長宗我部元親


      「長宗我部元親(天文8年〜慶長4年)」・申すまでもなく戦国時代を代表する大名の一人である。
     土佐「岡豊城(おこうじょう)」20代当主。永禄3年5月(1,560)宿敵「本山氏」との「長浜の戦い」に父「国親」と
     共に出陣初陣を飾る目玉しい活躍で本山氏を破る。同年6月父国親の急死により家督を継ぐ。元親は小豪族の
     ひしめく土佐を15年かけて統一する。さらに元親は、讃岐、阿波、伊予と次々制圧し天正13年(1,585)遂に四国
     全土を手に入れる。
     元親の四国平定の過程において最も著名な合戦が「中富川の戦い」である。元親は本能寺の変の混乱に乗じ
     阿波平定へ動き、宿敵「十河存保」を討つべく阿波に侵攻した。天正10年8月27日元親は二万三千もの大軍を
     率いて中富川河原(吉野川)に本陣を敷いいた。是に対し8月28日十河(三好)方は五千の兵で応じたが長宗我
     部軍の勝利で決着する。
     しかし元親にとって此処までが絶頂期であった。信長に取って代わった「秀吉」の前に成すすべなく四国の勇も
     屈する。
     天正14年、九州では筑前の一部、豊前、豊後を除き薩摩「島津義久」の勢力下に入り、豊後大友氏もまた島津
     氏の脅威にさらされていた。豊後の「大友宗麟」は秀吉の臣下となって救援を要請する。是に秀吉は同年10月
     讃岐「仙石秀久」を陣頭に同讃岐「十河存保」、土佐「長宗我部元親」らに豊後救援を命じた。
     天正14年12月12日豊後国戸次庄(へつぎのしょう)「戸次川(大野川)」を挟んで右岸利光郷には「島津家久」の
     一万八千(実情は一万二千程度か)が、左岸「鏡城」には四国勢の六千主力に凡そ八千が対峙した。
     秀吉は四国勢に対し、秀吉主力の届くまで軽率な行動は控えよと命じていた。ところが仙石秀久は、島津の得
     意とする巧みな搖動作戦につられ、元親らの制止を振り切り渡河を強行する。こうなっては長宗我部、十河勢も
     やむなく後に続いた。この四国援軍の行動は、島津家久の思う壷となり、四国勢大友勢は一気に押し包まれ壊
     滅的な敗戦をきす。この時無謀な渡河を強行した秀久はいち早く逃亡、長宗我部、十河勢は多くが討ち死だす。
     長宗我部勢は、元親嫡男「信親」ほか七百余の損害を被る。この「戸次川の戦い」での「長宗我部」の敗戦は、
     長宗我部衰退の発端ともなった。中でも「信親」の戦死は元親を落胆させ、元親死後(1,599年)後年の家督継承
     、関が原(1,600年)への対応にも大きく影響した。

                        
                       長宗我部元親初陣像(高知市長浜 若宮八幡宮)
                   この場所は永禄3年5月本山氏と戦い、元親の初陣を飾った
                   長浜の戦いの長宗我部国親、元親の本陣となった場所である


           

           
            「中富川の戦い」の前夜「長宗我部元親本陣」の再現(高知県立民族歴史資料館)
            歴史資料館の場所は、長宗我部元親の居城「岡豊城(おこうじょう)」城跡である。
            土塁、空堀、曲輪、石垣、井戸など残る。
            管理人は、2010年8月訪れた


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