島津追討顚末


    天正14年10月(1586)、豊後日向国境梓峠を越え、豊後へ侵入した「島津家久」は、宇目朝日ヶ嶽城、三重松尾城を
    押さえた後、佐伯栂牟礼城、臼杵丹生城、利光鶴賀城、と攻めたが一度も勝利しなかった。
    そして「戸次川」では、大友支援の四国「千石秀久」の拙攻に乗じ大友軍を撃破、大友義統は逃亡する。
    「戸次川の戦い」が決着すると「家久」は「鶴崎城」を攻める。此の合戦は序戦は勝利したが、天正15年3月「義久」の
    撤退命が出た時薩摩勢に油断あり。鶴崎城の女武将「妙林尼」の知略戦法に大きな損害出す。豊後を退く事になっ
    た島津軍は開陣、侵入時と同じく辺境の豊後日向国境へ向け帰路についた。
    この島津勢の豊後撤退に、岡城:志賀親次、栂牟礼城:佐伯惟貞が追討を仕掛けた。その顛末である。
    中世の日向より豊後入りの経路は諸書の記述より、縣(延岡)より北川の右岸(東)を北上、八戸の下流辺りの浅瀬で
    瀬踏みで渡河、八戸で一泊。此処より難所国境の「梓峠」を越え水ヶ谷へ下る。水ヶ谷より重岡、宇目、小野市へ至っ
    た。おそらくは宇目酒利辺りで一泊したと見られる。宇目、小野市発った後の経路は、二ないし三経路あった。
    先ず、東は宗太郎峠より直見を経て栂牟礼城(番匠)へ至る。 小野市より「三国峠」を越える。そして小野市より梅津
    越え「山梅峠」大白谷、宇田枝経て豊後大野荘へ至ったと見られる。三国越や旗返峠は北側の起伏深く難所である。
    通常は梅津越えであろう。


    (1) 山梅峠合戦

       「島津家久」は豊後表を引き払い三重松尾城まで退いて此処で人馬を休めた。天正15年3月16日(1587)松尾を
    発って三重と宇目の境「山梅峠」へ差し掛かる。
    家久が豊後表を引いた事は、直入「岡城主:志賀太朗親次」へも伝えられた。「島津義弘」が攻め込んできた時、難攻
    不落要害の「岡城」へ籠もり、島津勢を撃退した「親次」も、此の時は勇み城を出し追討を仕掛けた。
    「親次」は「進肥前守・後藤遠江守」に一千五百余騎をつけ、主家の無念一矢報いんと、梅山峠越え退却する島津勢
    追討を図る。
    「進肥前・後藤遠江」の両将は、緒方郷「庄ノ市」(場所不明)において軍議を開く。評議は、此の度の山梅峠の合戦は、
    此の地節所(切所:難所)なれば、大軍を摩(まくる:大軍を勢いづかせること)くるには鉄砲戦以外にはなしと、80挺の
    究意のの士卒の内より、熟練の二十人を択出した。これらの者は百発百中、正心思無邪気直身正気眼晴眇々たる三
    調子の者である。両将これ等に下知して、曰くの峠より七、八分下ろし茂みの中に潜ませた。「汝らは、自餘の敵は構
    うな、唯中書(家久)一人を狙うべし。二つ玉こめて仕損じる事なかれ、日ごろの稽古は此の時なり。「家久」と見えた
    れば、中書一人を目当てに二十挺をつるべ打ちに討ち捕るべし。討ち捕ったならば、兼ねてより見置きたる間道を引
    取れ。道不案内の薩摩勢節所(難所)なれば、追う事も叶うまじ。鉄砲の音聞こえたならば峠より下ろすべし。峠の鉄
    砲は一丁も撃つべからず。」と下知し、鳴りを静めてひそんだ。
    やがて家久率いる薩摩勢は、隊伍厳整と次第を乱さず、先陣は峠へを越え坂を早下りに趣く。此の時、進肥前守の
    手に「蘆雁俣之助」という大力の勇士がいた。此の者弓勢人に勝れ、四人張りに、三尺五寸の矢束(やつか)を引き、
    雁俣(かりまた:鏃の先が二股になった矢)にて、鹿を重ねて射通すことも多かった。依って名字と名前の間にに雁俣
    と付けたほどの痴れ者(しれもの)で、合戦にて高名なせば云う事なしであったが血気盛ん、後先考えず粗忽第一で
    あったため、未だ立身せず、徒弓(かちゆみ)二十人の組頭にすぎなかった。
    俣之助は。空穂より矢一筋取り出し四人張りに打番い「射よげにや覚えけん、此の矢先にて敵如何ほどにか射殺さ
    ん。天晴れ中書が胸板通しつべし。」と広言して、二、三度素引きしたところ誤って其の矢手元離れ家久の前に打ち
    たる武士の鞍の鞖(しおで:鞍の前、後ろに付く輪)の外れにズバッと突き刺さった。馬は驚き跳ね上り武士はドット落
    とされた。此れを見た島津家久、此の辺りに伏兵ありと下知「率時爾(急ぎ)に進むべからず。」と峠に馬を控え四方
    に軍勢を配置、不意の襲撃備えた。此れを見た後藤遠江守「今日の軍(いくさ)は仕損じた、されど暫く様子を見よ。
    今鉄砲放たば二十挺の筒の者共と合図が異なる。、敵懸からば踏みこたえて討て、多分討ち越すものなり。汝ら心
    静めて日頃の鹿鳥の思いをなし、目当てすりはりを肝要にせよ(狙う敵を見定めよ)」と下知した。手の者に、堀八郎、
    首藤五郎大夫という武勇に励み、特に鉄砲は巧手であったが、二十挺の内に漏れた事を無念に思い「我等の鉄砲
    は島津に当たらずとでもか」と呟き茂みを分け窺い見ていた。しかし島津勢は多勢、家久を見出す事はできなかった。
    逸る心を据えかねて居る所へ、爽やかに鎧たる武者二人行くを見て、決して射損じることはないと、遠矢にて一人ず
    つ射落とした。島津勢は皆馬を降り、槍を押っ取り押っ取り突き懸かってきた。此れに岡城勢は、五十八挺の鉄砲を
    立て続けに射ちかければ、敵の生死は不明であるが多くを射ち伏せ二町ばかり追いたてる。そこへ備えておいた横
    矢の者が散々に矢を射掛ける。なお坂の半ばまで下ろしておいた二十挺の者も合図とは異なるが、間道を伝い来て
    横や鉄砲を放った。岡勢は此れに勢いを得て火出るほどに戦い、遂に相引きに相引きて薩摩勢は峠に陣をとる。
    岡城勢の多くは今一軍ををと威きりたったが、遠江守は此れを制止、「親次」はこれまで一度も薩摩勢に後れを取っ
    てはいない。「此のたびの軍は仕損じた。日頃の誉れをを失うも詮方なし」と、宇田枝まで退き討取る28の首級を検
    分した。内五つは甲首であった。岡勢の損害は宇田枝、日野辺りの雑兵の17人であった。
    岡の城へ戻った「進・後藤」の両将は、「親次」へ蘆雁俣之助が軍令に背き、堀八郎、首藤五郎大夫の傍若無人の
    行跡が、戦術の狂った事を悉く申し伝えた。
    しかし「親次」は、このたびの合戦は天が「家久」を助け給うた故である。軍の勝負は時の仕分けにもよる、天運に叶
    いたる「家久」の鋒に逢うて、このたびの軍は十分な勝利であると素直に満足し、島津が首を臼杵丹生島の「宗麟」
    へ送るり首実検へ備えた。


