豊後鉄砲伝来記
           「豊後が先か、種子島が先か

       我が国への鉄砲(種子島)の伝来は天文12年8月25日(1543)、種子島に漂着した中国船に乗って
       いたポルトガル人が伝えたとするを定説としている。 
      また、当時「鉄砲鍛冶」と言えば「国友」であるが、「国友鉄砲記」等では、1501年、1510年、1539年や
      「国友鉄砲鍛冶由緒」の1543年など伝来には諸説ある。
      何れにせよ、鉄砲は兵器として急速に国内に広がり、我が国において最初に鉄砲が戦いで使われた
      のは、天文17年2月(1548)の「武田信玄」と「村上義清」の戦いでの義清の鉄砲隊とされ、九州におい
      ても天文23年9月(1554)大隈国において、島津氏が加治木城救援と、それに関連する岩剣城攻撃に
      於いて用いたと言われる。
      そして戦国期最も著名な鉄砲使用が、信長の天正3年5月21日「長篠の戦い」である。
       
       此処に大友氏戦記資料「大友豊筑乱記・大友軍記資料」がある。著者、作成年代共に不明であるが、
      昭和55年「歴史図書社」が始めて活字化し限定500部発刊した稀少本である。
      この本には貴重な「大友公御家覚書」「大友記」も収録されている。
      この図書の巻之上に「九艘唐船之事」と言う記事がある。この中に大友氏へ「鉄砲国崩し」の伝来を
      伝えている。
      要旨を整理すると。
        一つには、永禄3年(1560)の事としていること。
        二つには、大友の太守を「義鑑」としていること。
        三つには、「乱記」は、永禄、天文を混同しているが、全体の文書構成では「国崩し」に触れた文書は
               「・・それから数年後天文20年・・云々」とあり、天文年間を指している事。
      
しかしながら、
       ・永禄年間、「大友義鑑」はすでにこの世の人出なかった。
       ・永禄3年以前、永禄元年(1558)には、すでに大友義鎮が将軍足利義輝の求めに応じ、鉄砲一丁を
        送ったとされる。
       ・永禄3年では南九州で鉄砲が使われてから6年が経過している。豊後への伝来がそれほど遅いとは
        考えがたい。
       ・天文年間とすると種々整合する
      年代を天文3年(1534))とすると、鉄砲は種子島伝来よりは、10年も早く豊後へ伝わていたことになる。
      推測ではあるが、鉄砲は種子島以前に、豊後へ伝えられていたことも考えられる。
      鉄砲は、幾つかのルートで我が国へ伝来し、種子島伝来はその一ルートであったとも思われるが、その
      あたりのことは史家にお任せするとして、以下に豊後への鉄砲伝来の様子を「大友豊筑乱記」より紹介
      する。

      永禄3年庚辰年(天文3年の誤記!)の頃であった。南蛮の国より大船の商戦団が豊後国臼杵港に
      着岸した。
      この船は商易のために渡来したもので、様々の珍品を満載していた。綾布、菜種その外美妙の重宝、
      その数は尽くしがたいほどであった。このことは豊後国内はおろか諸国にまで聞こえて、国々より商人
      が金銀を持参して大変な人が集まってきた。しかしながら困ったことに、船に乗って来た商人も、船の
      船頭以下船手の者たち、如何様にも言葉が通じず、どこの国から来たのかも一向にわからなかった。
      文字も日本の筆法と異なり筆談もままならなかった。そこで義鑑は渡来していた大明国の儒学者で僧
      の「保主座」という出家に書簡を認めて船へ遣わした。
      船には、商人の雇った「三寉(さんがく)」という、これも明国の儒学者が言語通達(通訳)のため乗って
      いた。三寉が保主座との筆談により申すには、「商人は云う及ばず、船頭舵取り船手皆南蛮国のもの
      であることが分った。自分は南蛮国の作法はいっこうに知らない。しかし船中のものの行動を見るに、
      体つきは主人と使用人とでは違いが有るが、一般に礼儀作法には拘らない国と見え、主君と使用人と
      の間の作法はよくない。」「朝夕の食事も一つの器に大きく盛って、大勢で箸を使わず、手ずからつまみ
      食いし、我や人やと云い貴賎(身分の上下)上下の礼儀に欠けていた。」このように筆談で答えた
      このころ「大友義鑑」は府内館に住んでいたが、異国よりの進物として種々の重宝美妙を尽くし贈られた。
      この中に、兵具があった。
      これを誰云うともなく「鉄砲」云い唱した。「其の長さは二、三尺あって、竹の筒のごとく穴が開いており、
      真っ直ぐで、その底(尻)はきびしく閉堅めて、手元のかたわらに小さな穴があって、火の通ずる穴として
      いた。これは外にたとえて云うものがなかった。」
      「鉄砲を手に持ち、筒に妙薬(火薬)を少し詰めて丸い小さな玉を入れ、的をつくり岸に立て、直にたって
      片目をすぼめ、火穴より火を通すと、立処に的にあった。その発する時の甚だし事は、雷の光の如くして、
      鳴響くことは、さながら雷火の如くにて、肝っ魂も消ゆる用であった。」
      この鉄砲を使うに異国の者たちは、少しも騒ぎ立てることなく使い、家中の目前で、鳥獣を瞬く間に撃ち
      倒した。これは稀代不思議な武器と驚いた。
      これにより、大友家中の若侍は弟子となって取り扱いを学び、音にも驚かず達者に使いこなすようになり
      相伝したという。

         
続編「国崩し伝来記」は別途紹介する。

             鉄砲は、種子島よりも早く豊後に伝わっていたのであろうか
。・・・・

            
          
左二丁火縄銃、中一丁雷管式銃         参考 維新戦争時の銃
              
 (島原城展示品)

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