山鹿古城(福岡県遠賀郡芦屋町山鹿)

    芦屋町山鹿は、遠賀川の河口より東の海辺一帯の地名である。芦屋は古くには蘆屋と書き、筑前国続風土記は
    蘆屋こそが神武天皇が東征のおり入った岡湊(おかのみなと)であるとしている。山鹿の初見は日本書紀の仲哀
    天皇の記である。芦屋は神武天皇、仲哀天皇、安徳天皇と三人の天皇に縁のある重要な湊であった。


  「はじめに」

   岡水門岡湊:おかのみなと:神武天皇東征御座の地)」
         神武天皇東征仮宮と仲哀天応筑紫行幸の地

 古代福岡県遠賀地域は「崗縣・瑦舸縣(おかのあがた)」といい、遠賀川の河口付近芦屋辺りは「山鹿」「岡浦」
 「岡津」 「瑦舸水門」として日本書記にも記されている。古代より「岡湊(おかのみなと)」と呼ばれ良港の地(湊)
 として栄えた。また、万葉集などの歌本には「水ぐき(茎)の岡のみなと・」と詠まれている。ここにいう水くきとは
 水の入り所(河口)のことである。
 日本書紀仲哀天皇紀では「仲哀天皇八年春正月巳卯壬(西暦199年)」、天皇は筑紫行幸を決め、崗縣の主の
 迎えを受け海路「山鹿岬(芦屋町山鹿)を目指し、岡浦より水門(みなと)に入り満潮を利用して無事岡津に着い
 たと記す。
   

 古事記の「神武東征」では、神武天皇は「宇沙(宇佐)」を発ち筑紫へ向かうが「自其地遷移而、於竺紫之岡田
 宮一年坐(竺紫のをかだの宮にひととせましき)」とあって、神武天皇は「岡田宮」に一年とどまったとしている。
 又、日本書紀神武天皇即位前紀にも、天皇至筑紫岡水門(筑紫のおかのみなと)とあるだけである。
 只、日本書紀の記述を陰暦で逆算すれば、紀元前667年の出来事となるる。

    ・ 此処でいう「水門」とは「」ではなく「」を指すとみられる。
    ・ は、船の発着する施設。
    ・ は、港のある陸地部分を指す。
    ・ は、船の集まる場所地名をさす。
    ・ は、陸地のいりこんだ海浜部。


   岡田宮おかだのみや)

 古事記によれば、岡田宮は神武天皇が東征の途中一年留まったとされる場所である。しかしその位置は竺紫
 のとあるだけではっきりしない。日本書紀でも前記したように筑紫岡水門とあるだけで此れもはっきりしない。
 実は現在福岡県には神武天皇の留まった岡田宮のあったとする場所が二か所ある。一つは芦屋の「神武天皇
 社跡」、もう一つは北九州市八幡西区岡田町「岡田神社」である。
 日本書紀仲哀天皇紀には「山鹿岬目指し・・・岡浦より水門にいり・・」とあって、岡水門が芦屋であることは窺が
 えるが特定できない。只こん日芦屋町に「岡田宮」と名のつく神社は存在せず。今のところ再建された神武天皇
 社の在る所あたりがが岡田宮跡であろうとされているのである。
 芦屋町船頭町には「岡湊神社」があって岡田宮と混同されている向きもあるが、こちらは神武天皇社のご神体を
 祀ってはいるが、本来岡垣の高倉神社の下宮でご祭神は大蔵主命と莵夫羅媛命(つぶらひめのみこと)である。
 一方八幡西区岡田町(黒崎)には「岡田宮」であるとする「岡田神社」がある。黒崎は洞海湾に近く、洞海(くきの
 うみ)はかっては東西に広がる遠浅の湾で遠賀川の河口(岡水門)とは川で連結していた。神功皇后が遠浅の
 洞海を難儀して航行し岡水門に入ったともされており黒崎岡田神社とも近い。
    
 古事記のいう岡田宮跡がどこなのかは両神社の縁起だけではこれだとは言い難い。貝原益軒の筑前国続風土
 記は元禄16年(1703)に成立しているが、神武天皇社のことはどこにも記述がない。岡田神社(岡田宮)につい
 ては大友宗麟によって焼き払われその跡が2~3反許あるとし、「熊手権現」の中に神社があるとしている。
 岡田神社の縁起では慶長10年(1605)現地へ遷座したとされているので風土記に岡田神社の記述があっても
 よさそうだががその記述もない事から、元禄時代に岡田神社は存在していなかったとみられる。


    山鹿古城と安徳天皇行在所跡

    山鹿古城は、九州北部一級河川遠賀川の河口付近、川幅が急激に狭まる場所の右岸(川下に向かって右側)
    にこんもりと見える岡である。対岸は芦屋(蘆屋)町市街。標高は40m、何の変哲もない平地の古城跡である。
    築城は定かではないが、天慶年間(940年ごろ)藤原藤次の築城とされる。
    現在は城山公園として整備されている。(西暦940年は天慶3年に当たり、藤原純友が乱を起こした年である。
    藤次は鎮西奉行を任じられていたので、純友の乱の鎮圧と関係があったのであろう。)
    おそらく山鹿城は一千年も以前に築かれた九州でも最古級の山城跡と言っていい。(古代には山鹿一帯は島で
    あったという)

