瓜生島伝説



    文禄地震で消滅した沖の浜を誇大化した想像の島伝説

     史実と信じられていた「瓜生島伝説」も、こん日では科学的根拠が無く想像の島とされている。しかし16世紀
    末まで大分川の河口に沿い「沖の浜」と言う大洲があって、大友氏時代には大友氏のの貿易港もあったと言う。
    この沖の浜は文禄(慶長)地震で大部分が海に沈み消滅した。瓜生島沈没伝説はこの沖の浜沈没を誇大化
    した想像の島の伝説である。
    瓜生島伝説は大分県民なら概ね知っている豊後民話の一つである。

    瓜生島沈没伝説
    現在の別府湾、西大分沖には東西36町、南北21町の島があり東西に開いていた。
   島には本町、ウラ町、新町といった街も整備され、農業、漁業、塩釜などおおよそ数千軒の住家があっ
   た。寺や神社もあり穏やかな暮らしの島であったが、ある年地震と津波により沈没したと言うのである。
   島の蛭子社という神社に「恵比寿像」があってこの恵比寿様の顔が赤く染まると、天変地異が起きると
   伝えられていた。ある日、島のふらちな若者の一人が、いたずらに恵比寿の顔を
く塗ってしまった。
   すると突然地揺れが起き、大津波が襲い島は沈没、多くの住民が死んでしまったと言うのである。


   この瓜生島伝説に関連し子供のころ聞かされた民話、正確には覚えていないが以下に紹介する。
     
    民話(1)
   前記の民話とは少し異なるが、HP管理人が小学生のころ聞いた話では、島の神社には狛犬があって、
   狛犬の目が
く変わると、地震が起きると云われていた。ある時子供がいたずらに狛犬の目を赤く塗っ
   てしまった。すると地震が発生大津波が来て島が沈没し大勢の人が流されたと云うものである。


    民話(2)
   「また、こんな民話も聞いた。 島に大変仲の良い姉妹がいた。妹の名前をかっちゃんといった。
   ”かっちゃん”は長い髪をしていた。ぽかぽかと天気の良いある日、姉妹は縁側にいた。”かっちゃん”
   は柱に寄り添い、姉は櫛で妹の髪すいてあげていた。髪をあたられ気持ち良くなった妹のかっちゃんは、
   柱に寄り添ったまま居眠りをしていた。是を見た姉は、いたずらに”かっちゃん”の髪を柱に結んだ。とこ
   ろが突然地震と共に大津波が襲ってきた。
   姉はかろうじて逃げたが
かっちゃんは家とともに沈んでしまった。姉は自分のいたずらで海に沈んだ
   
かっちゃんを大変に心配し、かっちゃんの髪はとけたただろうかと、いつしか鳥のホトトギス
   なって空を飛び
かっちゃんとけたかと鳴きながら今も飛び続けているというのである。
   そういえばかっきょ、きょきょきょと鳴く豊後ホトトギスの鳴き声は、耳を澄ますと確かにかっちゃん
   とけたか
と聞こえるのである。


              瓜生島(想像)古図
              この図はあくまで想像に過ぎないが、面白いのは島の西街の南(下)に
              勝久塚(大分川の河口をまっすぐ延ばした突き当たり、濃青色の石塔が
              見られる)
が書かれている。是は「島津14代勝久」の塚と見られ、勝久は
              貴久との家督争いに敗れ、豊後大友氏を頼り逃避し「浜の市」へ住んだ
              とされていることからここに書かれたのであろう。浜の市は上図の左上に
              見える「生石」で行われていた豊後大友氏の最大の行事の浜市の事で、
              日本三大浜市の一つであった。
              従って勝久は生石辺りに屋敷を与えられたと見られる。

