多々良川の戦い
 
     
戸次鑑連の奮戦
    
      
後世ににまで伝わる多々良浜「鑑連」の知略と勇猛な戦い!
      それが筑前国「
立花山城城督」への足がかりとなった!

   筑前国続風土記によると「多々良濱」とは「多々良村の西の干潟を多々良濱と云。糟谷川の下也」とある。
   多々良川は当時は「糟谷川」と呼ばれ「濱」とは「干潟」を指している。風土記には多々良浜干潟について、
   南朝菊池勢と「足利尊氏」との合戦では遠干潟二十町とある。毛利と「
戸次鑑連」の戦いでは毛利勢が三町
   引いたとある。二十町となると二キロメートルを越える広さである。しかも馬の足を揃えて突撃できたこと
   から確りした地面であったことが覗える。
   この多々良浜は古くから重要な浜として、弘安4年の蒙古襲来にはこの潟に「乱杭」を打ち要害とした。
   その後も乱杭を設けて異賊の侵入に備えたという。

   この多々良浜も、既に公式地図上には無い。現在の場所は福岡市東区多の津三丁目。多々良川の左岸に位置し
   国道3号線真州崎大橋と其の上流、多々羅橋と流通センター西口を結ぶ、多々良川と左支川多々良新川に囲ま
   れた三角部分であるが、当時は干潟は東の下流から、上流西方へ葦原の広がる多々良川の氾濫原であった。
   風土記の記述の様に、二キロ以上の干潟が広がっていたのであろう。
   「筑前国続風土記巻之十八・多々良川」にも、この川を「糟屋川」と呼んでいたこと、「此の川の西は広き
   斥(潟)なりき」と書き、潟が広がっていたことがわかる。今は都市高速が走り、商業施設が林立する。
   明治33年の地図には、太刀を重ねた古戦場の印がある。明治から大正にかけても周辺は道路以外全て「田地」
   おそらく藩政時代に開墾され「多々良浜」も田地となった。

           
            明治33年陸地測量部地図の多々良濱付近の様子殆ど田地  多々良浜の現況(福岡市東区多の津三丁目)


   立花鑑載の謀反の後「立花山城」は大友氏の鶴原、田北、臼杵の三将に預けられたが、永禄12年4月、毛利の
   吉川、小早川らに攻められ、食料不足に水の手を攻められ遂に開城、再び毛利氏が占拠していた。
   そして、永禄12年5月18日(1569)熾烈な大友、毛利の「多々良川合戦」が行われる。
   只、尊氏の戦った場所はこの場所に違いないと思われるが、後年の鑑連の戦った場所は風土記の記述などから、
   少し場所が違う感じもする。
   この戦いの前しょう戦では、毛利の先手陣は博多松原に陣を置いた。博多松原は博多御笠川より筥崎宮にかけ
   続く松原で、箱崎松原ともいった。又この戦いでは、立花山を下った毛利の吉川、小早川の両将は多々良濱の
   東に備える。また左手の備えは「長尾(ながお)」とある。正確な合戦の場は、果たしてどこだったか。
   多々良川右岸に「名子(なご)と云う場所があって「ながお」と「なご」響きが似ている。
   以下に「筑前国続風土記」「多々良濱」を記述する

    永禄十二年五月十八日、大友家と毛利家此濱(このはま)にて合戦あり。其軍の仔細を尋(たずぬ)るに、
   毛利元就、筑前国豊満の城主高橋鑑種を救んと、安芸周防長門石見の軍勢を引率し、豊前国に渡り、筑前国に
   打入らる。豊前筑前の内には、大友幕下(ばっか)の国士多しといえ共、中国の大勢を聞見して、一戦にも及
   ばず城を出て、筑後路指て引退く。
   立花の城に、鶴原掃部助、田北民部丞、臼杵進士兵衛城代として有けるが、あづかひを入れて立花の城を請取。
   三人の城代は豊後に送り帰されける。
   かかりしかば、毛利家の将吉川元春、小早川隆景は、立花の城に本陣をすえ、先手の諸勢は、香椎多々良の濱
   迄ひたと続たり。大将元就は、豊前国小倉に滞留して、筑前国には入られず。又始より筑前在陣大友家の三将、
   
