戸次右衛門大夫



        「戸次右衛門大夫」、後に立花姓許され「立花右衛門大夫」。筑後柳川「今古賀城主」
      「藤北戸次氏」、「戸次右馬助治部大輔親正」の嫡男で「親繁(休松の戦い戦死)」の次男。本名「鎮實」戸次氏
      系図によれば「号立花、慶長5年於筑後国八院戦死」とある。
      しかし、右衛門大夫に関する資料は実に乏しく、その詳細な経歴は殆ど分らない。常に「戸次鑑連」と行動を共
      にしていたとみられることは鑑連の周辺資料よりうかがえる。
     「道雪様筑前立花城二被御座候節控帳写」という古文書の中には「天正十壬午年
   霜月十八日之御城
於御本丸西之御城御旗御名字御祝正面二者統虎公
   左之御脇ヨリ次第不同 御屋敷二而
」とあって「戸次越中守戸次次郎兵衛戸次弾正
      戸次勘右衛門」らと共に「戸次右衛門大夫」の名が上位に名を連ねている。
     また、同古文書の中に「道雪公御病中奉附添御看病仕候衆」にも「立花淡路入道立花次郎
     兵衛
立花勘右衛門」らと共に「立花右衛門大夫」の名があって、姓「立花」を許され、病気の「道雪」に付き添っ
     ていたことが分る。このように、右衛門大夫は常に「道雪」に帯同していたと思われる。
     合戦での働きの程は分らないが、「天正9年11月の「小金原の戦い」では、戸次越中と共に出陣し、激戦を繰り
     広げたことが風土記へ書かれている。天正12年の「道雪・紹運」の筑後出陣に際しても同行していた事も分る。
     吉永正春先生の「筑前戦国史」「道雪紹運筑後出陣」の項には「黒木家永討伐の過程で竜造寺援軍との合戦で
     激戦となり、道雪の弟戸次右衛門大夫はこの戦いで、流れ弾に当たって戦死した(P214)」と紹介がある。
     管理人はこの情報の元となった出所は知らない。おそらく間違いである。

     「立花統虎(宗茂)」が柳川を所領入国したとき「右衛門大夫」は、柳川支城六城の内「今古賀城」の城持ちと
     重用されている。当時の城持ちとなったのは外に「立花三郎左衛門」「立花三左衛門(米多比)「小野和泉」
     「由布雪荷」「立花三河入道(薦野)」らの名将ばかり、合戦における右衛門大夫の戦功等は全く不明であるが、
     「道雪(戸次鑑連)」の信望厚く城持ちとなるほどの功績があったと見られる。

                    
                     「右衛門大夫父子の墓」(大木町横溝掘田、圓通庵跡)
                    左の五輪塔がやや大きいことから右衛門大夫と見られる

     「立花右衛門大夫」が戦死したのは「関ヶ原の戦い」の敗戦後、徳川戦勝の中で、同じく敗戦の辛酸をなめ生き
     残りをかけ攻めてきた肥前「鍋島直茂・勝茂」親子との戦い「八院の戦い(慶長5年:1600)」である。
     大分県立図書館「米多比文書」の中に「米多比氏」の「戦死帳」という古文書が収録されている。この書は、
     「立花山城より柳川城」までの、立花氏に関する戦国期の主だった合戦での戦死者を、合戦ごとに記載したもの
     で、この中に「筑後国江上表戦死」というのがあって、いわゆる「八院の戦い(慶長5年10月20日・1600)」での
     立花家中の主だった戦死者が記されている。
     冒頭に「立花右衛門大夫鎮實、戸次刑部二男」次に「立花善四郎(親雄)立花右衛門大夫二男」とあって、親子
     で戦死している。右衛門大夫親子は、柳川の第二陣として僅か700騎を以て江上に出陣、圧倒的優勢の鍋島
     勢に退路絶たれ壮絶に戦死を遂げる。この時二男「善四郎」は若年僅か17歳の青年武将であった。
     通説は、右衛門大夫は八院で戦死したとされているが、合戦名が「八院の戦い」で、戦死した場所は八院より
     は数町北の「久留米市城島江上」と見られる。
     「右衛門大夫、善四郎」の墓は、「大木町横溝堀田圓通庵跡」にある。道路脇にあってアクセスは良いが、複雑
     に入り組み分りにくい。




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