都於郡城 (西都市都於郡高屋) 「日向伊東氏本城跡」 遺構 : 本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、奥の城跡、西の城跡、曲輪跡、土塁、空堀、井戸跡 城跡 : 西都原古墳群の南、約6km付近。 都於郡小学校の北東400mに位置 最大幅 東西400m、南北150m 本丸跡に「伊東満所」の像が立つ。 高屋山上陵伝説地 大手口標柱には、都於郡城本丸跡。伝説高屋山上陵とある 背後は曲輪跡の斜面崖 「都於郡城(とのこおりじょう)」は日向「伊東氏」が日向下向以後長く居城とした城である。別名:浮舟城 「伊東氏」と日向との関係は、源頼朝の御家人「工藤祐経」が縣庄(あがたしょう:延岡)88町など田島庄、富田庄、児湯郡の 一部などあわせて438町もの領地を与えられた事に始まる。「祐経」が日向へ下向することはなかたっが、庶子を派遣管理 した。「祐経」は建久4年(1193)富士の裾野で「曽我兄弟」に討たれるが「祐時」が跡を継ぎ、祐時の子「祐景」「祐頼」「祐明」 らが日向に下向。「門川・木脇・田島」の各伊東氏を起こす。その後鎌倉幕府は崩壊、南北朝の争乱もあってあ、一端日向で の伊東氏本家としての所領は失したとみられる。しかし「伊東氏」は南北朝期、一貫武家方「足利尊氏」に従い戦功を挙げる。 これにより「伊東祐持」は「尊氏」より日向国都於郡300町を与えられ下向。「土持氏」らの土着郷士らと競合しながら日向で の勢力拡大を図る。この為日向伊東氏の実質的初代は「伊東祐持」といって過言でない。 「祐持」の死後は「祐重(氏祐)」 が跡を継ぎ地元郷士達を束ね、「戦国武家伊東氏」の土台を築く。よって「都於郡城」は建武4年(延元2年1337)「伊東祐持」 が築城に着手、二代「祐重」が本格的に整備伊東氏の拠点とした。 (祐持は京に上っている時病死。嫡男祐重が急遽下向したが、祐持ちの病死と南北朝動乱に乗じ、都於郡城は一時一族の 守永野州一味に占拠されていた。止む終えず祐重は都於郡城の北西石野田城に入り、都於郡城有力家臣らを配下につ け奪回を果たす) 伊東氏は都於郡城をを拠点に48城と呼ばれる支城網を整備する。都於郡城は主郭の本丸、二の丸、奥の城、西の城を配 した本城と、東方に東の城、向の城、南の城、日隠城等の砦で固められた台地上の城である。都於郡城の特徴はなんと言 っても大規模な土塁と空堀にある。この様な大規模な掘削、盛土を可能にしたのは、この地方を広く覆う地層にあった。 この一帯の台地は中位段丘である。およそ13万年〜6万年前ごろまでに形成された堆積層である。締まってはいるが人力 施工は容易である。それが大規模な空堀、土塁の構築を容易にしたと見られる。 中位段丘の縁に良く見られる急勾配の崖は、段丘付近を流れる河川の侵食によって形成されたものである。 その後、永世元年(1504)、「都於郡城」は館など消失。これにより伊東氏の居城は南の「佐土原城」移されるのである。 天正5年(1577)、三州統一を勧める「島津義久」の前に「伊東義祐」敗退。都於郡城は島津の重臣「鎌田政親」が入る。 天正15年「豊臣秀吉」島津征伐に九州へ。「木下秀長」隊は豊後路を日向へ島津の将「山田有信の高城」を囲む。 迎える島津の主力35000は此の「都於郡城」に集結、高城救援を図った。是に対し「木下秀長」は、都於郡から高城への要所 「根白坂」を押さえた。天正15年4月17日、島津軍は根白坂の秀長隊に突撃を図るが、島津隊の出撃した殆どが戦死。島津 降参のきっかけとなった城である。 「都於郡城跡の現状」 大変によく保存された戦国九州初期の代表する山城。正に曲輪と土塁と空堀の城である。これほど大掛かりな土塁、空堀は 他に類を見ない。空堀は10m越えて深く、土塁は高く急斜面、難攻な造りである。本丸、二の丸、三の丸、西の城、奥の城は 夫々深く空堀で分けられ独立構造である。おそらく各主郭曲輪ごとに城代的な重臣が配置され、其れどれ専守防衛構造にな っている。相当の城兵が必要で、往時の伊東氏の力の大きさが窺える。現在では、公園化されたり手を加えられた山城跡の 多い中で、築城時代の原型をほぼとどめていると見られる。戦国の終焉と同時に廃城となった事が幸いしたのであろうか。 訪れた時近くの老婦人と話をした。「此のあたりは武家屋敷跡が多く、家も高台にあって不便。山も多いが中に墓も多い。掘 れば骨ばかり出てきます。合戦で死んだ人、どこそこ埋めたっでしょう」とおっしゃった。そうかもしれない。 現地を見て解せない事がある。其れは此の城跡は各郭(曲輪)が空堀によってほぼ独立、しかも本丸、二の丸など夫々高く 土塁で守られている。火災にも強いはずである。伊東氏は都於郡城が炎上したため居城を佐土原城へ移したとされているが、 五城郭と言われるほど独立性の高い城が、全て炎上したとはとても思えないのだが。何か日向統冶の過程で戦略上の理由 があったのではないだろうか。 縄張り案内図 本丸跡:伊東満所の銅像が建つ 本丸囲む土塁と二の丸間の空堀 二の丸、三の丸間の空堀 二の丸の本丸側土塁 二の丸より三の丸、西の城望む 「伝説地高屋山上陵」 検索すると、都於郡城跡の情報は結構多い。しかし「高屋山上陵伝説地」を取り上げたものは未だ見ていない。 御陵については、此のホームページ「神代三代御陵」で紹介した。そのページの中でも一部触れたが、神代三代の御陵は全 て鹿児島県内にある。明治政府が此処と決めたものである。ところが当時宮崎県の伝説の地こそ御陵だと、宮崎県の史家が 抗議した経緯もある。しかし薩摩権力の強い明治政府が決定してしまった。それがこんにち宮内庁の管理する鹿児島県内の 三箇所の山陵である。 この「都於郡城跡」のある地名は西都市高屋という。此の都於郡城址こそ宮崎の史家が「彦火火出見尊」の陵「高屋山上陵」 という伝説の地であ(宮内庁管理:高屋山上陵:タカヤノヤマノエノミサギ:霧島市溝辺)。現在は本丸の中の林に「傅説高屋 山上陵」の標柱が建つのみである。唯、本丸曲輪の中央に奇妙な板碑群がある。説明がないので何なのか分らないが、な にか宗教的な意味があるようにも思える。一見して近世のものでは無い。 二代「祐重」は此の城築城の折、上陵を発掘し出土品を近くの「一乗院」へ納めたとされる。此の板碑は、上陵として何らかの 関係があるのものなのか ?。 高屋山上陵伝説地標柱 本丸跡の中央にある石柱(板碑)、上陵跡? |