戸次丹後守鑑連、臼杵越中守鑑速、吉弘左近大夫鑑理は、博多に陣取、足軽を多々良濱に出し迫合あり。
   同十三日、毛利の先手佐波、熊谷、三戸、桂、末永、天野軍勢を率し、立花山城下り博多松原に備を立、足軽
   をかけ、津内を放火す。大友勢も三方より勢を進めて、一日に四度の戦ひあり。
   始の程は筑紫勢勝に乗、中国勢負け色に見えける所に、平賀源四郎、末永源七郎、石黒種五郎、宗近刑部左衛、
   宍戸四郎左衛門、桂内記、三浦平大夫、大多和備後守、岡部六郎左衛門、香川監物、佐々木源三郎、光永藤左
   衛門、内藤掃部助を始として、毛利家に名を得し一人当千の士共、松原より馳来て馬の足を一面に立並べ馬上
   に槍を持、まっしぐらに突懸りける間、三方に分ってさっと引。中にも桂内記は、十六歳の若武者成しが、只
   一騎味方にかけ離れ、にぐる敵を追て北へ向ふて駆けるを、大友勢の中より七八騎引返、終に桂を打取けり。
   斯て(かくて)日も暮しかば、中国勢博多を引て、香椎の山に引上りける。
   同月十八日、吉川駿河守元春、小早川左衛門隆景、立花山下る。兼てより香椎在陣の佐波、熊谷等が勢を合て
   四萬余人、多々良濱の東に、合戦を志(こころざし)して備たり。
   大友の三将是を見て、敵合戦を志と見えたり。敵を待て戦はんよりは、此方(このかた)より進んで勝負を決
   せんとて、三萬七千の勢を二手に分け、豊後勢一萬余人有しを、戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理、各五千余人
   づつ、三手にわかちて、先手に進む。自余(じよ・このほか)の勢は豊前、筑前、筑後の国士二十六人、都合
   其勢二萬二千余人は脇備也。各一手切に懸けて手柄次第の勝負にせよ。九国、中国分目の合戦なれば、臆病の
   名を恥よと戒めて、既に合戦始りけり。敵味方八九萬の鬨(かちどき)、鉄砲の音、天地ひびかせり。
   両軍入乱て戦ふ程に、多々良濱の東西には、双方の死人算(さん・かぞえる)を乱せるがごとし。中国方には
   吉川、小早川、天下に誉を取たる名将也。 大友方にも戸次、臼杵、吉弘、九国に名を得し人々なれば、牛角
   (ごかく)の戦にて、いつ勝負有べしとも見えざりける所に、
戸次丹後守鑑連は逞兵(ちょうへい・たくまし
   い)五千余人を引率し、案内者を先立て隆景の左備え
長尾と云所の陣に押懸り鉄砲八百挺一度に放ちかけたり。
   又こみかへて放つ鉄砲に、敵色めき漂ふ所を、鑑連眞先に馬を乗出し敵の中へかけ入、面(おもて)もふらず
   縦横に突て廻りける。
   (現在「長尾」の地名は地図上に見出せない、立花山と多々良浜の位置関係、風土記の記述より推測するに、
   名子(なご)から江辻山あたりに位置する。「なご」と「ながお」似てる気もする)
   五千余人の兵共鎗先を調(そろ)へて突懸る。中国方には清水、渡辺、児玉、内藤、波多野、福原四千余人に
   て控たりしが、相懸に懸て、爰(ここ)を先途(せんど・最期)と戦ひけるに、鑑連が勢に突立られ、三町許
   (ばかり)引退く。大友方是に力を得、ときを作りて諸手総懸りに進みける。すはや中国勢負色に成ぬと見る
   所に、隆景大音聲(おおごえ)を揚て、清水、渡辺等を助けよ児玉、波多野を討すな者共と、下知せられけれ
   ば、飯田、榎本、入江、山内、益田、梨羽、和知、東条、手島、草刈等八千余人、濱表を筋違に懸て、火を散
   (はな)してぞ戦ひける。
   数刻の強戦なれば、雙方(そうほう)疲て、毛利勢は立花山へ引上り、大友方は本の博多の陣に引帰る。
   戸次鑑連が手にも、十時下野守、由布掃部助を初として戦死の士四十余人、毛利方にも末永源七郎、赤川九朗
   左衛門を始として宗徒の兵五十四人打死す。就中(なかんずく)末永源七郎は、群に越え(ぐんをぬくこと)、
   比類無き力戦しけるが、主従十三人皆一所(ひとところ)にて戦死せり。其の子孫の家に、元就の證文も猶
   (なお)持伝えへたり。
   凡(およそ)此所(ここのところ)両度(二度)まで大合戦有しかば、近世まで白骨多く残りしと云。

     以上、「筑前国続風土記」はこのように書く。
     この戦いは
鑑連の奮戦により実質大友の大勝利に終わる。
 
    その後、
毛利勢は立花城に篭り大友と対峙するも事態は動かなかった。
    膠着状況が続くなか、大友宗麟の取った戦略が効を通す。
    
一つは、大友に身を寄せていた大内輝弘に持ちかけた大内再興である。がら空きの中国を突き再興図れと
    いうものである。
     あおられた輝弘は行動を起こす。大友に付けられた兵に大内旧臣たちを集め山口へ攻め込んだ。
    二つには、立花城に篭る毛利勢への物資補給を立つことである。宗麟は豊後水軍衆に海賊衆を動員して多
    数の船で豊前海より防府秋穂湾沖にかけて軍船を展開、毛利の補給船を襲撃、軍事物資の立花への補給を
    絶った。小倉にいた「元就」はこの予想だにせぬ展開に、遂に立花城を引くよう指示する。
    毛利勢は僅か二百ばかりを立花に残し開陣。永禄12年12月15日、雪舞う厳寒の中、吉川元春を殿に
    小倉へと引き始める。これに「吉弘鎮信」をはじめ大友勢が厳しい追い討ちを懸け、毛利勢は寒さの中、
    3491人もが討たれる悲惨な退陣となった。
    この毛利の撤退には、宗像氏貞が協力し小倉へと導いたと言う。仮に氏貞の協力が無ければ毛利には更に
    大きな損害が出たに違いない。

    立花山城に残った毛利勢であったが、やがて大友家中に送られ安全に立花をさる。
    そして元亀2年(1571)戸次鑑連は立花城へ入るのである。所領は筑前表裏糟屋ほか94箇村、3000町
    (6万石)に達したという。

                          参考史料   筑前国続風土記
                                       筑前戦国史 (吉永正春 著)       


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