戸次鑑連剃髪之事
戸次鑑連」の剃髪の事について「戸次軍談(彦城散人)」より紹介する。「軍談」は
「鑑連」の剃髪に関する記事にしては、戸次氏累代に触れるなど、やや唐突な感もするが、
原文は読みづらいので、管理人の自己流解釈にて書き改めたものである。
「戸次丹後守鑑連」は年を重ねるにつれ、その武将としての勢いは益々盛んとなっていた。
その戦功は、九州において比べらる武将なしとも評された。
「戸次氏」の氏祖「戸次左衛門尉重秀」はその時代鎌倉の「赤橋相模守重時」とは、親戚
(縁座)の好みの関係にあったことから「戸次兵庫守頼時」までの間四代に亘り「北条家」
とはなれ親しく(眤近)仕え、何れも「諱・イミナ」一字を許され、また従五位下に叙し
「鎮西評定衆」としてその時代権勢を振るった。その後「頼時」の嫡男「戸次右馬助直光」
は「足利右兵衛佐・源直冬」へ従い(扈従)、さらに京都将軍家へ仕え「戸次下野守頼秀」
と改める。
以後戸次氏は、数代継いで室町幕府に奉公してきたが、頼秀より六代後の「戸次丹後守親貞
入道玄心(十二代当首)」は、文亀元年豊前国「馬ガ嶽」において中国「大内氏」と戦い、
73歳の高齢を以って討死を。
この頃より戸次氏の領地は削られ衰退の一途をたどり、戸次氏は、「戸次庄」離れ、居住を
大野荘藤北の「鎧が岳」に取り留める事となった。
(注)戸次軍談に豊後戸次荘藤北とあるがこれは間違い
長く落日の苦難を過ごした戸次氏であったが「親貞」より四代孫「戸次鑑連」にいたって
戸次氏家門は俄かに繁栄を迎えた。
元亀二年の春、干戈(カンカ・守り防ぐこと)しばらく静まり「鑑連」も、合戦働きのない
暇(イトマ)に、法體(ホツタイ・仏門にいり剃髪染衣した姿)の志しのあることを宗麟に
申し出た。
これに宗麟は鑑連に「麟」の一字を贈り、鑑連は剃髪して「麟伯軒道雪」と号することと
なった。
後に「道雪」は宗麟により「筑前守護職」となり軍令を執り行い、中国勢の押さえとして
立花山城に入り、「氏」を「立花」と改める。
これはひとえに、「道雪」が機変の智謀に卓越し、武勇があるが故あってのことで、道雪は
「立花山城」に在って、いよいよ武威盛んにして「大友家」の棟梁頭領)の人と仰がれた。

|