山野城  (大分県竹田市久住大字仏原字山口)

            「豊後国最大の山城

         久住連山「黒岳」南の麓、標高750mの山中にあった山城である。豊後国最大の山城とさ
        れる。城址は竹田市久住側より大船山、黒岳への登山道脇にあって、舗装された林道を
        2kmほど登った右手にある。両側は南東に走る深い谷となっている。現況は雑木林となって
        いて郭跡、空堀、土塁を確認できるが、縄張り全容を確認することは難しい。
  
        この山城は建久7年(1196)「大友能直」の先発として豊後入りした「古庄重能(重吉・四郎)が
        直入郡朽網郷逆竹の山中に築いたとされ「朽網氏」を名乗ったことから別名「朽網城くさみ
        くたみ)」ともいう。
        この場所は、豊後直入郡より玖珠方面への要所に位置する。このため備えも固く、南北には
        田北堀、入田堀、戸次堀。志賀堀、一万田堀といった大型の空堀が掘られた。
        これら「空堀」の武家は、大友氏の有力武士団であることから、朽網氏は初代「大友能直」直
        系支族として、これらの有力武士団を動員できる財力と権力を持っていたことが伺える。
        古庄重能は斎院次官「藤原親能」の子とされ「大友能直」の実弟と言う。守護代を努め、三代
        「大友頼泰」が下向するまで「朽網氏」が主家に変わり豊後を統治した。
        以後朽網氏は、大友氏の重臣として活躍するが天文13年(1544)、加判衆努めた「朽網親満」
        が反乱、鎮圧され一旦本流朽網氏は途絶える。この後「入田鑑康」が名跡を継ぎ「朽網鑑康」
        を名乗る。しかし天正14年「豊薩合戦」のおりの「島津」豊後乱入の時、「鑑康(宗暦)」の嫡男
        「鎮則」は「島津義弘」と和睦城を開渡す。この責を負い「宗暦」は自刃したとされる。
        島津が豊後森の「角牟礼城」へ攻め込んだ時は、この山野城より出立したと見られる。
        以後「朽網城」は廃城となる。
        大分県教育庁埋蔵文化財センター「大分の中世城館」によれば、「朽網城」には「三船城」の
        支城のほか「小路遺跡・上城遺跡(現水田)」の館跡が調査され、多くの掘っ立て柱跡が発見
        されている。おそらく平時は麓の邑城にいたのであろう。

              
                              山野城址位置図
              大分県竹田市久住町、国道442号「牧の元」の交差点を東へ入る
              一路およそ12kmいくと登山口に到る。手前に大船山、黒岳登山口
              が有るので此処はやり過ごすこと。数百m行くと左に入り口がある。
              (先にトンネルが見えるので、その手前を左へ)
              山野城址までは舗装された林道、案内板前に駐車スペースがある。

          

          
                左手は土塁、右空堀跡        空堀にある祠・石像は武者と思える
                                    


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