    筑前国続風土記によれば平安時代「山鹿城」は平家の御家人「山鹿兵藤治秀遠」の居城であった。歴史を溯る
    事820年余前の治承・寿永年間、世は正に源平争乱の末期、平家一族は寿永2年8月(1183)幼帝「安徳天皇
    (治承2年11月12日(1178)~寿永4年3月24日(1185))を奉じて九州「太宰府」へ落ち延びた。当時太宰大弐は
    「平清盛」太宰少弐は「頼盛」であったが落日をたどる平家は九州の御家人「原田種直」を太宰少弐に任じ九州
    武士達の支援を得ようと期待し、太宰府へ下ったが九州武士団は与同しなかった。
    そこへ、元は平家の御家人であった豊後緒方郷「緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし:戸次氏祖戸次惟澄
    従兄弟:今でも豊後の英雄とされる豊後大神氏の一族で大神惟栄という。恐ろしき(大蛇)者の末裔という伝説が
    伝えられている。)」は、「臼杵惟隆、日田永秀」らと、肥後口、日田口、豊前口の三方よりより平家追討に押し寄
    せた。戸次惟澄は惟栄に従っていたのでなんらかの行動を共にした可能性高い。貝原益軒の筑前国続風土記
    には戸次、松浦党が源氏に味方し安徳帝が屋島へ逆戻りしたと記している。
    太宰府では原田種直を中心に激しく応戦したが平家一族は太宰府(那珂川安徳?)脱出、香椎をへて宗像郡に
    至り、垂見峠(孔大寺山の麓、現在の岡垣町と芦屋町の境界)を越えこの山鹿城へと避難したのである。
    城主の山鹿兵藤治は数千もの兵で「安徳天皇」をお迎えしたという。兵藤次秀遠は「安徳天皇行在所(仮宮)」を
    山鹿城の東10町ばかりの茶臼山に設けお迎えした。しかし平家にとってこの山鹿城も安住の地とはならず、惟
    栄の追討を恐れ豊前「柳ヶ浦」へと更に「屋島」へと落ち延びるのである。 現在「行在所跡」のある所の地名は
    「大君」というが、おそらく「安徳天皇(大君)」に由来する地名であろう。
    その後山鹿城は代々「山鹿氏」の居城となり、享禄より天文の頃は「山鹿筑前守」の在城が伝えられいる。戦国
    時代には麻生氏の城となったが山鹿氏の滅亡はよくわからない。天正15年の秀吉九州征伐の時には「麻生上
    総介元重」が在城していた。同年5月には家臣の船津三河守が秀吉に謁見した。しかし山鹿城は戦国末期には
    廃城となっている。
    山鹿城址は本丸跡二の丸跡の曲輪跡や土塁の一部地形もみられる。山鹿城跡は現地を見は西と南は遠賀川
    本川、東も支川がいり込んで三方川である。当時は最も明瞭に南の遠賀川に突き出た半島の様になっていて、
    川が堀となていた。
    大君の「安徳天皇」御行在所跡は神社が建つ。神社のある山は茶臼山というが、古くには山鹿より伸びるこの
    一帯を御弘所と呼んだ。安徳天皇は「行在所(行宮)」に居られる時、近くにあった一本の松に「鐘」を掛けられた
    「鐘掛松」と呼ぶ松あった伝わる。

          
                 安徳天皇御行在所のあった大君付近より望む山鹿城跡。対岸は芦屋市街。
                      行在所の場所は、写真の右(東へ)へ10町程。現在の大君神社付近。


     時代は下って戦国時代芦屋は、中国「毛利氏」の筑前「立花山城」攻略の足掛かりとなった地でもある。
     永禄11年8月14日大友の三老「戸次鑑連臼杵鑑速吉弘鑑理」は立花山城奪回を窺がう毛利勢を芦屋に
     攻めこれを破る。永禄12年10月12日には毛利勢を追討し芦屋に入り「筑前攪乱」の元凶は「高橋鑑種」にあ
     るとして切腹させることを一旦決する。


 (安徳台):福岡県那珂川町に安徳という所がある。古くは那珂郡安徳村といった。此処に安徳台と呼ばれる岡が
      あって筑前国続風土記巻之六那珂郡下によれば「安徳天皇」の居られた場所に因み安徳村と呼ぶように   
      なったと伝える。風土記によれば此処の丘を「迹驚岡(とどろきの岡)」と呼び安徳天皇お住まいの場所を
      「御所原」と云った。安徳天皇が九州(広義の太宰府?。太宰府とは筑紫へ下ったと解釈した方がよい)へ
      下った時、この安徳村に太宰少弐「原田種直」(平家物語には、岩戸の少卿大蔵種直とある:原田氏の祖
      は大蔵春実.。春実は藤原純友の乱を博多津で鎮圧した功績により、原田庄を与えられたとされる。)が
      居住しており、種直は安徳天皇をお迎えする時ここに「行宮(あんぐう・かりみや)」を造営、安徳天皇の住い
      としたと伝える。安徳天皇の住まわれた場所「御所の内」は脇よりはやや高く一町ばかりあり、周囲を築地
      (土塁)が回してあっと云う。
      「とどろきの岡」とは神功皇后が来られた時、此処に神田を開くため溝(うなて)を掘らせた。ところが大盤
      石に当って水を通せなかった。皇后は「武内宿禰」を呼び鏡、剣を捧げて祈ると俄かに雷電が轟き炸裂して
      岩盤を砕き溝が出来た。人々はこの溝を「裂田溝(さくだのうなて)」とよび、雷鳴のとどろいたことからこの
      岡を「とどろきの岡」と呼ばれるようになったいう。

                                                 参考資料:筑前国続風土記ほか

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