    戦国期より藩政時代、豊後の国は三度大きな地震があった。「慶長地震(慶長元年7月、1596)」(注):慶長へ
   の改元は文禄5年10月27日である。地震は閏7月9日発生していることから正確には「文禄地震」である。
   「宝永地震(宝永4年10月28日、1707)」「安政地震(安政元年12月24日」と三度発生している。このうち「瓜生島
   伝説」と結び付けられたのが「慶長(文禄)地震」である」。
   地震から凡そ100年後の元禄12年(1699)、唐突として瓜生島の名前が登場する。豊後府内(大分)の学者「戸倉
   貞則」の書いた「豊府紀聞」に取り上げられ話題はいつしか誇張されて人々の中に広まった。
   地震の発生は地震学者の間でも事実として認知されているが、残念ながら瓜生島沈没は科学的根拠のない空想
   の伝説である。では何故「瓜生島」は実在の島として扱われたのであろうか。

    現代の西大分「生石」「清家」「大分川」沖には「沖の浜」という大洲が広がっていた。この沖の浜のことはポル
   トガル、中国の書物にも記述され、大友家文書、中川家、立花文書にも見られるという。沖の浜の存在は歴史的
   な事実である。沖の浜は戦国期は「大友家」の海港でもあったという。中川氏が岡城に入ると岡領として支配し
   岡藩の船着場でもあった。場所も「瓜生島」のあったとされる位置に整合する事から、「沖の浜」がいつしか「瓜生
   島」と混同され、あたかも瓜生島が実在の島のように扱われてしまったのである。
   それは何故か、この「文禄地震」西日本一帯を襲った大地震である。(同年京畿地方でも大地震があった。)
   豊後も別府湾沿岸中心に甚大な被害のあった事が記録として伝えられている。例えば別府村が悉く海のように
   なった事。乙津川河口付近では大津波により「石高」が激減した事、中川家の船着場の支配であった柴山夫婦
   が海にのまれたが九死に一生得た事も史実という。
   おそらく砂州であった「沖の浜」は、大規模な「ゆりこみ」が生じ大洲の多くは消失したのではないか。
   この事実が、いつしか「沖の浜」を瓜生島に置き換え「海に沈んだ島、瓜生島伝説」が誇張されて出来上がった。
   こん日問題なのは、地震予知も可能にしょうとする「地震学」が、今なお瓜生島を慶長地震(文禄地震)で陥没
   した島として扱っている事である。

   瓜生島非存在説
     大分歴史事典”沖の浜”:”沖の浜の瓜生島説は誤り”橋本操六氏はその末尾に、次のように述べている。
   地震発生後間もないある日、桜八幡宮(国東町)の宮司坊権大 僧都(そうず)豪泉(ごうせん)は、同宮宝物の
   大般若経題424巻の巻末余白に「文禄五年丙申閏七月九日大地震仕、豊後興浜悉ク海ニ成、人畜ニ 二千余
   死ト云々」と書き留めている。その後、尾ひれがついた噂が伝わったらしく「亦口興ノ浜計二十万人死ト云々」と
   署名の上に書き加えている。豪泉56歳の時の記録である。(579巻)。
   次の史料は、地震後72年目寛文7年(1667)のもので、今津留村、萩原村に連なる原村庄屋文書である。「みこ
   田」をめぐる高松村との相論文書であるが、発生は9日七ツ半(午後5時)時分に「ゆり出し」津波が押しよせた。
   なめ(地震)のゆり出しは高崎方面からで、長ふちからみこ田にかけて地割れがおこったという。さらに、原村に
   ついては、「大地震大浪仕、右之田畠大分損シ無田ニ成申候ニ付・・」大浪大地しんニ田畠大分ゆりこみ、むた
   ニ成・・(註)此の無田とは牟田とも書き、湿地化し田んぼが駄目になった事である)」ともみえる。
   この二点の史料からすれば、地震の発生は「由原宮年代略紀」等にみえる閏7月9日の午後5時ころとするのが
   正しいことになる。また、陥没というより「ゆり込み」とあるように、液状化、あるいは辷り現象による消滅を思わせ
   る。尚、原村の沖あいに隣接していた松崎村住吉村は全て海没したとある。


                                         


                                 トップへ