戸次太郎時親

      「戸次氏きっての文化人武将」


     戸次系図によれば「戸次時親」は戸次氏二代である。父は戸次氏初代重秀。母は相模守平重時の女と
    され、中村禅尼珍阿と号した。
    幼名は不明であるが元服に際し、平時宗の片諱「時」一次許され「戸次時親」。時親は官途を肥前守、相
    模守を用い官位従五位下。戸次太郎時親と称した。戸次系図や豊筑乱記によれば鎮西評定衆に任じられ
    戸次太郎肥前守時親とある。
    時親に関する資料は殆ど伝わっておらず、不明な点が多く研究者の書に頼るしかないが、豊後の国には
    大田文ともよばれ弘安8年(1285)に完成した「豊後国図田帳」というものが存在する。いうなれば中世初
    期豊後の所領土地台帳の様なものである。是によると時親の所領は「速見郡由布院六十町 戸次太郎時
    親、大分郡戸次荘九十町 本家宜秋門院御跡、戸次太郎時頼(研究者には時親と解釈されている。この
    時期戸次太郎に該当する人物は見当たらない)、守江浦三町、近部藤原井手村七十町」この様に時親の
    所領を伝えている。併せ二百二十町もの所領はほぼ三千石に相当する。
    大友氏二代親秀、三代頼泰の頃には、詫摩、帯刀、一萬田、志賀、田原、田北、戸次、野津等々大友庶家
    が乱立したので所領としては大きい方であろう。
    このホームペーで紹介したように戸次氏の歴史はやはり戦国史であった。その様な戸次戦国史においても
    近年の中世史研究者に注目された文化人武将がいた。それが「戸次時親」である。
    歴代大友氏の中で著名な文化人武将は豊後守護大友氏六代定宗で、時の鎮西探題北条英時の鎮西評
    定衆、三番引付頭人に任じられていたが官途左近大夫将監経て近江守に任じられた。出家後は具簡、直
    庵と号した。臨永和歌集、続現葉和歌集などに歌があって、鎌倉時代天台宗の僧歌人で和歌四天王の一
    人浄弁を招いて歌の指導を受け、武士としては一級の文化人であったという。 

    戸次時親の歌道は定宗より半世紀以上遡る。公家歌人藤原為家の子「為顕(ためあきら)」の時代である。
    「和歌大概(藤原定家著)」という書があってその中に述べる「和歌口伝抄」の奥書に文永3年11月(1266)、
    為顕は此の書を大友太郎時親(戸次太郎時親の事)に授けたとあるという。京での出来事なのか、為顕を
    九州へ招いた時なのかは知れない。何れにせよ当時の和歌に関する名著を授けられた時親は、藤原氏に
    認められる程の文人であったに違いない。
    奥書には
             「文永三年十一月日依器量之仁大友太郎時親畢」
                       勅撰作者十五代後胤五代撰者 末葉為顕 及び為顕、時親の贈答歌
                       が収められている。
    また、
             「正応元年七月二十七日雖相伝秘本、依此道志深理達法師了、
                                           更々勿他人一見而巳  沙弥道恵
    とあって贈答歌が記されているという。

     さてこの奥書の「道恵」については研究者によって種々推測されているが、「大友太郎時親」は武士で
    あろうとする事は一致している。九州大学名誉教授で九州の中世政治文化研究の第一人者「川添昭二」
    氏は著書の中で豊後大友氏の庶流「戸次時親」の法名が「道恵」であることより「大友太郎時親」は「戸次
    太郎時親」と推測している。京では間々大友庶家の人物を「大友」と称している物もあり、管理人も「道恵」は
    やはり「時親」で間違いないと考える。

    戸次系図には「時親」は、正応3年4月4日(1290)筑前筥崎執行所において死去したとある。法名 道恵。

                                    参考資料  中世九州の政治文化史(川添昭二)
                                            豊後国図田帳(大分県立図書館)
                                            豊後国荘園公領資料集成(同上)
                                            大分県史料(36)第二部補完(8)
                                            戸次氏系図

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