    (2) 梓峠合戦佐伯肩衝之事

       前日「山梅峠」で岡城勢の奇襲を受け、岡勢の不手際により難を逃れた「島津家久」は、3月17日日向越えへ
    最大の難所「梓峠」越えに掛かった。
    この島津勢を追って討ち取らんと佐伯「栂牟礼城:佐伯太朗惟定は自ら「朝日ヶ嶽城」まで打って出て先手の勢を
    差し向けた。先陣は佐伯久左衛門尉惟澄、高畑伊予守。二陣は泥谷左京進、高畑新右衛門である。相従う者共は
    天野大炊、佐谷左膳、同志摩守、同肥前守、汐月兵左衛門、高畑理兵衛、河野三左衛門、奈須右京、杉谷兵部、 
    同源四郎、同帯刀、同五右衛門以下都合二千余騎、島津勢に先んじて「梓峠」まで押し上げて「鳥雲」の陣取り、
    此処かしこに伏せ静かに島津勢を窺い待った。
    やがて島津勢は峠を越え二本杉を過ぎて下り坂に差し掛かった。時分を見計らっていた佐伯勢は時は良しと、下る
    島津勢へ向け頻繁に鉄砲を撃ちかけた。狙いも外れる事は希であった。島津勢の後殿(しんがり)は尾合伊予守、
    少しも臆せず取って返し峠まで攻め返えしてきた。是をみた土佐入道匤得、時分は今と横合いより付きかかれば、
    もとより鳥雲の陣なれば伏せて置いた士卒、地勢よく知り鳥の如く雲の如く方々より群がり出て鉄砲を撃ちかけ、
    矢を射かけ退けば討ち、攻めくれば討ち峠より攻め下った。それでも島津勢の勇士七、八十騎二たび攻め上ってく
    る。佐伯勢二陣の大将泥谷左京進、真っ先に進んで敵中に切り込み七縦八横、縦横無尽に切り結ぶも遂に討ち
    死する。そのほか佐伯勢の手負い討ち死も多く、はや敗軍と見えたが、この場所は節所(せっしょ:切所:難所)の
    ため、地勢よく知る佐伯勢は先陣後陣関係なく、各所に群がって鉄砲を撃ちかければ遂に島津勢は坂下へと逃げ  
    退いた。この時島津勢にいた日向の田野某も後藤主水に討たれ、島津勢の討ち死三百にもなったことから、島津
    勢は大いに憤りまた、峠近くまで攻め返し双方暫く戦ったが、やがて相退きに引取った。
    島津勢の退いた後、うち捨てていった荷物を佐伯の雑人たちが拾い集めた。その蓋を開けると様々な物が入って
    いたが、「肩衝」の茶入れがあった。佐伯惟定是を見て大いに喜んだ。この肩衝、その初めは公方「義輝公」が所
    持していた物を一年(ひととせ)「宗麟」へ下されたものである。其の後宗麟は家臣の茶の達人「臼杵入道紹冊」に
    与えた。ところがこの度の島津府内乱入のおり、如何にしてか「家久」手に渡り、他人の物となるところ不思議にも
    「佐伯氏」の手に渡ったものである。
    其の後、「東照大神君」の御重物となり、「佐伯肩衝(さいきかたつき)」と召されたのはこの肩衝であった。

                      
                     国道326号北川町下赤付近より遥か「梓峠」望む
                    


                                                   参考資料   豊薩軍記
                                                            九州諸家盛衰記
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