑑重と云い父は田北親員。兄は田北鑑生,弟は日向
    高城(耳川の戦い)で戦死した鎮周(しげかね)である。兄鑑生(あきなり)は大友義鑑、義鎮の二代に仕え義
    鑑の加判衆筆頭務めた重臣であった。栂牟礼城佐伯惟治の謀反鎮圧、筑前秋月文種討伐、氏姓事件小原
    鑑元討伐に活躍した。また勢場ケ原の合戦では逆襲で大内勢破る戦功をあげた。永禄4年鑑生は戸次鑑連
    
に従い毛利に奪われた門司城奪回に出陣したが苦戦、退却中退路を絶たれ戦死する。田北家は弟鑑重が
    継ぎ後に紹鉄と号した。紹鉄もまた忠勤に励み、氏姓事件にも鑑生と共に活躍した。永禄4年7月(1561)に
    は弟鎮周と共に戸次鑑連に従い、毛利方の籠る香春岳城を落とす。父親員、兄鑑生に続き重臣として忠義
    一筋大友氏を支える。 紹鉄の転機は田原紹忍との確執であった。
    それは大友氏三老と称され家中の要であった、吉岡宗増(宗歓)、吉弘鑑理、臼杵鑑速らが次々と他界、残る
    戸次鑑連(道雪)は筑前在住と、府内には家中を纏める宿老が不在となった。そして宗麟に諂い重用され権
    力を振るったのが宗麟の正室の兄田原親賢(紹忍)である。
    天正6年3月、日向縣(あがた・延岡)土持氏を滅ぼし高揚した宗麟は島津氏の高城侵攻を決意する。この計
    画には軍師石宗はじめ斉藤鎮実、田北紹鉄、鎮周ら重臣は無謀だとこぞって反対した。しかし紹忍は宗麟に
    同調、開戦を強く主張した。そして戦経験に乏しい総大将紹忍は、大友軍を纏めきれず同年11月12日決戦に
    挑み惨敗をきした。特に先陣田北鎮周の二千五百の殆どが討死大きな人的財産失った。敗戦後姿隠した責
    任者の紹忍は一旦は失脚するも、敗戦の責任を重臣らに押し付け再び重用された。是には南部衆や田原親
    貫らは強く反発、遂に親貫は秋月種実と通じ挙兵。宗麟親子は家中に親貫討伐を催促するが南部衆は容易
    に応じなかった。中でも高城耳川の戦いで弟鎮周筆頭に家中に大きな損害出した紹鉄は、不満の要因に違い
    はあものの、紹忍へ不信に少なからず同調する所あり親貫討伐を拒否した。通説では紹鉄が秋月種実と結ん
    だ謀書が事実と確認され、ヴアリニヤーノ巡察師を殺害しょうとしたのは事実だったとして紹鉄は切腹を命じら
    れた。紹鉄は止むおえず松牟礼城出て熊群山(熊牟礼)東岩寺(英彦山末寺)へ籠居した。
    しかし紹鉄の謀反は讒言によって仕組まれた謀略説が有力視されている。讒言者は田原紹忍ではないか。
    紹鉄は高城の戦いにおける紹忍の行いに強く不信抱き、家中多くの討死は紹忍にあると反発していた。紹忍
    の母は田北氏の女である。にも関わらず紹忍は、田北紹鉄の存在は己の保身に最も邪魔な存在であった。
    紹鉄は縁者らに書状を送っている。両殿様(宗麟、義統)に不正を働く気持ちはない。疑われる訳は分から
    ないが切腹申しつけられた。自分は切腹するが婿の統員へ家督相続出来るようにと嘆願している。紹鉄は
    家中僅か百騎余りで熊牟礼山東岩寺へ籠った。とても謀反挙兵と云える数ではない。紹鉄には讒言によって
    謀反人とされたことへの武将としての意地があったのであろう。
   
     宗麟、義統は紹鉄討伐を催促した。しかし紹鉄を良く知る南部衆は容易には応じなかったが、宗麟の説得
    もあって、不本意ながら決意した。大将は志賀常陸守親則、相伴者朽網三河守鑑康、一萬田三河守鑑実、
    戸次山城守鑑速
(?当時戸次山城守は鎮秀(宗傑)である。鎮秀の誤りか)、梗間左衛門大夫鎮秀(?)の
    合わせ一万三千余騎。大手口の阿蘇野(阿曾野)には一万余騎、搦手の小狩倉(小鹿倉)に梗間左衛門大
    夫の三千を敷いた。討伐軍を仕向ける一方義統は、田北一族に下山し紹鉄の後継となる統員に従う様促し
    た。義統には是まで忠勤に励んだ田北家を取り潰す気はなかったとみられる。押し寄せた討伐の南部衆も
    本気で攻める勢いを見せなかった。
    各武将は紹鉄に対し「紹忍に恨みこそあれ、貴老に対し少しも恨み是なき、この節は一旦ほと筑後当たりに
    落延び再起を図られよ」と諭した。 
    紹鉄はは此の馴染みの南部衆の助言に従った。僅か五十騎ほどの郎党にて熊牟礼山を脱出した。諸本は
    熊牟礼山紹鉄は一時と持たず落城したとしているが、おそらく矢合せ程度はあっても本格的な合戦には至ら
    なかったであろう。この紹鉄の豊後脱出の動きは日田まで送られていた。この首謀者は讒人田原紹忍に違
    いない。紹鉄の辿ったルートは不明であるが、紹鉄は日田郡五馬松原の山中で待ち伏せにあった。恐らく庄
    内より筌の口経て大山に抜けるルートがあったのであろう。紹鉄は紹忍の指示で待ち伏せていた財津、堤、
    坂本、津金、五条らの日田郷士によって、同行の郎党共々討たれた。
    皮肉なことに、田北家は紹忍にとっては母の生家であった。
    田北紹鉄は宗麟義統の時代、愚将「田原紹忍」に欺かれ、不運な生涯を遂げた最も悲運の武将であった。
    なお、大友記は紹鉄の討たれた場所は、筑後に越え入ったが、畠の郷衆に唐泊(福岡市西区宮浦)に追い
    詰められ百姓衆に首を取られたとある。紹鉄は五十の郎党引連れていたというので、百姓に討たれたという
    は怪しい。
   
     讒言により紹鉄に謀反の疑いを懸けたが、挙兵も募らず籠った紹鉄を討った事には他に理由があった。
    この時期キリシタン巡察師ヴアリニヤーノの府内入り後、宗麟は布教に励む。その一方で、寺院への破壊
    工作強め大友氏菩提寺万寿寺、宇佐神宮、彦山と焼き払い民衆の不評をかっている。紹鉄が引き退いた後、
    義統、紹忍は熊牟礼山は御当家に対し逆意の山として急ぎ寺坊を焼き払った。これは、熊牟礼山が修験の山
    彦山(英彦山)の末山であったためであった(豊筑乱記伝)。

                                              参考資料  豊筑乱記
                                                      大分歴史事典

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