鷲ケ岳城  
              筑前大友五城



        「鷲ヶ岳」とは、福岡県那珂川町西方の南面里(なめり)にある山(454,4m)である。
       この山は、中世戦国期豊後大友氏の支城「鷲ヶ岳城」のあった所で、筑前大友五城の一つ
       であった。築城したのは「大鶴上総守宗秋」、宗秋は元はといえば、城持ちになるほどの重臣
       ではなかったという。
       大友義鎮の武将としての器量ははかりかねるが、その武威は六カ国の守護を手中に収めた。
       これには「長増」「鑑連」「鑑理」「鑑速」ら優れた重臣たちの働きによるものであった。この様に
       義鎮家中には、勇士猛将は多くは有ったが、なにせ豊後国は京にも遠くしかも戦国乱世、この
       ため礼儀作法を知る者がいなかった。
       上方に人を遣わし和礼を習わせ、家中にも教えたいと思ってはいたが、乱世のため多く上らせ
       ることはできようも無かった。このため、小臣の中より才ある者一人を遣わすこととなった。
       選ばれたのは「大鶴九郎」。この者小臣なれど器量才覚に優れ、京の都に三年逗留、伊勢氏
       に師事し和礼を学び、猿楽より、刀剣の目利きなども習い得て帰参した。
       (伊勢氏とは、桓武平氏の流れ組む一族。室町幕府側近、武家礼法「伊勢礼法」確立した)
       義鎮は大変に悦び、恩賞として筑前那珂郡の内、岩戸、河内の三百町を与えた。大鶴九郎は、
       こののち改名「大鶴上総守宗秋」と号した。
       その後上総守は岩戸に入部し、地形険阻な高山を選んで築城「鷲ヶ岳城」と名付け、上総守は
       剃髪して「宗雲」と号した。
       この「鷲ヶ岳城」は、後年筑前大友五城のひとつと呼ばれる。「柑子岳城」、「安楽平城}と共に
       大友義鎮の博多支配の西の拠点となった。
       この大友の備えに、筑前進出もくろむ肥前「竜造寺隆信」は、原田、筑紫らと謀り大友支城への
       攻勢を強める。天正7年9月「安楽平城」落城。同年冬には「柑子岳城」も開城される。
       大友氏の筑前西部の防御線は各所で綻び、鷲ヶ岳も風雲急を告げていた。
       天正7年10月24日、肥前「竜造寺隆信」が動いた。「大田兵衛」を大将として4000余人、肥前
       神崎より坂本峠越え、筑前五箇山大野より那珂郡へと侵入「南面里」へ陣を敷いた。
       この肥前勢に、筑紫右馬之助廣門が加勢、一つになって鷲ヶ岳城を攻めた。
       肥前勢鷲ヶ岳に押し寄せるの情報は岩屋城「高橋紹運」の耳に届いた。紹運は「大鶴宗雲」を
       援護のため、後詰として鷲ヶ岳城の北東、山田山へ陣を敷いた。
       この事態に肥前大田兵衛、筑紫広門は、鷲ヶ岳城を攻めるにしてもどれほどで後詰しておくか
       決しなかった。そこへ「紹運」後詰とあって、以外にも太田兵衛は陣を引いた。しかし「広門」は
       陣を引くことは無かった。これには「秋月種実」との談合があった。紹運を鷲ヶ岳に留め置き、
       紹運居城岩屋を秋月勢が乗っ取る企てであった。秋月勢は筑紫との談合通り、江利内蔵助、
       長谷山民部、内田善兵衛、板並左京ら凡そ五千余、岩屋城下へ押し寄せた。
       このことは直ちに岩屋を預けられていた「紹運」腹心「屋山中務」より紹運の下へ注進がった。
       本城の危急に紹運は岩戸に進めていた陣を退くことになった。
       陣は退くときが最も危ない。退き行く岩屋勢に「筑紫広門」の二千余りが激しく突いて掛かった。
       岩屋勢は厳しい退却となったが、成富左衛門、土岐大隈、荒川隠岐、萩尾麟可などが御笠郡
       大利の辺りで殿となって筑紫勢を半途まで押し返しす。この隙に「紹運」は岩屋城へ入った。
       秋月勢の四千余りは岩屋の向かい、高雄山(太宰府市石穴、152m)の麓まで詰め寄せていた
       が屋山中務、高橋越前、土岐大隈、福田民部らが一つになり押し返し、秋月勢若干の戦死の
       討ち死だし退いた。一方筑紫勢は尚も取って返し、紹運の軍勢と入り乱れ戦っていた。
       そのころ立花山城主「戸次(立花)道雪」は湯の浦山(場所不明)と云う所に出陣していた。
       岩屋表にて合戦ありとの知らせに、一気駆けにて岩屋へ向かい、水城川原(御笠川)より筑紫
       勢の後ろより一気に打って出て鬨を作った。突然の道雪軍の出現に筑紫勢も一矢も射ず南へ
       直違いに退却、古賀長岡(筑紫野市古賀、永岡)より肥前養父郡へと引いた。
       鷲ヶ岳城の「大鶴上総守宗雲」、この時は一旦難を逃れた。
       天正7年以降「柑子岳」「安楽平」と、大友筑前の支城は次々と落ちた。天正9年「鷲ヶ岳城」は
       再び「竜造寺、筑紫」の四千五百余りが攻め込んだ。攻めては、急坂を一気に攻め上がり隙
       無く囲み、昼夜をとわず鉄砲攻撃をかけた。この攻め手の激しい攻撃に「宗雲」はついに開城。
       城を開け渡し城を降りた。
       天正7年から9年にかけ、筑前の大友支城は次々と落ち大友氏の筑前西部の支配はおわった。
       のこる大友支城は、道雪の「立花山城」j、紹運の「宝満城・岩屋城」のみとなった。

           降参した 「宗雲」は出家し「浄慶」と号し、麓の南面里に「鷲岳山・正應寺」を開く。 
           現「正應寺」の住職「大鶴速水氏」は宗雲より十七代という。

                  
                           正應寺(那珂川町)

       (余談)
           最近、那賀川町安徳大塚遺跡群で、中世戦国期の山城「陣城」跡が確認された。
           この場所は、「紹運」が鷲ヶ岳救援に陣を進めた岩戸に近い。紹運もこの「陣城」に
           陣を置いたと確信する。


                                参考資料  筑前国続風土記
                                        福岡県無名山301 (滝澤 昭正)


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